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はてなキーワード: 公理とは

2010-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20100127173226

生物学理論化したい大学生が読むべき50冊」を書いて見たのは,元エントリ「強くなりたい新大学生が本当に読むべき本100冊」にダイエットコーラを噴いたから.物理的な現象を記述するときに,何をパラメータにとって方程式が立てられるかという研究精神ランダウ・リフシッツのシリーズには出ているとは思っている.ある種つきつめて公理化されていること何が論理的に原理なのかを把握するためには必要と思う.

物理運動学の第10章の「非平衡系に対するダイアグラム法」が生物物理に使える.

http://anond.hatelabo.jp/20100127173014

1冊目としては駄目だろ。

いきなり最小作用の原理とか言われても普通人間物理イメージと結び付けられない。

一体どういう学生層を想定してるんだ?中学校解析力学を独学してるような奴を想定してないか?

あるいは公理さえあればどうでもいいと思ってる数学科の学生とかか?

2009-12-10

http://anond.hatelabo.jp/20091210153707

ストライクウィッチーズ5話のはやい・おっきい・やわらかいは、数学基礎論の限界シニカルに描いた作品だよ。

ツェルメロフランケルの公理系では、外延性の公理採用して、内延性による集合は定義しなかった。

シャーリーをはやい・おっきい・やわらかいと表現すること自体が、外延性による定義そのものなんだ。

はやくて、おっきくて、やわらかければ、それはもう、シャーリーなんだ。

2009-12-07

セカンドレイプ犯罪ではない(よね?)

強姦犯罪です。3年以上20年以下の懲役らしいです。

強姦罪が成立するには、「女性性的自由を侵害する行為のうち、暴行脅迫を用いて被害者の抵抗を著しく困難な状態に追い込み、かつ姦淫(かんいん)を行うこと」が必要です。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E5%A7%A6%E7%BD%AA より引用

きちんと要件が決まっています。


一方、かんたんにセカンドレイプだと言う人もいます。

http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091205/1259974620

これを見て思ったことは、セカンドレイプ犯罪ではない、ということです。

ここで伸べられている「セカンドレイプのサンプル状態」を包含する条件が、(一番小さくても)大きすぎるだろうことが問題です。

ラッセルパラドックスにおいて、内包公理がその強すぎる集合の定義により、矛盾を持ってしまいました。

同様に、セカンドレイプ犯罪だとして、かつ、簡単にセカンドレイプだと言ってしまうと、矛盾をもってしまいそうです。


矛盾を認めない、かつ、簡単にセカンドレイプだと言っていいなら、セカンドレイプ犯罪じゃなのかなと思いました。

2009-12-05

数学って本当に役に立たないよね。そろそろ理系名乗るのやめろよ。

公理から非自明(笑)事実導出するだけで大半の事はそれ以外の分野が利用してる応用数学で足りるし、それ以外に生産性が見られない。

数学だけで学問独立させる意味なんてないからw

2009-11-20

http://anond.hatelabo.jp/20091120005722

公共の福祉勘違いしている人がどこかにいて、大上段に振りかざして社会に何かのたまっていたことを思い出した。

なんだか身内も同じくらいいかれた人だったと思うのだけど、名前が思い出せない。なんだったかな?

その人も公理が好きだった。

http://anond.hatelabo.jp/20091119193624

自分ロジックにはその必要を感じないのだが、増田が必要だというのならその説明が欲しいな。

ここで言ってる「ロジック」ってのは実社会におけるものだから。

社会では厳密な公理は存在しないし、推論規則にも常に(無視できない)不確実性が伴う。

その物言いだけじゃ不確実性を十分除去するには根拠が薄いということ。

2009-10-26

http://anond.hatelabo.jp/20091026001838

2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?

いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。

3は正当化が必要。

意味わからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。

こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。

ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。

アニマル・ライツ動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。

要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?そんなことを言えば俺から見れば「人道的な屠殺には何の倫理的問題もない」という方がさっぱり理解できないが。

そもそも、これを言ってしまうとおしまいだが、倫理観の是非を論理整合性で判断するのは危険だぞ。なぜかというと、論理整合性に重きを置きすぎれば行き着く先は原理主義だからだ。論理的な説明というのは所詮少数の仮説から出発するしかないわけだが、実際には受容されうる倫理観の前提を全部書き下すことなんてできていないんだから、当然論理整合性に重きを置いた判断にはアラがでまくるわけだ。

広義で大雑把な欧米動物愛護精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋文化の一部だからです。

こちらは最初からアニマル・ライツだの動物福祉だのの教義は問題にしていないわけだから当然そうなる。要は、アニマル・ライツだの動物福祉だのだけが捕鯨反対を叫ぶなら「狂気とはいえ筋が通っている」が、一般の西洋人を巻き込んで政治問題化することが日本人を怒らせているわけだろう。散々牛肉を買わせておいて鯨を食うなとはなんだと。それだけの話にそんな大げさな前提が必要なのか。なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。

そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?

