はてなキーワード: 公理とは
単純に上の連中が失敗して割れているだけでその反映以外の何物でもない。そして失敗や仲間割れの是非は日本の公理のようなものとして黙殺される。そしてむろんのこと善意も良俗も嘘で、悪意と本音が主体の最悪の国。
東大数学博士に学ぶ数学世界 - 「数学は方法である」をめぐる談義
http://t.hash.bz/archives/2526249.html
読んで違和感を感じたことをいくつか。
身内にばれるのがいやなので、ここで書く。
「数学」に対しては、見る立場によっていろんな見方ができる。
数学という方法を使うと世の中はうまく理解でき、予測ができる。
このあたりの問題は数学をいくら勉強しても分かるようになるわけではなく、
どちらかと言えば科学哲学の分野。
議論を始める前に、科学とは何かという基礎知識が必要だと思う。
などがある。
例えば、科学と聞いて原子爆弾や原子力発電所、パソコンやテレビ、蛍光灯などを思い浮かべる人もあると思う。
iPhoneを見て「科学ってすごい」と思ったりするかも知れない。
これは科学という言葉が製品そのものを指したり、それを作るための技術を指したりする場合。
それがなぜなのかは誰も分からない。
一時期、「科学技術」か「科学・技術」かでもめたことがあった。
今もそうなのかもしれないけれど。
科学にそれらの「技術だけ」を求めている人にとっては、「科学=技術」なのかもしれない。
いや、「科学の目的は技術ではない」と言っても良いと個人的には思う。
技術屋さんは科学を利用しているのであって科学を学んだり研究しているのではない。
いろんな意見があるかもしれないが、ここではいわゆる「理論」を作ることとしておこう。
では「理論」とは何か。
それは「現象を理解する方法」である。
その理論を使えば、どれくらいの早さで落ちるかという予測ができるようになる。
それだけではなく、「りんごと地球がひきあっていると考えれば理解しやすい」ということも分かる。
理論がなければ「りんごが地球を引っ張る」という発想は生まれにくいだろう。
そのような新しい見方ができるようになる。
繰り返すが、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
では、どうしたら自然に現象を理解できるか、ということが問題になるだろう。
それらの方法を指して科学と呼ぶこともある。
このようなことを繰り返しているうちに、理論には一つのパターンが現れていることに気がつく。
「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言った人があるらしいが、
ここでは、証明とは何か、公理、定義、定理の違い、などについて説明する。
証明とは何だろうか?
平たい言葉で言えば「間違いないと確信できる証拠」ということだろう。
例えば「彼女が浮気していた証明」など、その人は「確信」するかもしれないが、
本当にそうかどうかは究極の所分からないだろう。
そこにはいくつかの危うさがはらんでいる。
何かを証明したいのは、正しいかどうかがハッキリしないからだろう。
そこで、正しいことから「論理」を使ってそれが導ければ正しいと確信できるだろう。
では、何を持って「正しい」とすれば良いのか。
場合によっては「私が正しいと思えればそれでいい」かもしれない。
そこで、数学では「最初にこれを正しいと仮定しましょう」とする。
そしてその公理から「論理」を使って導かれたものが定理である。
時々「公理が正しければそこから導かれた定理は正しい」と言ったりするが、
厳密に言えば「公理が正しく、論理も正しければ、そこから導かれた定理は正しい」となるだろう。
しかし、そうやって考えている論理は正しいのか?という疑問も起きる。
そこで、最初に正しいとこれはしましょうというできるだけ公理を定める。
こうして、導かれた定理がどれだけ信じられるかは、
数学とはこういう形をしている。
そうすると、科学理論もそういう形をしているということである。
現象を理解するために、何か仮定を置く。
「その仮定」も「数学」もきっと正しいだろうと信じられるわけだ。
数学という学問は理論の中からそのような「仮定」「実験」「予測」を取り去ったものだ。
時々、数学者は全く役に立たないことをやっていると言われることがあるが、
それを使う人が「役に立たせる」だけのことである。
ブログの記事に戻ろう。
上で書いたような「仮定」「公理」の部分でつまづいているのだろう。
つまり普通の感覚で言えば、「数学」というものを使って理論を組み立てようとは思わない。
しかし、様々な理論に共通に現れているため、その部分を抜き出し、洗練させてきたのが数学だから、
それを使う人にとっては、数学を利用することはある意味ではとても不自然なことになってしまう。
僕の周りの数学者はこれらにとても慣れているので、
この時、僕はベクトルの使われ方、柔軟性に驚いた。
要するに、対称が何であろうとも「ベクトル」にしてしまえば後は「ベクトル」を扱う数学の世界のルールで加工することができて、
「数学は役に立たない」とか言っている人の理解もそうなのかもしれない。
科学が強力な力を持っているように、数学は科学理論の中で強力な武器である。
この重要性はもっと声を大にして叫ぶべきなのかも知れない。
確かに数学についてある程度理解していて、それを客観的に見られるだけの余裕がないと、
ふむ、これを、どうしたら伝えられるのだろうか?
