はてなキーワード: 回覧板とは
うちは家禄90石くらい。貯金も老後問題で言われてた金額くらいはもうある。自分が訳ありで仕事をセーブしてるので無理すればもう少しいける。
まんじゅうが無理な年収じゃない。でもまんじゅう食べたら余裕じゃないと思う。世間で言われてる通りなら江戸だしかつかつになるとおもう。
『まんじゅうって贅沢品を食べるんだよね?それだけで裕福じゃん、ていうか自分達でその選択したんでしょ?辛いなんて甘え。ならまんじゅう食べなきゃよかったんだよ』『お前の辛さなんて甘い。茶すら飲めない俺たちを見てみろ。まんじゅう食えるほど余裕のあるやつは自己責任』
そんな風潮があるように感じる。
まんじゅうを食べるなら世間から助けてもらえなくても、あなたたち裕福なのよね?贅沢品食ってるんだもんね?私たちはそれを下支えしてあげてるんだから自己責任で頑張ってね、と言われても頑張らなきゃいけないんだって。そんな覚悟がないとまんじゅう食っちゃないけないような気持ちになる。
いつからまんじゅうを食うことがこんなに覚悟を必要とする事で、後ろ指刺されるような気持ちになる時代になっちゃったんだろう。
まんじゅうは欲しいけど、こわい。いろんな予想できない事に耐えていけるか自信がない。弱音を吐いちゃいけないのかなって思うと怖い。
この年寄りばかりの地区に引っ越して5年。今年自治会長に任命されてから色々とやっているのだが、昔から惰性でやってることが多くて辟易する。
神社の一角にある石室に丈六様というのが祀られていて、何の神様かもわからないまま例年自治会費から一括で一世帯300円を納めていた。
周辺地域の自治会からも同様に貰っているとするならば、1世帯300円とは言え、そこそこの金額が神社に入金されている。
返礼としてその神社から紙のお札と人型を頂戴するのだが、丈六様とやらの祭事も特に大きな告知も無く、神主と自治会長数名が参加するのみで正直お粗末な感じだ。
本殿での祭事ならいざ知らず、境内の麓にある小さな祠のイベント。
せめて由緒とか具体的にして回覧でもすればいいのに。
神主とかが神社を拠点に地域を盛り上げようとやる気があるんなら派手なイベントにするんだろうけど、供物も準備も自治会持ちで、ただの集金イベントだから細々適当にやって身銭を稼いでいるようにしか感じられない。
少し離れた地域の神社なんか結構(インスタ映えとかも取り込んで)地域を巻き込んだイベントを派手にやっているのを見て尚更そう思ってしまう。
そういった神社ほど境内も綺麗だし参拝客も多い。周辺自治体のパワーもあるんかな?
じゃあ、自治会長が太鼓持ちで派手にやれよって言われるのかもしれない。
よそ者・若者・馬鹿者ではないけどさ、せめてどんな由緒があってどんなことを祭事するのか神主に効いて調べて、回覧板にして人集めしてみるつもりではあるけど。
なんか、SNSとかで一発当てればいいんだろうけど。
正直個人的には辞めてもさしあたって問題ないんじゃないかとも想ってる。
地元のジジババに愚痴ったら、『罰当たりな新参者』とか言われそうなのでここで吐き出した。
そのジジババもろくに由緒なんか知る由もないだろうけど。
なりすましで署名をやったのが、いたずらか、悪意があってやっているという前提で反応があるけど、「善意」でやっている可能性は結構高いと思っている。
名古屋市の署名活動のは、既に手法化された段階のものだったけど、その手法も伝達される前の、初期段階は運動を盛り上げるための善意だった可能性は高い。
つまりフェミニズムなどに限らず、広範な人の支持を集めるための社会運動は、どうあっても迷惑な善意を無視できないもので、現在のネットの署名活動の形であるオープンレターだから起きたとか、そういう話じゃない。
多分聞いたことあると思うけど、昔の署名活動だって、普通に「家族のお名前も書いてください」とかやっている末端のボランティアとか、ほかの要件の回覧板に用紙を挟み込んで回す地域住人とか、そういう人は普通に出るわけで、本来この手の運動をよくやっている人なんかはこういう可能性を織り込んだうえで活動しているものだ。
だから協力者として公表するときは大抵裏取りというか、話を聞きに行ったりする(電話だけとかの可能性もあったりするけど)。
個人的にはオープンレターの内容はおおむね賛成派(文面には異論はあったり、タイミングやこの表明の他の利用のされ方にはいろいろ言いたいことはある)ではあるんだけど、初期段階から活動の在り方については、高校生の有志ボランティアじゃないんだからって思う所はあった。
まあいろんな意味で日本社会の組織的というか、なんというか、うーん、子供じゃないんだからさぁ。
もうちょっとさぁ……。
匿名活動に否定的な人がいるけど、今回の運営のやり方って、そういう責任を取らない匿名性の高いネット活動と変わらないんだよ。むしろ。
