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2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2016-05-30

井伊直政イケメンなのは分かるが、何故「ひこにゃん」と呼ばれているのか?

徳川四天王として今日ではあまりにも有名な彼だが、

何故かひこにゃんと呼ばれている。

何かひこにゃんに関する伝説があるからそう呼ばれているんだとか。

個人的コーエー信長の野望イメージがあり過ぎてどうしてもひこにゃんに繋がらない。

彼がひこにゃんと呼ばれるのにはきっと相応の理由があるに決まってる。

決して直孝の間違いとかそんなダサい理由な訳がない。

何故なら徳川四天王からだ。

2012-12-21

島津がどうこう以前に、君は不勉強すぎる

本国から離れて大坂に居住し、当主としての権限など皆無だった義弘は、

島津本家の方針に逆らって、たった1000人ぽっちで西軍に参戦。

まず、勝手に動いたわけでもないし西軍につくつもりだったわけでもないよ。

当初は家康から要請を受けて手勢率いて伏見城向かったわけ。

京の守りなんだから1000人という手勢はおかしくない。


でも伏見城に着いたら城将に「聞いてない」とか言われて、

まあ徳川家中の連絡ミスだったんだろう。

ここからは「落ち着けじじい」って感じなんだけど、

この無礼に怒った義弘は「じゃあ西軍についてやる」「ぶっ殺してやる」って言い出して、

本当に西軍に走った。


しか兵力が少なすぎてまったく重用されない。

「夜襲でぶっ殺すからやらせてくれ」とか攻撃的な作戦をいろいろと献策したんだけど

例の茶坊主や首脳陣が保守的な方針ばっかり好むから却下されてしまった。

別に島津けがこういう扱いだったわけじゃなく、

 茶坊主の腹心である島左近も積極襲撃策を提唱して却下されてる。

 せっかく当時最高レベルの凄腕の戦争屋を手勢に置きながら、茶坊主は使いこなせなかったんだね。)



関ヶ原本戦では積極的に行動するでもなく傍観。

その頃までには茶坊主の戦下手と煮え切らなさを何度も目の当たりにして

もう西軍全体での勝利に見切りをつけていた。


ちなみに前哨戦では前線を受け持って勇猛さを見せ付けている。

茶坊主達本隊が決戦しないで逃げ出すもんだから殿軍を受け持ったりも。


気付いたら西軍が敗走、戦場に取り残される。

取り残されたんじゃなくて、西軍が負けるまで残ってた。

やる気がなくなってるんだからもっと前に勝手に撤退すりゃいい(そういう大名は一杯居た)んだが。

プライドの持ち方が狂ってるとかあたまおかしいという批判ならその通り。


仕方がないので正面の伊勢街道めがけて一目散に逃走。

サラッと書いてあるが

常識なら後ろに退くのが普通

だが後ろは山道だったので、ジジイ「難路だるいわー」「それなら正面の徳川本陣ぶち割るわー」と言い出して、

本当に正面に向かって撤退した。


福島正則に見逃してもらい、

あいつらなんかあぶねーからよけよう…」と交戦を避けた福島は命を拾い、

真面目に追いかけた徳川四天王の1人井伊直政は命を落とす事になった。

自分より若い武将を捨て石にして、何とか命を拾う。

それはただの「自分より若い部将」ではなく、甥だ。

他にも譜代の家臣やら兵やらたくさん捨石にしている。

まり君が思ってるよりずっと畜生だ。

義弘は命をなんだと思ってるのか。

まあ消耗品だと思ってるよね。


当然、家康激怒して島津取り潰しを画策する。

島津実質的当主である義久や、義弘の息子・忠恒が、なんとか尻拭いをして所領安堵。

連絡ミスされたぐらいで西軍について弓を引くという行動は完全にクレイジーだが、

おめおめと後方に逃げたりその場で自害したりせずに

マジキチな武威を見せ付けたことで

まだ豊臣顕在徳川にとっても不安定な情勢下、

「西の端まであのマジキチ一家を成敗に行くのは危ないな」と家康に思わせた。


これが鬼石曼子・島津義弘関ヶ原での一部始終である

ただの脳筋ジジイ勝手ピンチになって周囲に迷惑をかけまくっただけ。

冷静でも勇敢でもない、ただの馬鹿だ。

島津オタという奴等は義弘の頭がおかしいことぐらいはわかってる。

人の命を鴻毛の如く考える畜生ぶりもよく知っている。


落ち着けジジイ

「超頭悪い」

「だからかっこいい」

っていうのが島津オタが島津を好む理由だ。


君は史実についても戦国オタについてもまるっきり不勉強だ。

もう少し研鑽を積め。

http://anond.hatelabo.jp/20121221174442

2012-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20121002171048

俺としては幸村が個人的武勇の持ち主だとは思ってないけど、

あのさ、

武将の「個人的武勇」ってそもそもなんなの?