しかし、いくつかの誤解もあるようだ。
公理はその内部で論理的に矛盾していなければ(たぶん)どのようなものを定めてもよく、一緒に使われない複数の公理が相互に矛盾することもふつーにあり得る。
しかし、そこから導かれた定理およびその解釈が、現実の予測に合わないのであれば意味がない。
数学そのものの正しさは誰も疑わないだろう。
ならば、もし予測に合わないのであれば、その最初の決めごとが不適切であったということになる。
ここで「なぜ」と問うことは意味がない。
逆に言えば「そうするとうまくいくことを示す」必要がある。
もう少し厳密に考えてみよう。
例えば万有引力の法則では各惑星は質量はあるが大きさはない質点と見なす。
「どうして?」と問われれば「そうするとうまく行くから」というのは一つの答えだ。
しかしもう少し言えば、
「そう仮定しないと計算が難しすぎる。そう仮定すると計算が簡単になる。
そしてその仮定した結果でもそれなりに精度の良い予測ができる。
ならば現実問題としてはそのように仮定するのは許されるのではないか。」
ということだ。
「数学」を知らないと、この「数学からの要求」があることが理解できない。
そして、その個々の必殺技はかなり用途が限定される場合が多い。
それは「科学」を学んだ人とそうでない人の違いのようなものだ。
その様子だと意図が伝わって無さそう。
ところで君ならどう切り返す?
http://anond.hatelabo.jp/20101214160850
挙げてる用語の分野が偏り過ぎで、いかにもそれしか勉強してねーんだろうなあというのが丸わかりなのが痛々しいということ。
それをどういうレベルで理解してるかというのはあまり関係ないと思う。
確率論自体の危うさと、それがコルモゴロフ流で構成されてるかどうかは関係ないと思う。
公理的確率論はあくまで構造の表現の仕方の問題なわけだし、測度の構成が微妙な問題では違いが出てくるかもしれないけど、現実へのアプリケーションではまぁ無いだろうし、あっても「計算できません」というだけに過ぎないよね。
「美しいプログラム」とは、処理に無駄も不足もないプログラムのことで、
見た目が(一般的な意味で)美しいことは必ずしも必要ではない。
極端な話、見た目だけばっちり整ってる「美しくないプログラム」もあれば
一般の人が見て「全然わかんない、なにこれ?」的な「美しいプログラム」もある。
「一般人に」美しいプログラムかどうかを「見て」判断しろというのは、
すごく乱暴な論であって、ちゃんと経験を積んでるプログラマの発言とは到底思えない。
プログラムが動くことを教えて、動かないことを教えない理由は、
動かない理由なんて、それこそ星の数よりもたくさんある。
それをいちいち教えるなんて、「1+1=2」を教える必要があるときに
「1+1≠3で1+1≠4で1+1≠5で…だから1+1=2」と教えるのと同じことだ。
そんなことやってたら100年経っても実践に移れないし、移ったところで
もちろん、誤解しやすいところはいくつか取り上げるくらいはあるだろうけど、
動くコードを書くには、正しい書き方を教えるほうが断然効率がいい。
「東大卒・早稲田法科大学院卒の入社希望者をエントリーシート段階で落としてやった、少し優越感」と
しかし、中小企業などでは、「あなたはウチに来るには、あまりにも高学歴過ぎる」と
「おことわり」するケースは、案外多いらしい。
思うに、日本の「中小企業が多い産業構造」に対して、「あまりにも大学を作りすぎ」てしまい、
「社会が必要とする学歴比率」に対して「オーバースペックなまでに社会が高学歴化してしまった」
ということはないのか?