今回の騒動は初期からフェミニズムに親和的でありながら穏当な人がブクマしていない人が多いけど、多分そこらあたりだと思うんだよなぁ。
実家の近所に「あさひ観音」と呼ばれる観音様がある。国道何々線と、私の実家に至る車2台が余裕ですれ違うだけの幅はあるがボロい道路のまじわる、信号のない交差点から、ちょっと実家寄りに入ったところにある。
「あさひ観音」の「あさひ」がどういう字を書くのかは知らないが、そういう名前なだけあって、東向きに建っている。トタン屋根の小さな祠のような建物の中に、二体の石像が納められている。どちらも「ばかうけ」を真ん中から折ったような形の、子供の背丈くらいある石を彫ったものだ。岩肌は長く風雨曝されたかのようにざらついている。
真ん中に据えられた一体は本当に観音像のような形が浮き彫りされている。が、向かって右隣の石は、言われてみれば人の形のように見えるかもしれない、「ばかうけ」か皮つきフライドポテトのような形のゴツゴツとした岩だ。
父に聞いた話では、これらの石像はもともと河原に落ちていたのを、村の誰かが拾って来てここに祀ったものだという。
祠の前には何故か、一基の鳥居が据えられている。鳥居はバブル時代の頃に新品の木の鳥居に取り替えられたものの、それ以降は全くの手付かずなので、今や黒灰色に染まり朽ちかけている。
祠の周りには紫陽花が植わっている。梅雨になると美しい青い花を咲かせる。昔はお賽銭箱もあった。今はない。
神社のように鈴が下がっていたかどうかは、記憶が曖昧だ。あったような気もするし、なかったような気もする。ただ記憶にあるのは、そこを通りかかる際は、祖母に五円玉をせがんでお賽銭箱に投げ込み、「ご縁がありますように」とその言葉の意味も知らない癖に、神妙に手を合わせていたということだけだ。
「あさひ」というと、父から聞いた都々逸を思い出す。近所の山に住んでいた三軒の金持ちの威光を読んだもので、しめに「朝日に輝く○○(家のあった場所の地名)」という。その○○のお家が父の先祖だというが、信憑性は薄い。ただ、父の言うように山の麓の駅の側に、その家の古い墓標が道祖神かお地蔵さんのように草に埋もれている。見た感じ「あさひ観音」くらい古そうな、風雨に曝され磨耗した、石の墓標だ。
なんて、まるで父の生家と「あさひ観音」に関連があるかのようなことを書いたが、全然関係はない。あさひ観音は村の皆で崇拝してきたもので、誰が拾って来たのかは、今となってはわからない。ただ言えるのは、父の先祖は明治辺りにこの村に越して来た人なので、村の歴史上では根っからのジモティーではないのだ。
あまり記憶が定かではないのだが、昔、毎年寒い冬の時期に村の公民館で「甘酒祭り」が行われていて、これが「あさひ観音」に関係するお祭りだったと思う。祖母や地元の人たちは「甘酒マチ」と呼んでいた。「マチ」というのが「祭り」を意味する方言のようだが、しかし市の中心部にある大きな神社の「夏祭り」のことは「マチ」とは言わないのは、謎だ。
甘酒祭りでは村の人々に分け隔てなく甘酒が振る舞われた。お年寄り等は酔っ払っちゃうまで飲む。子供も一杯くらいは無病息災のためだから飲めと言われたものだが、私はどうも酒粕が苦手なせいで、一口舐めただけでよした。
それ以外に、「あさひ観音」にまつわるイベントごとの記憶はない。観音様はただそこにあるだけだったが、定期的に誰かが世話をするようで、湿気った祠の中にあるわりには苔むしもせず、赤い前かけと頭巾は時々新しいものに替えられていた。祠の格子戸には錆びた鎖が巻かれ南京錠で施錠されていたが、鍵を誰が管理していたのかは知らない。ただ持ち回りではなかったと思う。うちに観音様の鍵があったことはないので。
観音様の祠は一軒の農家の敷地に隣接している。というより、農家の敷地がわざと観音様の祠を避けるように垣根をそこだけ凹ましてめぐらせてある。もしかすると、実は観音様の所までその家の敷地だったりもするのかもしれないが、よくわからない。その家と同じ並びの数件と我が家には何故か付き合いがない。別に仲が悪い訳ではなく、単に家がちょっと離れているというだけだ。回覧板を回し合う「班」がうちとそことでは違うのかもしれない。
ともかく、私の子供時代はまだ、「あさひ観音」は地域の人々から大切にされていたが、いつの間にか「甘酒祭り」は行われなくなったし、お賽銭を集めることももうなく、今はたぶん放置されていると思う。Googleマップで見てみたら、祠は昔と変わらず、だが屋根は錆びて鳥居は朽ちていた。なのに紫陽花はそのままで、祠の外の石碑もちゃんとあり、祠のなかには苔ひとつ生えていない観音様がある。だが赤い前かけはだいぶ色褪せていた。
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