はてなキーワード: 公理とは
強姦罪が成立するには、「女性の性的自由を侵害する行為のうち、暴行・脅迫を用いて被害者の抵抗を著しく困難な状態に追い込み、かつ姦淫(かんいん)を行うこと」が必要です。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B7%E5%A7%A6%E7%BD%AA より引用)
きちんと要件が決まっています。
一方、かんたんにセカンドレイプだと言う人もいます。
http://d.hatena.ne.jp/Francesco3/20091205/1259974620
これを見て思ったことは、セカンドレイプは犯罪ではない、ということです。
ここで伸べられている「セカンドレイプのサンプル状態」を包含する条件が、(一番小さくても)大きすぎるだろうことが問題です。
ラッセルのパラドックスにおいて、内包公理がその強すぎる集合の定義により、矛盾を持ってしまいました。
同様に、セカンドレイプが犯罪だとして、かつ、簡単にセカンドレイプだと言ってしまうと、矛盾をもってしまいそうです。
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
3は正当化が必要。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?そんなことを言えば俺から見れば「人道的な屠殺には何の倫理的問題もない」という方がさっぱり理解できないが。
そもそも、これを言ってしまうとおしまいだが、倫理観の是非を論理的整合性で判断するのは危険だぞ。なぜかというと、論理的整合性に重きを置きすぎれば行き着く先は原理主義だからだ。論理的な説明というのは所詮少数の仮説から出発するしかないわけだが、実際には受容されうる倫理観の前提を全部書き下すことなんてできていないんだから、当然論理的整合性に重きを置いた判断にはアラがでまくるわけだ。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
こちらは最初からアニマル・ライツだの動物福祉だのの教義は問題にしていないわけだから当然そうなる。要は、アニマル・ライツだの動物福祉だのだけが捕鯨反対を叫ぶなら「狂気とはいえ筋が通っている」が、一般の西洋人を巻き込んで政治問題化することが日本人を怒らせているわけだろう。散々牛肉を買わせておいて鯨を食うなとはなんだと。それだけの話にそんな大げさな前提が必要なのか。なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
全然違う。
1. 「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という分け方は、日本では大きな賛同を到底得られる考え方ではなく、多くの感情的に反発を受ける。
2. むしろどんな形であれ、生物を殺すこと自体が業であり、それの一部なり全部なりだけを理由付けて全面正当化できると思っていること自体がおためごかしだ、という考えが現代日本では主流である。
3. この2.の考え方が、1.のような考え方に比べて劣っているという根拠はどこにもない。文化的背景に起因する生物観の違いなので、「どっちもどっち」とすべきである。
以上。
1は字面的には正しい。ただ西洋にそういう意見がまずない日本固有の発想って含意があるなら、その限りではない。
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
もちろん、アニマル・ライツの人に言わせれば、数多の問題点が出て来るだろうけど、君が主張するように西洋と比べて格段に軽視されているということはないと思う。
3は正当化が必要。
だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。
これが藁人形だとすると、実際の君は何を言ってるんだ?こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
意味がわからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。
いや、アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
そこを批判しているはずなのに、「一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら」なんていわれても困る。
それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?