今までであれば、「若者の高学歴化は、当然必要な政策・望ましい政策である」という
「疑いようがない公理」があって、「受入側こそ、高学歴を使いこなせるよう、職種の高次化を
進めるべきだ」との論調が主流であった。
しかし、逆の発想として、「職種の高次化がなかなか進まないのであれば、若者の『行き過ぎた』
高学歴化の方を抑える」方が、現実に即した政策にならないのか?
高卒比率が増えると、一見年収が低く抑えられて「不利」に見えるが、
生涯勤労年数は「大卒比で4年は増える」(1割増える)ので、実は生涯トータルで見れば大差ないのでは?
加えて、年金加入年数も増えるので、その点でも有利。
また、実質的に親が負担している大学教育コストも「不要」になるので、「親子連結家計」で見れば、
なによりも、第一子の親になる年齢が30代⇒20代と若くなるので、
大卒だと「30代で第一子作り⇒体力・精神的に参ってしまって、子供は1人だけ」
のようなところが、高卒だと「20代で第一子作り⇒体力・精神的に余裕があるので第2子も」
となり易い。
そろそろ、「大学進学率が高いほど、望ましい社会だ」という「社会学者・政治家の常識」を
疑ってかかってはどうか?
(※ 追記しました。)
なわけありません。元ネタは
http://alfalfalfa.com/archives/1374811.html
で、
http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/
とかで議論されている。この問題は
の話が混じりあい、おかしな事になっている。
だがそんな中で、「これは数学では全く同じものだから、くだらない、国語の問題だ」とか言って思考放棄してる連中が多すぎて反吐が出そう。おまえら、どうやって掛け算計算しているんだ?3×5=5×3は、定理より導かれる帰結なんであって3×5と5×3が同じ意味なわけがない。
ここでは、「高等教育を習った人向け」に、数学的に5×3と3×5を区別するべきことを説明する。
suzusuke氏も算数科学習指導要領解説から引用していることであるが、数式とは思考過程を表現する言葉(ツール)である。
Aさんがりんごを1個、Bさんがりんごを3個、Cさんがりんごを2個持っていました。合計は?