その主張は普遍的(せめて通文化的、もしくは万人が認める道徳議論の前提となる公理)な根拠があるのでしょうか?

それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。

http://anond.hatelabo.jp/20091025214121

全然違う。

1. 「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という分け方は、日本では大きな賛同を到底得られる考え方ではなく、多くの感情的に反発を受ける。

2. むしろどんな形であれ、生物を殺すこと自体が業であり、それの一部なり全部なりだけを理由付けて全面正当化できると思っていること自体がおためごかしだ、という考えが現代日本では主流である。

3. この2.の考え方が、1.のような考え方に比べて劣っているという根拠はどこにもない。文化的背景に起因する生物観の違いなので、「どっちもどっち」とすべきである。

以上。

1は字面的には正しい。ただ西洋にそういう意見がまずない日本固有の発想って含意があるなら、その限りではない。

2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?

もちろん、アニマル・ライツの人に言わせれば、数多の問題点が出て来るだろうけど、君が主張するように西洋と比べて格段に軽視されているということはないと思う。

3は正当化が必要。

だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。

これが藁人形だとすると、実際の君は何を言ってるんだ?こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。

意味わからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。

いや、アニマル・ライツ動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。

そこを批判しているはずなのに、「一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら」なんていわれても困る。

それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?

文化的土壌」で何を言ってのかわからないし、「」内部がどの範囲の人や主張を指しているかも悩むけど、たとえば、キリスト教西洋?)の教義から導かれたものとしてる狭義のアニマル・ライツとか、その手の議論を捉えているかと言われるとNOです。

広義で大雑把な欧米動物愛護精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋文化の一部だからです。それを指摘することに特段の意味はない。

狭義のアニマル・ライツについては、現代倫理学の議論からでてきたものとして理解していますが、議論によって育まれた理由付けの体系として把握しています。こういった議論の中で出てくる様々な前提を指して「文化的土壌」と言っているのなら、それが普遍的合意を得られるものではないと、私も思います。

道徳的直観ってのは常にそういうものです。絶対の公理なんてない。メタ的立場に立った議論はできるけど、その場合、あなたの主張もそれは適用される。たとえば「”異文化”に口を出すべきではない」の通文化性・自明性はそれほど高くない。もちろん、様々な文化の文献からそういった文章を集めることはできるが、普遍価値とは言い難い。

そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?

その主張は普遍的(せめて通文化的、もしくは万人が認める道徳議論の前提となる公理)な根拠があるのでしょうか?そうは思えないのですが。ないのならその主張は自己論駁的です。

2009-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20091017030228

いやあ、ロジックの問題じゃないと思うけれどなあ。

前提(公理)+ロジック→結論、であって、前提そのものはロジックでは導けないでしょう。前提そのものが食い違ってる時に、いくらロジックだけ見て正当性を確認してもあんまり意味がない。むしろ、ロジックだけを見てると話がどんどん末節の方に逸れてゆく恐れがある。

他人の持っている前提、見ている世界を知るっていうのは、ロジックを理解することとは違う。「他人の靴を履いてみる」って言葉があるけどさ。共感とか想像力の問題だよ。ロジック言葉を使って理解できるけど、前提については「自分がその位置に立って、自分の目で見て、感じる」ことしかできない。

元増田はわりとロジック寄りの人みたいだから、こう考えるとわかりやすいかも。前提がunknownで、結論というか結果が目に見えていて、それから一応のロジックが語られている。後者2つから前提をリバースエンジニアリングするんだ。ただしひとつ注意。人間自分が思っていることをそのままは喋らない。だから語られた言葉を文字通り解釈してはいけない。じゃあどうすればいいんだってことになるけれど、そこもリバースエンジニアリングだね。「語られなかったこと」に注目するとか。「理解できない」と思ったら、そこに何かの見落としがある。それが手がかりだ。ぐっどらっく。

