会田誠の一件をなんとなく見てて、ふと自分の性癖のことを考えた。
私は女性のふくらはぎが好きで、少し筋肉質なふくらはぎを応援している。
例えば?ワイ外食に平均4万は使ってるぞ
これ意味ないじゃん
じゃなきゃなんなんだよ
https://medium.com/@0h0n0/e3e429688456(このページ)
はじめに『この文章について、フローチャートの重要性について』
第一章『関係を記述する方法としての「基準」とその基準からの「指定」』
第二章『集合論』
第三章『フローチャート』
https://medium.com/@0h0n0/520dcc8c4cd7 (次のページ)
https://medium.com/@0h0n0/408a2d035205 (最後のページ)
第五章『情報』
第六章『目的』
第七章『アクター』
第九章『社会』
おわりに『この研究の不完全さについて、エクセルの使い方について』
はじめに『この文章について、フローチャートの重要性について』
ベーシックイングリッシュとは、第二次世界大戦後くらいに流行した、英語を850語で言い換えることができるとされる体系だ。
私は「その体系を論理的に説明できれば自然言語を論理的に説明できたことになるんじゃないか、あるいは論理的に説明するヒントくらいは得ることができるんじゃないか」という仮説を立て、ベーシックイングリッシュの研究を始めた。
この文章は、その研究の現在地点の記録だ。少し読んでもらえれば分かるように、論文では無い。論文にするなら説明の形式を根本的に変える必要があるだろう。
この文章では、説明にまず集合論とフローチャートを使う。「集合論」とはただ学校で習うような素朴集合論であり、「フローチャート」とはただ日常で使うようなフローチャートを意味している。
まず第一に『フローチャートは、集合論と並び立つように存在する、論理というものの原理だ』ということについて了解してもらいたい。そうで無ければ、「フローチャート」という概念を使う意味や、フローチャートと集合論を組み合わせて何かと隣り合うことができるような「存在」を説明する意味は、読者に了解されないだろう。
論理を人間の思考の表現だとすれば、脳神経の構造上、何と何が同じかを問題にする集合論だけで無く、何を前提にどういう結果になるかを問題にするフローチャートもまた重要なものになる。
実際の問題としても、「帰納・演繹」という言葉は、ただ「色々なものが集合にまとまる・集合が色々なものに適用される」というだけで無く、「フローチャートが集合にまとまる・集合がフローチャートに適用される」というようなニュアンスも含んでいる。論理や具体的には演繹の弾き出すようなイメージはフローチャートのもので、例えば「その話は何が前提になっているんですか」とか「根拠は何ですか」と聞く時も、思い描かれているのは実はフローチャートだ。
権力がないだけだし、権力を決して与えてはならないと強く思う。
己の身内(小西がいい例)の罵詈雑言はどうなのかって話。ダブルスタンダードもいいとこ。
これまで住んだ近くにたまたま地主がいて、その人達は全員イカれていた。
ビルの大家。アパートの大家。都会の駅や住宅街に突如現れる雑木林の中に住む地主。
夜中に発狂したり、近隣の住人を殴ったり(障害者手帳がある為警察にはどうしようもできないらしい)、自分の妄想を貼り付けたり。
ということにしたいのですね。
目に入ったら「おっ、不愉快だな」と思って、それで終わりじゃん。
「そうしなければ困るくらい皆金がない」
って前提なら、やはり誰かが犠牲になってるに過ぎないんじゃ…
親か同居しない兄弟が金持ちで同居した兄弟に金銭援助するとか、
親が元気で家事育児負担する前提で同居した兄弟(これは姉妹の方が無難そうだが)の生活負担が減るとか、
同居する側に何らかのメリットがある前提なら良い話だけど。
じゃあなんで彼らが表現規制に反対しているのか、つったら結局「自民党が旗振ってるから」に過ぎないんだよな
気に食わない表現を殴り殺す時の言い訳がちょこっと違うだけであって、表現規制反対派などでは断じてなく、ただの「オルタナ規制派」でしかない
単に自分が牛耳る側に回れないから、自由やら人権やら持ち出して反対してるけど、内心そんなものはどうでもいいわけだ
表現に限らず万事同じ