これに対して、
4+2=6、よって6個
と書いたら、だれにも伝わらない。4って数字がどっから来たのかわからないからだ。
いくら「1+3=4なのは数学的に等価だ!」といっても、それはお前の頭の中であって別の話である。
6であるということを証明するには合計を計算するにはすべてを足せばOKという共通認識を持った上で
1+3+2=4+2=6
と示さなければいけないのである。無論、バックグラウンドで了解が取れるなら
1+3+2=6
といきなり書くことは何ら問題がない。大事なのは「1+3+2」と「1+3+2=6」は言葉として意味が違う、ということだ。どう考えたか、をできるだけハッキリした形で表現できるツールが、数式なのである。
お前らは「3×5も5×3も同じじゃないか」とか言うかもしれない。じゃあ聞きたい、「その同じと言ってる3×5とはなんなのか」を。まさか九九を信用して「3×5=15」のことだ、とは言わないだろう。
ここで、「定義」の必要性が出てくるのだ。掛け算はあまりに普遍的すぎて、そこを忘れやすい。そこで我々は×という記号を
3×5 = 3+3+3+3+3
のような略記である、と「定義」するのである。
ここで、お前らは英語圏では
3×5 = 5+5+5
と定義しているぞ、バカが。と言うかもしれない。そのとおりである。それで一向にかまわない。だが大事なのは「数学は可能な限り簡潔な定義でなくてはならない」ということだ。つまり、
3×5 = 3+3+3+3+3 または 3×5 = 5+5+5
なんて自由度を与える定義はあってはならないのだ。そもそも、計算してみないとほんとに等しいかわからない3+3+3+3+3 と 5+5+5 のどっちでもいいよ、ていうのはwell-definedにならない危険性さえある。とにかく、定義は一つで済むなら一つにするべきなのである。
あくまで定義の仕方が2通りある、ということだ。定義の仕方自体に絶対性はない。そして、日本では前者のほうがしっくりくるから、とりあえず前者で定義している。定義なんだから、ローカルルールも小学生限定もない。そこを履き違えてはいけない。
ちなみにそんなこと数学で習ったことない、という奴もいるだろうが、当たり前である。高等数学では上記のような略記であるとは定義しない。それは0とか負の数とか、小数とかが入ってくると上記の定義では不足するからである。だが、はじめは自然数だけの世界で議論するなら上の定義が一番素直なのである。
では、上記の定義を教えた、という文脈で数学的に「5皿でそれぞれ3つのりんごが乗っている、りんごは合計で?」の解答を考えよう。
15個。
誤答。これは回答になってない。文章中に15という数が書いていないので、どこから15が出現したかわからない。
3+3+3+3+3 = 15、よって15個
正答。3個のものを5皿あるんだから足し合わせるのは自然。式変形は当たり前なので省略したのであろう、当然
3+3+3+3+3 = 6+3+3+3 = ...
としてもOK。
6+3+3+3+3 = 15、よって15個
誤答。たしかに3+3=6だが、それを計算したかどうかが伝わらない。数学的に等価だ、なんて理由にならない。
5+5+5 = 15、よって15個
誤答。文章中に「5個」という言葉が出てない以上、はじめの式の5は「5個」と解釈できない。だから足しあわせた結果はりんごの数を表現しない。
同じ数ずつ乗っているなら1個ずつ配っていくことで数えられる。一周で配れる量は5個で、3こずつ配るから三周する。よって
5+5+5 = 15、よって15個
正答。数式中に現れる5をリンゴの数だと説明しているからである。
3×5 = 15、よって15個
正答。我々の定義に従えば、その2の略記でしかない。
5×3 = 15、よって15個
誤答。我々の定義に従えば、その4の略記でしかない。すると同じ理由で間違い。
3×5と5×3は数学的に等価だ、なんてもう言わないよな?それを認めるとその3でさえ正しい。
数式とは「定義」という共通認識のうえで言葉を話すものであって、別の記述をしたら「偶然正しい」のか「根拠があって正しい」のかわからんのである。
結論は
数の概念を整数一般に拡張させると、掛け算の定義は上記では不十分で、分配結合則など環の性質にその本質があることに気がつき、そこに定義を移すことになるがまた別の話。そこまで行くと公理とは何か、整数とはなにかを考え直す必要が出てくる。そこで可換性自体は代数構造には不要であることにも気づくはずだ。
大事なのは定義を尊重する姿勢と、定義そのものに着目する(そして、定義そのものを疑う)姿勢を合わせ持つこと。ローカルルールだ、とか押し付けだ、とか言っているやつらが、実は一番思考停止してる。
まぁ小学生にここまで考えさせるのは、正直厳しいが上記正答例、誤答例を示してみるくらいはいいんじゃないか、と思う。
トラバが付きまくってるwみんな好きだね。