「文化的土壌」で何を言ってのかわからないし、「」内部がどの範囲の人や主張を指しているかも悩むけど、たとえば、キリスト教(西洋?)の教義から導かれたものとしてる狭義のアニマル・ライツとか、その手の議論を捉えているかと言われるとNOです。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。それを指摘することに特段の意味はない。
狭義のアニマル・ライツについては、現代倫理学の議論からでてきたものとして理解していますが、議論によって育まれた理由付けの体系として把握しています。こういった議論の中で出てくる様々な前提を指して「文化的土壌」と言っているのなら、それが普遍的合意を得られるものではないと、私も思います。
道徳的直観ってのは常にそういうものです。絶対の公理なんてない。メタ的立場に立った議論はできるけど、その場合、あなたの主張もそれは適用される。たとえば「”異文化”に口を出すべきではない」の通文化性・自明性はそれほど高くない。もちろん、様々な文化の文献からそういった文章を集めることはできるが、普遍的価値とは言い難い。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
その主張は普遍的(せめて通文化的、もしくは万人が認める道徳議論の前提となる公理)な根拠があるのでしょうか?そうは思えないのですが。ないのならその主張は自己論駁的です。
いやあ、ロジックの問題じゃないと思うけれどなあ。
前提(公理)+ロジック→結論、であって、前提そのものはロジックでは導けないでしょう。前提そのものが食い違ってる時に、いくらロジックだけ見て正当性を確認してもあんまり意味がない。むしろ、ロジックだけを見てると話がどんどん末節の方に逸れてゆく恐れがある。
他人の持っている前提、見ている世界を知るっていうのは、ロジックを理解することとは違う。「他人の靴を履いてみる」って言葉があるけどさ。共感とか想像力の問題だよ。ロジックは言葉を使って理解できるけど、前提については「自分がその位置に立って、自分の目で見て、感じる」ことしかできない。
元増田はわりとロジック寄りの人みたいだから、こう考えるとわかりやすいかも。前提がunknownで、結論というか結果が目に見えていて、それから一応のロジックが語られている。後者2つから前提をリバースエンジニアリングするんだ。ただしひとつ注意。人間は自分が思っていることをそのままは喋らない。だから語られた言葉を文字通り解釈してはいけない。じゃあどうすればいいんだってことになるけれど、そこもリバースエンジニアリングだね。「語られなかったこと」に注目するとか。「理解できない」と思ったら、そこに何かの見落としがある。それが手がかりだ。ぐっどらっく。
そりゃ学歴は欲しいよ。就職で有利になるし俺と同じ哀れな考えを持った連中から羨ましがられるから。でもそれも虚しい。
勉強だけなら働いてお金捻出して教材を買って独学でできる。勉強自体が楽しいならそうしていられるしプレッシャーも何もないからやめたいという気持ちも無くいつまでも続けられる可能性はある。勿論学校で強制させられてスキルを身に付ける事ができるという可能性もあるわけだが。
何でもそうだけど突き詰めていくとどうして生きているんだろうかっていう疑問に帰着してしまう。前述したんだけどそれが虚しいんだよ。
その疑問に加算集合の最初の元pをナンバリングしてそこから帰納的に導ける任意のnからQ(n)に対し¬Q(n)は証明可能でない。「¬Q(n)」は「最初の疑問から帰納された事象に対して生きている理由を導ける」と言う事だからω無矛盾な公理系。
これは証明も反証もできない命題だから虚しい。
あ、
死
ひ
ひいいいいいいいい
さいきんニセ科学批判やニセ科学批判批判やニセ科学批判批判批判を見ていて、あまりの議論のかみ合わなさにモヤモヤ通り越してイライラしてきたので書く。
ニセ科学が何故批判されねばならないか。それは「ニセ科学が『科学』でないから」ではなく「ニセ科学(者)が『科学(者)が満たすべき知的誠実さ』を満たしていないから」であり「社会的活動が満たすべき、倫理的規範を満たしていないから」である。
科学とされるもの、科学ではないとされるものの境界は、存在するけれども曖昧である。科学哲学における終わらん議論を見ても、科学社会学的な分析の試みをみても、科学史を俯瞰しても、それは明らかである。