2009-10-14

http://anond.hatelabo.jp/20091014144950

戦略サファリを読んでないからわからないや。

なんだろう、数学の基礎って

1.四則演算

2.演繹法と背理法による証明

3.文献を調査して、適切な定理か公理を見つける力

この3つだよねぇ、恐ろしく簡単に言うと。

同じように、あなたが技術者に求めている基礎を簡単に言うと何ですか?ググってわかる範囲でお願いしたい。

2009-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20090930121446

定義でしょ。

もちろん×演算をもっと基本的な別の公理から演繹する形で定義するなら(a,b∈N, a×b = sum_{i=1^b}aなど)証明できなければならない。

2009-07-23

嘆き

そりゃ学歴は欲しいよ。就職で有利になるし俺と同じ哀れな考えを持った連中から羨ましがられるから。でもそれも虚しい。

勉強だけなら働いてお金捻出して教材を買って独学でできる。勉強自体が楽しいならそうしていられるしプレッシャーも何もないからやめたいという気持ちも無くいつまでも続けられる可能性はある。勿論学校で強制させられてスキルを身に付ける事ができるという可能性もあるわけだが。

何でもそうだけど突き詰めていくとどうして生きているんだろうかっていう疑問に帰着してしまう。前述したんだけどそれが虚しいんだよ。

その疑問に加算集合の最初の元pをナンバリングしてそこから帰納的に導ける任意のnからQ(n)に対し¬Q(n)は証明可能でない。「¬Q(n)」は「最初の疑問から帰納された事象に対して生きている理由を導ける」と言う事だからω無矛盾公理系。

これは証明も反証もできない命題だから虚しい。

あ、



死にたい



ひいいいいいいいい

2009-06-16

ニセ科学への批判は、倫理学にその基礎をおくべきだ

さいきんニセ科学批判やニセ科学批判批判ニセ科学批判批判批判を見ていて、あまりの議論のかみ合わなさにモヤモヤ通り越してイライラしてきたので書く。

ニセ科学が何故批判されねばならないか。それは「ニセ科学が『科学』でないから」ではなく「ニセ科学(者)が『科学(者)が満たすべき知的誠実さ』を満たしていないから」であり「社会的活動が満たすべき、倫理的規範を満たしていないから」である。

科学とされるもの、科学ではないとされるものの境界は、存在するけれども曖昧である。科学哲学における終わらん議論を見ても、科学社会学的な分析の試みをみても、科学史俯瞰しても、それは明らかである。

たとえば、「科学とは何か」についてのあらゆる言明は、経験帰納に依った言明である。数学における定義みたいに公理から導かれているわけじゃない。「科学であるもの」「科学でないもの」の間には微妙なグラデーションがあり、きっぱり線引きできない。もう少し現実的に突っ込めば、科学者集団が「これが科学だ」と認めているものが科学である、と言うこともできよう(うっかりすると「鶏と卵」のごとき循環論法になってしまうわけだが、しかし実はこの点は大事なのである。これについては後述する)。

つまり、「科学じゃないから」という論理はきわめてshakyなのである。ニセ科学批判やニセ科学批判批判批判を見ていてイライラするのは、わざわざそんなぐらぐらの基盤に立って相手を論破しようとしているからである。


ニセ科学が批判されねばならないのはなぜか。それはニセ科学(者)が「科学(者)でない」からではなく、科学(者)が満たすべきものも含めた広い意味での社会的規範を満たしていないからである。

たとえば、ピアレビューや批判・議論を拒否する態度。科学工学にかぎらず、人文学を含むあらゆる知的営みにおいて、その質を保つ、あるいは向上させるためにピアレビューや議論は存在する。「科学者集団が『これが科学だ』と認めているものが科学」というのが無意味循環論法にならないのは、ピアレビューによって、自身らの営みの価値科学の外にある知的誠実さに帰しているからである。これらを拒否する「ニセ科学」者は、(彼または彼女の営みが科学かどうかを飛び越して)そもそも知的に誠実でない。

たとえば、社会不利益をもたらす営み。これらは社会における倫理学的な規範を満たさない。骨相学や優生学が批判されるのはこのためだし、ホメオパシー信者によるインフルエンザ感染パーティなどもこの類に入ろう。

つまりは、批判のポイント科学の境界線問題ではなく、倫理学にあるのである。ニセ科学に対しては、決して感情的にならず、相手と同じ土俵に立たず、倫理学の基盤に基づいた厳しい批判を淡々と行うべきなのだと思う。