言いたいことが伝わらなくて、もどかしい。
ここまできて、根拠が「それが普通」だからてお前・・・。
今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃイカんでしょ。
「普通」には根拠はないだろう。「慣習」と言い換えてもいい。だから、この定義を疑うことが大事。ただ、一番最初に習う定義として、これを使うことが多いということである。
「それが普通だから正しい、それ以外は間違い」に集約される、と。
バカみたいだな。
「普通だから」ではなく、今の文脈では「3×5 = 3+3+3+3+3 を定義として採用するから」である。まずは定義を信用し、それ以外は知らないものとして扱わなければ数学じゃない。
m×0=0
m×(n+1)= m×n+m
まー俺なんぞが独力で導入できるような概念じゃないけど
それで定義すると、m × n = m + m + ... + m (n times) = n + n + ... + n (m times) = n × m が定理になるんだろう。
ようするに、どれが定義かって話じゃん。
そう、上記の「普通」は普通じゃないだろと気がついたときに定義に変更が加わる。そしてこちらの定義のほうが美しい。だから「これが掛け算の定義だ、そしてこれを定義にすればこの定理は明らかだ」という「文脈」では、5×3と書いても3×5と書いてもいい。
文脈についても議論がされているようだが、文脈こそ数式を語る上で重要なものだ。何を定義にするのかというのも文脈だし、どの定理を認めるかも文脈だからだ。
たぶん、5×3も3×5も同じ物と主張する人は可換性を自明としている。それこそが文脈である。しかし数学で何が文脈なのかは、状況によるし、今回は掛け算を定義したばかりなのだから可換性を自明とするのはおかしい。
「1皿につきりんご3個」と表現した時点でそれは3個/皿という比率しか現していない。3個+3個+3個+3個+3個=15個と言いたいらしいが、前処理を済ませない限りその3につけるべき単位は個ではなく個/皿でしかない。3(個/皿)+3(個/皿)+…、おいおい、比率って足せるのかよ?
単位の話をすると少し難しくなる、というか物理がわかんないのでそこを正確に語れない。だが、あなたの主張を通すと 3+3+3+3+3=15 は間違いだ、ということにならないか?これを否定されるとどうしようも無い。
移動するのはいいよ。本当は移動してないんだけど。各点はそのままなんだけどね。「ビニールシート」の理解がこの問題で一番ダメな理解の仕方なのさ。
どうせ例えるなら風船にしなさい。
で、ビニールシートにある点(太陽系ならそれでもいいけど)は、ビニールシートが拡大すると「外」の方角へ向かって動くわな。これダメな理解。
では、風船に点を打ったとする。そして風船をぷーーっとふくらます。さあ、点は「外」へ移動しましたか? その場所にい続けてるだけでしょ? そもそも球面における「外」はどこにあるのか。
この球面(ここからは風船じゃなく球面と呼ぶ)に、では2点、打ってみましょう。そして球面が膨張するとする。2点間はどんどん離れていくよね。でも2点は静止したままだ。
ここで球面の理解を「ゆがんだ平面(2次元)空間」と思おう。この面以外に世界はないと。こういうゆがんだ2次元のモデルは他にもたくさん考えられている。それぞれ「○○幾何学」というジャンルになるんだけど、我々がイメージする平面は「ユークリッド幾何学」に過ぎなくい。例えばユークリッド幾何学の公理としては「平行な2線は、どんなに延長してもぶつからない」とある。まあそういうものとして舞台となる平面座標を構築したわけだけど。ところが球面ではそうじゃないわけだ。地球の表面も球面だから、例えば君と僕がまったく並行に同じ速度で北に向かって走り出したとする。そうすると必ず北極でぶつかるんだ。球面はユークリッド幾何学の範囲外だからね。
現在、宇宙はこの「球面」が3次元になったものだと考えられている。だから「外側」という概念がないんだ。宇宙には中心はない、だから「外側」もない。
どうしてそう考えられているのか。
これにはいくつもの理由があるんだけど、分かりやすいものを一つあげると、「地球から観測できるほとんど星は、距離に比例した速度で遠ざかっている」というのがある。
普通に考えてこれおかしいよね。だって宇宙にどこか中心があって、そこを中心に膨張しているなら、地球から見て中心側にある星、外側にある星、地球と多少角度は違うが併走している横に見える星、すべて観測できる速度が違うはずなんだ。ところが実際はどの方角の星も地球からの距離にほぼ完全に比例した速度で遠ざかっている。
ここから考えられることは二つ。一つは地球が全宇宙の中心にあり、かつて地球のあった点でなにか大爆発があり、そこから飛び出た星が今も広がり続けている。ユークリッド幾何学的に考えたらこれしかないんだ。でも、これがありえると思うかい?
