WWDC2015観たがApple大丈夫か?みたいなのと、そのブコメを読んで、急にスッキリした。
Appleは、表で魅了するビジョナリストと、影で徹底するリアリストの両輪の会社だったんだな、と。
Appleは、特にジョブスが追放後に復帰してからは、「Cool」なブランドイメージの構築にシャカリキだった。
だからこそ、クールで無いモノはアッサリと捨てられた。皆が早すぎると思うタイミングで。
フロッピーディスク、Flash、CDドライブ、イヤホンジャック以外のインタフェース。
逆に言えば、それ以外の「基幹的な技術」は、大したことが無かった。
Appleはクールなブランドイメージとは裏腹に、絶対に逆鞘にしない会社だった。
どんなに高いと言われようが、利益にならない製品は売らなかった。
逆に言えば、凄まじい勢いで、見切って行った。
そして、クールな製品が安いと判断された時点で、市場を制覇できた。
ジョブスの変質的な「今まさに必要な製品を市場に出す」コダワリは、ほどよく成功した。
iPadではなくiPhoneから、MacOSではなくiPadから。
忘れがちだが、ジョブスのファナティックな執着は、それほどの熱狂を生み出さないこともあった。
歴代のiPod nano、Apple TV、いくつものOSのギミック。
また、ジョブス本人も「これ何に使うんだ」と思っているものが売れることもあった。iPod Touchが良い例だ。
そして、デザインやクールさに金を出す、空前のベータテスター達が生まれた。
繰り返しになるが、Appleの製品に逆鞘は無い。必ず売れば売っただけ儲けが出る。
どんなに性能が低くても、使い道が不明でも、不満が生まれても、売れさえすれば儲かる。
だから、事実上のベータテスター達が大量に居ることで、儲かりながらテスト出来る。
Apple Watchは、後発の時計メーカーとしては凄まじい勢いでスタートした。
Appleは、そのクールさが維持できている間は、ホトンド無敵のハードウェアメーカーだ。
AppleWatchしかり、Macbookしかり、どんなに欠陥があっても、アーリーアダプターであろうとする人達が買う。
そして、その不満点や運用上の問題点を取り込んで、高速に改良品を作り上げて販売する。
3,4世代もすると、こなれた製品になり、一般消費者もこぞって買う。
そこまでに、Appleがハードウェアを販売することで損することが無い。
とんでもないレッドオーシャンに後発組としてドヤ顔で乗り込んでいって、そして成功する。
(失敗したとしても損することだけはないので、簡単に切り捨てていける)
AppleはAmazonとは真逆の経営方針で運営されている。
MicrosoftやGoogleのように、ビジョンを全面に打ち出す必要すらない。
売れば売っただけ儲かる。売ったものからフィードバックを受けて改良する。
ハードウェアメーカーの王道であり、恐ろしいリアリストが経営している。
機械学習やIoTのような「今すぐカネにならない」ことを吹聴せずに着実に儲ける。
「これからはウェアラブルデバイスだ!」とAppleが言う時は、利益が出る製品を出す時だ。
GoogleやMicrosoftや、その他未来の技術を謳う企業は、プロシュート兄貴に怒鳴られると良い。
「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!
人がよく使う愛だの才能だのやたら便利でなんにでも使えるしどうとでもいえる言葉を、もっと狭くて不便な言葉にどう言い換えるかをよく考える
そう考えると「俺には才能がない」なんて、恥ずかしくていえないしいいたくなくなるね
まあね、能力ってつまりそれまでやってきたことに由来してると思うんよ
こういうと才能には努力ではどうしようもない部分があるからと言われることもあるだろうけど、あんまり問題じゃないんじゃない?
プロ野球選手が事故で手足を失ったとしても、人生が消えたわけじゃない
それまでの人生を発揮する手段を失っただけ。手を失っても足や口で絵を描く人もいる。もちろん容易なことじゃないけど、それまでの才能は無意味じゃない
同じように生まれつき手足がない人も、才能を上手く発揮できないとしても、才能自体を持てないわけじゃない
そしてどんなに才能があっても、身体的な制約で越えられない壁もある。シビアだけど事実だからしかたない
「才能」だけじゃなく「努力」も「人生」に言い換えてもそんなに支障はないんじゃないかな
だから才能と努力はだいたい同じもの。議論になるようなものが、結局ほとんど同じものでしかないってことは割とよくあると思う。似てるから区別しようとするわけだしね
ほら、きのことたけのこも大して変わんないし?
キュキュットの白い奴は水ですぐに洗い流せるけど、ジョイコンパクトは水で流してもしばらくぬるぬるが残るから手でこすって洗剤を落とさないといけない
キュキュットのほうが便利
知り合いが酒を無理矢理すすめようとするので、どんな気持ちか伝えた。
水の中で泳ぐことに例えた。
僕が水の中で泳ぐのが気持ちいいのと同様に、お酒を飲んで気持ちよくなる人がいるのは知ってる。
君が泳ぐのが嫌いなように、お酒が嫌いな人もいる。
お酒を勧められるのは「泳いだらむっちゃ気持ちいいよ(北島も言ってただろ)」って勧められるのと同じ感じ。
でも君のように水に恐怖心を持っている人だっているだろ?