そして君は忠勝の個人的武勇についてもとうとう何にも提出できなかったよね??

で、居直って言うことには

「忠勝の逸話はすくな(ゴニョゴニョ)」「でも知名度を考慮すれば(ゴニョゴニョ)」


自分提唱した数々の謎の基準「逸話度」「個人的武勇度」を全部放棄して「知名度」だけに居直るっていうなら、

「忠勝よりメジャー武将は幾らでもいるよね、幸村とか」

って言ってるの。


何度も何度も同じやり取りを説明さすなよ

脳の代わりに頭蓋骨にチンカスつまってんのか


お、ようやく知名度を論点にしてくれたな。

徳川四天王最強にして、名槍・蜻蛉切を振り回して戦場を駆け、しかしまったく傷を負わなかったという猛将」

っていうイメージ自明だと思ってたけど、増田が「そんなイメージねーよ」って言うならそうなんだと思うよ。

徳川四天王(笑)をぶち抜いた武将って複数人いますねw

大体お前が言い出した一言坂で武田に情け掛けられて命つないでるじゃねーか

どうなってんだお前の脳は

http://anond.hatelabo.jp/20121002164553

えっ

幸村の武勇の士としての知名度が忠勝に劣るっていうの?

幸村(あるいは別の誰か)が豪傑だと思うのであればそう主張してくれればいい。

俺としては幸村が個人的武勇の持ち主だとは思ってないけど、

増田が「忠勝より幸村のほうが上だ」と主張するのを否定したつもりはないですよ。

お前の「一般にそう思われている」っていうのはどこ情報なんですか?

お、ようやく知名度を論点にしてくれたな。

徳川四天王最強にして、名槍・蜻蛉切を振り回して戦場を駆け、しかしまったく傷を負わなかったという猛将」

っていうイメージ自明だと思ってたけど、増田が「そんなイメージねーよ」って言うならそうなんだと思うよ。

少なくとも「決して自明ではない」ということで、

「忠勝を選出するには議論の余地がある」という話にはなるね。

個人的に、戦国時代から一人は入れたいんだけど、

他の候補がどうも逸話がしょぼいかいまいち知名度が低いかなので、

増田がこれぞ文句なしと思う豪傑を挙げてくれれば喜ばしい。

2012-10-01

日本三大「豪傑」選考

「豪傑」にもいろいろあるが、ここでは、個人の武勇、それを示す逸話、そして知名度を鑑みて選考する。

ただし数が多くなるためいわゆる「剣豪」は除いた。あしからず

藤原秀郷

俵藤太。大百足退治。

武勇については問題なし。

知名度でどうか。

源頼光渡辺綱坂田金時

頼光四天王を率いて酒呑童子や土蜘蛛を退治。

対戦相手は最強クラスだが、頼光本人の武勇がよく分からない…。

源為朝

西八郎。保元の乱活躍

一矢で船を沈めたとも。

大蛇退治の逸話もあり。

那須与一

屋島の戦い、扇の的。

為朝と比べれば落ちるか。

武蔵坊弁慶

五条大橋での刀狩。立往生。

知名度は随一。

小島太郎

小島

猿や犬を懲らしめる。

実在が疑われる。

七条兼仲

餅。

薄田兼相

岩見重太郎モデル。狒々退治。

史実では大坂の陣奮戦

本多忠勝

徳川四天王

意外に武勇を示す逸話は少ないが、知名度だけで他の不足を補うレベル

加藤清正

朝鮮での虎退治。

現在では豪傑というよりも名将として評価されていると思われ。

雷電爲右エ門

伝説的な力士

他の候補者と比べて異色ではあるか。

暫定で選ぶなら「源為朝」「武蔵坊弁慶」「本多忠勝」。

こうして見ると昔のほうが逸話スケールが大きいので、

忠勝に代えて源頼光(with四天王)を入れ、

三大怨霊みたいに平安時代で固めてしまってもいいかもしれない。

意見を求む。

南北朝とか思いつかないんだけど誰かいたっけ?

 
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