そこでもう一つ考えられることが先ほどの「球面」を3次元にしたモデルなんだ。球面のどこかに点を打って、そこを地球だと考える。そして他の点もバシバシうつ。そんで球面がバーっと広がると、あら不思議、地球から見て全ての星が距離に比例した速度で遠ざかっていく!
「空間が膨張」ということの正体はこれなんだ。だから宇宙には中心はない。中心がないから外がない。
ではなぜ、銀河がぶつかるか、という話。それは空間が膨張してるのに君と僕の距離がなぜ広がらないか、ということと関係している。答えは簡単。膨張する力より強い力で引き合ってるから。引き合う力はいくらでもある。分子同士の結合とか電気とか磁気とか重力とか。そんなこんなで引き合ってるから君と僕は離れないし地球も同じ大きさのままだし太陽系は同じ感覚でぐるぐるだし、銀河もぐるぐるなんだ。だから膨張する空間に流されずにくっついたまま独自のルートでうろうろ、そうしてるあいだにはお互いの重力でひきあって銀河同士が衝突なんてこともあるのさ。というか基本的に銀河同士はいつも重力で引き合ってて、その集まりで「超銀河団」てのを作ってる。超銀河団に集まっちゃうからそれ以外の空間てほんとうになんもないんだぜ。
で、「外」の話。外がないというけど、ちょっと考えを変えるとあるかもしれないという。それは「重力」の先にあるものなんだ。重力って何?ていうと、今ではこう考えられている。ゴム膜をピーンと張ったとして、そこに大きいビー玉を一個置く。するとビー玉の重みでゴムがゆがみ、その周りに小さいビー玉を置いても、最初に置いた大きいビー玉の方に転がっていってしまう。ゴムの膜しかない世界は2次元だけど、これの3次元バージョンが重力だと考えられている。
ではこれにものすごく重くて、だけどすごく小さいビー玉を置いたらどうなるか。膜が破けるかもしれないよね。そしてその瞬間そのビー玉の周囲にあったものは全部穴に吸い込まれていっちゃうよね。これの3次元バージョンがブラックホールで、その先に膜以外の世界=「宇宙の外」があると考えられている。
「除法は乗法の逆演算」
という「定義」にいきつく。
それは、小学生にそういうきまりだからと教えるのと同じでしょう。
全く違う。「逆数を掛ければいい」というのは「除法は乗法の逆演算」であるという定義(これは直観的な理解と一致するといってよいだろう)から導出されてきたものだ。これは決して自明ではない。
嘘だと思うなら、体の公理系を与えて「除算は逆数を掛けることと同値なことを証明せよ」というのを大学新入生あたりに出してみな。できない奴続出だから。
もちろん、こういう代数的な公理系は我々の直観を正当化するために後から作られたもので、小学生相手にはそういう「直観」的なレベルの説明を教えている。それについては「水道方式」をぐぐってもらえばわかる。そしてそういう直観的な説明というのを抽象数学の用語で言えばああなるだけだ。
主張したい文章:1+1=2
・文中に「絶対」や「~だけ」という言葉を使ってはいけません。
・悪例文:「絶対1+1は2だ」「1+1が2になるのは数学の世界だけ」
→批判したがる人はそういう言葉が大好きです。何故なら、一部の例外を重箱の隅をつつくように探し当て、
「ほーら絶対じゃなかった」「ほーらそれだけじゃなかった」と、彼らは
「こういう例外もあるのに簡単にそんな言葉を使ってしまうなんて軽率すぎる、頭悪いねw」と、ドヤ顔で言うに決まっているからです。
叩く文:「国語の世界は1+1が2にも3にもなるって言う言葉もある。絶対1+1は2だと言ってる元増田は脳みそ足りてないねw」
・文中に刺激的なキーワードを使ってはいけません。
→批判したがる人は刺激的なキーワードを見ると脊髄反射で「よし批判してやろう」と思います。
