💩<うんち!
未来人の価値観は理解に苦しむところもあるが、翻訳の難しさは俺たちにでも分かる問題だ。
慣用句や、詩的な表現、そういった何らかのコンテクストが要求されるとき、別の言語に変換することは困難を極める。
該当する適切な表現が翻訳先の言語になければ、その時点で破綻するんだ。
そこを意訳したり省略したり、或いは開き直って直訳すれば最低限は伝わるかもしれない。
ガイドの時代でも試行錯誤はあったようだが、不可能という結論を先延ばしにする以上の意味はなかった。
100%正しい翻訳ではない時点で、100%正しい意思疎通もありえない、ってことらしい。
「結局は翻訳という工程を必要としない、新たな共通言語を開発することで対策をしたんだ」
「そういえば以前にどこかで話していたな。フエラムネ語だっけ」
「ヒューメレンゲ語じゃなかった?」
「いや、フュ○メッ△ゲ語だね」
それでも課題は残った。
言語そのものを最適化しようが、他種がそれを用いることができない時点で、。
「言葉というもの自体が、所詮はヒト向きのコミニケーション手段でしかないからね」
そして、その“ヒト向けのコミニケーション手段”でもって動物と“会話”をすることは、極めてヒトの恣意的な判断が介入することになる。
それは意思疎通ができているようで、実際は“分かっているつもり”の状態に近い。
むしろ中途半端な理解によって、新たな問題が発生する場合もある。
「つまり理念に反するんだよ。『人間の尺度で動物の意思を推し量ることは傲慢だ』という指摘が多くてね」
ガイドの時代は技術開発ばかり先行していると思っていたが、そういうことも考えている人も多いんだな。
自分が生きていない遥か未来のことなど大して興味もないが、俺にでも理解できる価値観が残っているようで少し安心した。
「あ~あ、つまんねえの。結局は何も分からないってことじゃねえか。未来って言っても、そんなもんかよ」
「体調を管理する機器を用いて、快・不快度などのバロメーターは分かるよ」
弟にとっては面白くない結果だったが、俺は内心これでよかったとも感じていた。
そりゃあ気にならないわけじゃない。
時々、思うことはある。
キトゥンの奴が日々をどのように世界を見て、考え、動いているのか。
それが、おこがましいって分かっているから、したくないだけでさ。
自分があのテの動物番組を無邪気に楽しめるタイプなら、こんな七面倒くさいことを考えなくて済んだのかもしれないが。
……あれ、いないぞ。
恐らく日課の散策に行ったのだろうが、いつもどこで何をしているんだ。
あいつの勝手とはいえ、飼い主という名分でもって把握しておくべきなのだろうか。
「みんなから反対されましたが出したら売れました」とか
それより「みんなから反対されましたが出したらやっぱり爆死しました」とか
「こんなニッチな本は絶対売れないと思ったけどやっぱり売れませんでした」って話の方が遥かに多いし
ちょっとバズって小ヒット程度ならあっても、大多数の売れない本の赤字を補えるほどの大ヒットは滅多に出ない時代だから
「大多数に合わせた本を作る手腕」の方が遥かに求められるだろ
半分になっても7億人。やべえな。
プロ奢られやーでもやれば
本当に嗜好が特殊で誰からも共感を得られないような人間もいない。
「みんなから反対されましたが出したら売れました」とか
「こんなニッチな本は絶対売れないと思ったけどバズりました」みたいな話はいくらでも転がってるわけで、
いま編集者に求められてるプロデュース力っていうのはそれじゃん、
「大多数に合わせた本を作る手腕」じゃなくて