たとえば、「科学とは何か」についてのあらゆる言明は、経験や帰納に依った言明である。数学における定義みたいに公理から導かれているわけじゃない。「科学であるもの」「科学でないもの」の間には微妙なグラデーションがあり、きっぱり線引きできない。もう少し現実的に突っ込めば、科学者集団が「これが科学だ」と認めているものが科学である、と言うこともできよう(うっかりすると「鶏と卵」のごとき循環論法になってしまうわけだが、しかし実はこの点は大事なのである。これについては後述する)。
つまり、「科学じゃないから」という論理はきわめてshakyなのである。ニセ科学批判やニセ科学批判批判批判を見ていてイライラするのは、わざわざそんなぐらぐらの基盤に立って相手を論破しようとしているからである。
ニセ科学が批判されねばならないのはなぜか。それはニセ科学(者)が「科学(者)でない」からではなく、科学(者)が満たすべきものも含めた広い意味での社会的規範を満たしていないからである。
たとえば、ピアレビューや批判・議論を拒否する態度。科学・工学にかぎらず、人文学を含むあらゆる知的営みにおいて、その質を保つ、あるいは向上させるためにピアレビューや議論は存在する。「科学者集団が『これが科学だ』と認めているものが科学」というのが無意味な循環論法にならないのは、ピアレビューによって、自身らの営みの価値を科学の外にある知的誠実さに帰しているからである。これらを拒否する「ニセ科学」者は、(彼または彼女の営みが科学かどうかを飛び越して)そもそも知的に誠実でない。
たとえば、社会に不利益をもたらす営み。これらは社会における倫理学的な規範を満たさない。骨相学や優生学が批判されるのはこのためだし、ホメオパシー信者によるインフルエンザ感染パーティなどもこの類に入ろう。
つまりは、批判のポイントは科学の境界線問題ではなく、倫理学にあるのである。ニセ科学に対しては、決して感情的にならず、相手と同じ土俵に立たず、倫理学の基盤に基づいた厳しい批判を淡々と行うべきなのだと思う。
1+1=2 を 公理からの導出ではなく
微分積分を使って もっと、 スマートに 言い方を変えると 小難しく
証明することが出来るかどうか?という事について 聞いてみているのですが
比較的信頼できる頭の良い人に聞いてみると、『わからない』という信頼できる解答が帰ってきました。
また、その他の空気も全体的にその方向でした。
なので、もしかしたら、1+1=2 の超絶的な解き方があるのかもしれませんが
少なくとも、東大クラスの大学でも一般的に教えるような内容ではない。
という事はほぼ間違いなさそうです。
となると、私の勘違いか、特殊理論に分類した方がよさそうな確率の方が高いです。
お騒がせ致しました。
結果を知りたい人がいるかも知れませんので、書いておきます。
あ、いや、自然数に自然数を足した物が、必ず自然数になる。というのは、公理だけから導くことができますが。
そうではなくて。
いままで、たとえば、4つの公理が必用であった物を、3つの公理だけで構成して、のこりの1個の公理は3つの公理だけから証明できれば、公理を定理にできるわけで、より数学的に美しくなる。
つまり、
公理 A B C D があったときに。
公理D は A B Cから証明可能である。
という事が言えれば、公理D は 公理ではなく、定理にできるわけで。
それは、数学的により美しい行為である。という考え方から。
線形代数と積分を使って、自然数の公理と実数の公理から、自然数に自然数を足した物が、必ず自然数になる
って東大から来ている講師の人が 大学の授業で証明していて、その授業の時間はシラーってしていた記憶だけが曖昧に残っているのですが
もしかしたら、記憶違いかもしれません。
言い方を変えると、数学の公理の中では、どんな条件下においても1+1=1.9や1+1=2.1になることは積分してみるとありえない。って感じだったと思うのですが・・・記憶違いの気がだんだんしてきました。
もちろん、物理の実験で、こども科学館では1+1が1.9ぐらいになることを、液体で証明してくれましたwwwということは、併記しておきます。
そうじゃなくて、1+1=2という公理はないよねってこと。まだ遡り方が足りない。
(0,1,2の定義)
(加法の定義)
「自然数a」に「自然数bの次の自然数」を足すと「自然数a+bの次の自然数」である。
(aに1、bに0を代入)
「自然数1」に「自然数0の次の自然数」(=1)を足すと、「自然数1+0(=1)の次の自然数」(=2)である。
したがって1+1は2である。
そんな公理はないと思うが。
理系なら、1+1の答えが2になるのはそういう公理であるからだと理解しているはずで、そうでない公理があってもいいということも理解しているはずだと思うのだが。