叩く理由なんて何でも良いのです。ちなみに、誤字脱字も批判の対象になるので注意が必要です。
叩く文:「こんな所に書き込んでるお前の方が池沼w」「あれ、じゃあそんなことも計算出来ないお前が池沼じゃんブーメラン乙w」
・長文を書いてはいけません
・悪例文「1+1=2であることを証明するためには、まず公理系を作成…(ry」
→批判する人は長文なんて読んでません。あるいは一部分だけ読んで重箱の隅をつつきたがります。
一部分を批判できれば全体を批判した気分に浸れて満足だからです。
叩く文「本当に頭良い奴は、俺にも分かるように書けるはず。出来ないこいつは馬鹿の方w」
以上のことをふまえて、完成した叩かれない文は以下の通りです。
結論文:「1+1はあびゃびゃびゃびゃwwwwww」
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html
日本の大学入試は「プロクラステスのベッド」とか聞いた風なことを言ってる割に、自分自身の学識のなさを暴露しているんだから噴飯ものだ。
上に挙げた東京大学の入試のように、高校までのカリキュラムに出題範囲を限定した上で、その中で人工的な難しさを追求した出題をしていると、大学入試が終わるまでは、高校生はそのカリキュラムの範囲に足踏みすることになる。
こいつ本当に、自分がリンク張ってる東大入試の問題見てみたのかと思う。どの科目も基本的な良問がおおむね揃っている(英語については言いたいこともあるがこれは日本の英語教育自体の問題になる)。専門家がこの辺の問題に全く歯が立たなければ「廃業しろ」と言われても仕方ない種の問題だ。専門から離れていたら思い出すまでに時間こそかかるだろうが、一度は身につけておかなければ教科書の内容を習得したとは言えないレベルの、基本的な知識と考え方を試す問題でしかない。この程度に深く掘り下げる能力がなければ大学での本格的な勉強になんかついて行けないだろう。
というか、アメリカの大学生の勉強量が多いのは、日本の受験勉強と同じような内容を学部教育に詰め込んでいるからという面もかなりある。日本の大学の1年後期や2年前期の電磁気学や解析力学で使う米国製の教科書の序文に「本書は学部上級生から大学院生を対象としている」とか書かれていることなんて結構ザラ。
本当は、さっさと量子力学や統計力学、線型代数か解析幾何の進んだ内容を修得すれば良いのに、18歳の段階では、いつまで経っても高校のカリキュラムの範囲であれこれと勉強をしなければならないことになる。
解析幾何wwwww知ったかぶりがもろばれなんですけど。
あのね、解析幾何っていうのは一口に言えば平面や空間に座標を引いて図形を扱うことで、思いっきり高校範囲です。せめて位相幾何とか微分幾何とか代数幾何とか言えないかね。門前の小僧でもそのぐらいの言葉は聞きかじっておいてくれよ。あんたこそ大学で何してたのかね。
それに、あの程度の数学や物理がわからない奴に量子力学や統計力学なんて理解できないよ。なんとかごまかして線型代数の試験で単位を取ることぐらいはまあできるかもしれないけど、線型代数なんて大学入学直後に習う「イロハのイ」なわけだからねえ。
学問というものは、ある程度の段階を超えると、標準化をすることが難しくなる。どの方向に伸びていくかは、分野によっても人によっても異なるからだ。
あのね、あなたが「進んだ内容」とか言ってる「線型代数」ですら「標準化」されたレベルの内容でしかないんですが何か?いわんや高校レベルをや。
「非可換代数」とか「無限集合論」とか素人臭い用語法(せめて「非可換環論」とか「公理的集合論」とかいえよ)が気になるが、東大や京大の数学科あたりに行けば、高校時代から大学レベルの数学に手を出している学生はかなり沢山いるよ。