2009-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20090515133641

元増田の私は別に怒ってはいないし,たぶん量子力学増田言葉こそネット的だがカッカはしていないと思う。現時点で文系を名乗ってるのは私一人で

やっぱ文系だなぁという気がする

http://anond.hatelabo.jp/20090515133018

レスされたから私のことかと思ったが違うならいいや。ここは排中律を容れない公理系の場かもしれないしね。私一人のために文系名誉が害されるのは忍びない。

2009-04-04

http://anond.hatelabo.jp/20090402155050

1+1=2 を 公理からの導出ではなく

微分積分を使って もっと、 スマートに 言い方を変えると 小難しく

証明することが出来るかどうか?という事について 聞いてみているのですが

比較的信頼できる頭の良い人に聞いてみると、『わからない』という信頼できる解答が帰ってきました。

また、その他の空気も全体的にその方向でした。

なので、もしかしたら、1+1=2 の超絶的な解き方があるのかもしれませんが

少なくとも、東大クラス大学でも一般的に教えるような内容ではない。

という事はほぼ間違いなさそうです。

となると、私の勘違いか、特殊理論に分類した方がよさそうな確率の方が高いです。

お騒がせ致しました。

結果を知りたい人がいるかも知れませんので、書いておきます。

2009-04-02

http://anond.hatelabo.jp/20090402035632

あ、いや、自然数自然数を足した物が、必ず自然数になる。というのは、公理だけから導くことができますが。

そうではなくて。

いままで、たとえば、4つの公理が必用であった物を、3つの公理だけで構成して、のこりの1個の公理は3つの公理だけから証明できれば、公理を定理にできるわけで、より数学的に美しくなる。

つまり、

公理 A B C D があったときに。

公理D は A B Cから証明可能である。

という事が言えれば、公理D は 公理ではなく、定理にできるわけで。

それは、数学的により美しい行為である。という考え方から。

線形代数積分を使って、自然数公理と実数の公理から、自然数自然数を足した物が、必ず自然数になる

って東大から来ている講師の人が 大学の授業で証明していて、その授業の時間シラーってしていた記憶だけが曖昧に残っているのですが

もしかしたら、記憶違いかもしれません。

言い方を変えると、数学公理の中では、どんな条件下においても1+1=1.9や1+1=2.1になることは積分してみるとありえない。って感じだったと思うのですが・・・記憶違いの気がだんだんしてきました。

もちろん、物理実験で、こども科学館では1+1が1.9ぐらいになることを、液体で証明してくれましたwwwということは、併記しておきます。

あれ、でも、じゃぁ、あの大学講義時間、いったい、私は、何を証明されていたのでしょうか?

http://anond.hatelabo.jp/20090402022446

自然数が加法について閉じていることの証明はペアノの公理だけで出来るっしょ。帰納法あるし。

自然数定義(0の次は1、1の次は2...)というのはちょっと手を抜いてて、本当はこれも帰納的に構成しないといけない。桁上がりとかで。今回は2までしか必要なかったのでこうした。

0の次1、1の次2、というのは、これは公理としか言いようが無い。名づけの問題なので。零、一、二とかれい、いち、に、とかでもいいんだし。

http://anond.hatelabo.jp/20090402022446

いやそれは公理であって定理じゃないんじゃ…

実数を構成しなくても自然数の加法は構成できるし…

2009-03-30

http://anond.hatelabo.jp/20090330220820

そうじゃなくて、1+1=2という公理はないよねってこと。まだ遡り方が足りない。

(0,1,2の定義)

0の次の自然数は1、1の次の自然数は2である。

(加法の定義)

自然数a」に「自然数0」を足すと「自然数a」である。

自然数a」に「自然数bの次の自然数」を足すと「自然数a+bの次の自然数」である。

(aに1、bに0を代入)

自然数1」に「自然数0の次の自然数」(=1)を足すと、「自然数1+0(=1)の次の自然数」(=2)である。

したがって1+1は2である。

っていう理屈を踏むので、1+1=2は公理定義ではない。

http://anond.hatelabo.jp/20090330193748

公理矛盾しない限り何でもアリなのよ。

教科書採用されるかどうかは別だがな。

http://anond.hatelabo.jp/20090330183554

理系なら、1+1の答えが2になるのはそういう公理であるからだと理解しているはずで、そうでない公理があってもいいということも理解しているはずだと思うのだが。

http://anond.hatelabo.jp/20080129122104

順序集合の概念よりも、集合論公理は根源的だから、まだ遡り方が足りない。

集合論の上でいろいろやって順序集合が定義されるんだろう。

2009-02-20

http://anond.hatelabo.jp/20090220145856

『「ここまでは事実と確認できた」という情報の積み重ねが科学だ』、という定義の誤りを疑うべき。

まず、『仮定は科学重要な行程の一つ』なのに、その視点がない。

定義でも公理でも実験結果でもなく、『仮定や推定の上に積み上げられる科学もある』、という視点もない。

理論物理学というとバリバリ科学のようではあるが、実は全部が科学というわけではない

理論物理バリバリ科学だよ。完成したものだけを科学と呼ぶ姿勢はあまりよくないと思う。

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