でもだいたい勧めるやつはこういうんだ、「練習すれば泳げるようになるから」。
大人になってまで無理に水の中で泳ぐ練習する必要性を感じない君は、当然断る。
でもやつは「まぁまぁ」とか言いながらグラスにビールを注ぐように君をプールに突き落とす。
必死でプールのふちにつかまった君の手を、飲み干せと言わんばかりに蹴りとばす。
プールの水を飲みながらもがき苦しむ。
その場を離れようにも水面にぴったりと鉄板の蓋をされるように肩をつかまれ、死の危険を感じる。
おわり
自分も世代だけど、そんな熱く語れるほど内容覚えてないんだが。ブウ編はもう読んでなかったし。
というかセル編ブウ編が不人気って、単に人気ピークだったベジータ編フリーザ編辺りにはまってた子が
その頃は卒業年齢になってた、ってだけじゃないの。
傘は雨合羽着れと散々言われてるだろ
かつては職場の飲み会に不参加も参加しても飲まないも許されない、と言う文化がごく普通にあって
それなのに車が無けりゃどこにも行けない地域ってのもいくらでもあって、
そういう場所で飲酒運転しないってのは社会的な死を意味していたんだよ。
警察の大々的な飲酒運転撲滅キャンペーンによって、ようやっとそれが「職場の飲み会でも車なら飲まなくても良い、と言うか飲む奴がDQN」が常識というように書き換えられたんだよ。
酒飲んだ本人だけではなく飲ませた周囲や酒出した店までもが罰せられる法律に変わり、実際捕まる奴が大勢出たからな。
一時期はちょい社会的地位がある(大企業勤務とか公務員とか)人は、ただ飲酒運転したというだけで事故などが無くても勤め先込みで実名テレビ報道されてたからな。
そこまでしてやっと文化が変わったんだ。
(今でもDQN職場ではまだ飲むのが当然という場所もあるかもしれんが、少なくともまともな職場で飲酒を強制される事はなくなった)
みんなに、見捨てられたのかな。
ジジィもババァも、何故カフェでじっとしてられないのか。
電話してみたりカバンや荷物ガサガサやったり何度も立ち上がったり。
足腰も悪いし動くだけで目障りなのに。
それに無駄に席を二つ取って座れなくするよな。
自転車乗るなら、すくなくとも傘ではなくレインウェアを着ろよ。ずぶ濡れになれなんて言ってない。
車道を走れないところで、危険回避のために一時的に歩道に乗り入れる分には黙認されているだろ。
逆に、車道が走れるくらい車線が開いている場所で、車道を走れないなら教習所を作って教習を受ける必要性があるって言ってるだろ。
前に読んだことのあるノンフィクション作家。
以下、本人のtwitterプロフィールからひとつずつ突っ込んでいく。
作家。
死にかけ体験8回。
→前は3回くらいだったから数年で5回も死にかけたのか。
趣味兼仕事は旅と冒険。弓道、ジョグ、ジェットスキー、スノボ。
→前から旅好きな人だったようなきもするが、スノボしてたのは初耳。
懸垂毎日100回等。
→見るからにひ弱そうなんですがね…。
カジノと株はほぼ常勝。
→「ほぼ常勝」って日本語生まれてはじめてみた。たまに負けるってこと?
世界紀行120カ国余。
→紀行って旅行中の体験・見聞・感想などを書きつづった文章じゃないの?出版されてるんだろうか。
単著は約100点余。
→アマゾンで調べても100も出てこない。国会図書館でも100も出てこない。
→電子書籍は題名変えたり、章ごとにわけるなどして冊数稼ぎ。そしてどれも売れてない模様。
不定期有料マガジン1万7500部。
→Twitterのフォロワー数が17,200人くらい。メルマガ購読者数のほうが多いという謎。
著書累計725万部。
→調べようはないけど多分嘘。
→調べても全く出てこない。
という感じ。なんだか残念な人になっていた。
この他にも、ネット界隈を見てみると、
エンタメの物語(アニメとかラノベとかマンガとか)において主人公は特別(ユニーク)であることがやはり求められるんだよ。「他でもないその人物を主人公にした意味」ってやつが要請されるから。そしてこれらの物語ではやはり最終的に勝利が期待されるので、逆説的に主人公は強者であったことになる。勝ったと言うことは強かったんだろう、少なくとも最終的には強くなったんだろう――という構造。
※余談だけどこの構造に対するアンチが「ラッキーマン」とかだよね。
しかし一方でこれらの物語の主人公は、読者の感情移入点、アバターとしての機能ももとめられる。「まるで自分のようだ」みたいなポイントがあれば作中世界に入り込みやすいし読書体験は盛り上がる。でも当然読者は「勝者になるべき特別な存在」じゃないのでそこで乖離が生じる。
この乖離を穴埋めするために、主人公は作中で努力なり修行なりをして「読者である自分はやらないけれど、もし実際やったとすれば、これくらいの成果は手に入れられるんだろう」みたいな納得を読者に与える事になる。説得力があれば納得が高まるのは言うまでもないんだけど、しかしそれでも優先されるのは「納得」であって、その努力をちゃんとすれば本当にその成果が手に入るという実証研究ではない。
※この「納得」に対して別方面で行われるアプローチが「血筋」だ。優れた親の子が優れてるとは限らないんだけど、物語的にはかなり説得力のある論理として扱われる。DBの悟空もそうだし、NARUTOもそうだし。
「この主人公は努力してないように見える」ってのは作中の事実(描写)に対する否定じゃなくて、「読者である俺には納得が不足している」って言うことを言い換えただけなんだよ。