だいいち、東大入試レベルの普通の数学を理解せずにそんなマニアックな分野(リー環論とかならマニアックとは言えないだろうが)に手を出してもありがたみが理解できないと思うのだがどうだろうか。つーかお前、非可換って言いたいだけちゃうんかと。
こんなんに釣られている奴がブクマ見ると結構いるのが驚きだよ。
少し話しが逸れますが、僕の勉強法はほとんど、「読むだけ」、「見るだけ」だったと思う。
成績はといえば、まあ中の上、大学受験の偏差値で60ちょいくらいだったと思うけど、ノートにまとめるって必要性を感じなかった。
今でもそう思う。
いわゆる教科書というものは、最初からまとまってたように思う。
重要な事柄には詳細な説明があったし、そうでもないところは"それなり"だった。
"それなり"の部分がいらない知識かといえば、前後をつなぐ上で削るわけにはいかないものだった。
教科書という体裁をとるために、事実や公理に至った背景なんかは端折られていたけれど、そこそこ楽しめる物語性があったと思う。
文系科目の教科書はどれも普段の読書の延長で読んでたし、イコール勉強だった。
ノートは演習問題を解くためのものだった。
ノートにまとめるってなんのためなの?
大学だと、二冊(あるいは数冊)の本を読み比べたり、矛盾する二つ実験データや仮説から考えるときに紙にまとめる必要があったけど、高校の勉強ってまとめなくても教科書に最初からまとまってたよね。
そんなに分厚くもなかったし。
けど、論理を追い求めたところで、数学でいう「公理」や「前提条件」に当たるようなレベルでお互いに相違があるためにどうしようもない。数学のように皆同じ公理の上で議論をしているわけではない。人はそれぞれ「公理」を持っていて、それが他人と同じとは限らないんだ。
「公理」からの、自分の公理から見て誤った推論規則によって導かれた結論なら、他人にそれを指摘されたら改善されるかもしれない。けれど、自分では公理からの推論規則のつもりなのに、実はその推論は後付けに過ぎず、結論と思っていたものが公理の一つだということも往々にしてありうる。
例えば、クジラ殺しを反対している人は、仮にクジラより牛の方が知能が高いことが科学的に証明されたとしても「じゃあクジラも殺していいよ」とは決して言わないと思うよ。
それは「頭いいから殺すとかわいそう」ってのは後付けの理由に過ぎず、「クジラ殺すのかわいそう」っていうのが彼らにとっては、1の次の数字が2なのと同じくらいに自明で変えようのないものだから。
同情するよ。俺も「習ってない漢字を使うな」とか「教えてない解き方で解くな」とか、だいぶ公立小学校には迫害されたからなあ。
自分が好きで色々勝手に本を読んだり暇があったら考えたりして知ってただけのことなのに、「親の詰め込み教育の犠牲者」みたいに扱われて、本当にひどい話だよ。
あなたに足りなかったものは「自分の方法と一般的な方法が同値だと証明するための知能」です。
確かに考える事は大切ですが、もう少し頑張れば良かったですね。
違う。相手は子供だぜ?そんなことを求めるのは無理。
「証明できるかどうか」なんてのは技術的な問題。大事なのは概念を体で理解していること。
概念が体になじんでいて当たり前のように使いこなせていれば、そのうちいつでも必要なときに証明はできるようになる。一番極端な例がラマヌジャン。
大学以降、厳密性に必要以上にこだわりすぎて勉強の進度が遅れてしまう奴ってのがたまにいるんだけど、あんたみたいに「証明できなければ先に進んではいけない」という教義を子供(当時の)にまで押しつけるような人には、はっきり言ってそういう危険性感じるね。