はてなキーワード: 赤の他人とは
子持ち様、育児の世界だとそっちはそっちで専業ママに面倒事押し付けたがる人よく見るけど
職場と違ってそちらはただの赤の他人同士だから、専業ママ側にも他人の犠牲にならなければならない理由などないんだよな
個人的に気が弱い人がたかられてるケースはあるだろうけど、一般論としての「専業はワーママ様の子供の面倒をタダで見るべき!」なんて風潮はない
というか基本的にそういうの求めるワーママは非常識ママとして排除される
子持ち様はよく「地域で子育てするべき(私の子供を暇な専業共が面倒見ろよ)」とか言うけど、黙ってそれに従う他のママなんかそうそういない
職場でも海外みたいに皆が自分の仕事だけやってりゃいい世界なら子持ち様の仕事を代わりに請け負ってやらなきゃならない人なんか出ないだろうにね
大谷と水原は通訳、マネージャー以上の関係で大谷の財産は実質二人の共有財産だった
しかし、大谷の親は敬虔なキリスト教の信者で大谷がそういう属性の人であることを親にバラしたくなかった
このタイミングで結婚を報告したのも賭博の件で捜査が進んでいることを事前に察知し、今回の件で操作のメスが大谷と水原の関係まで及ぶことを恐れたから
肩代わりとか盗難とか主張が二転三転したのも「ただ共有財産を使っただけ」という真実を隠すための拙い言い訳
莫大な財産を赤の他人に任せているなんて異様?水原は赤の他人ではないのだ、ただそれは隠された関係
なんかこれ読んでしみじみ思ったけど、結婚に恋愛を持ち込まないほうがいい。
うちの亡くなった祖父母は半世紀以上ケンカ一つなくやってたが、それは男女と言うよりビジネスパートナーだったからだと思う。
つかずはなれずの適切な距離を維持するための人類の叡智が「礼儀作法」である。
夫婦に限らず人付き合い全般に言える。知能も経済力も違う赤の他人と、下手に密着したり敵対せずに済ませるストラテジーこそはたっぷり慇懃に振る舞うことである。また無礼な人間の接近を許さないことである。
→ 増えたか減った
→ 考えが頭に浮かんでしまう?
→ 楽しめない? 重要なネームが書けていない状況ではそりゃエンタメは楽しめなくなるのでは?
散歩や外出はできる。
月一通院だったが、再発したので薬の調節のために2週に一回の通院になった……という補足があれば理解できるのだが。
この人にとって漫画を描くというのはどういう意味を持つんだろう。
社会との繋がり? 食い扶持? 自己肯定感を高めるためのもの?
赤の他人からすると、もう描かなきゃいいのにとか、あの内容を載せるくらいなら最終回の掲載を伸ばしてもらうほうが良かったんじゃないかとか、寛解してから単行本で最終回だけ差し替えるつもりなのかなとか考えてしまうけど。
母親は私が育った地元に住んでいるので私の同級生の親と話をすることがあるのだが
同級生の親から聞いた同級生の情報(マイホームを○○に建てて子供は何人産まれた等)をいちいち
私の方に垂れ流してくるのもうざい
ひどいときには一切つきあいのない同級生の結婚式の画像、子供の画像まで流れてくる
私の結婚式の画像も母親が同級生の親に流出させてるんだと思うと気分が悪い
あっ私の子供の画像も流出させてるんだろうな。同級生の親から情報を引き出しつつ、得意気に自分の孫の自慢もしてるんだろうな
私が知らない間に他人に私の子供の画像が回ってることを考えるとさらに気分が悪くなってきた
母親から私が全然知らない若い女性(母の知り合いの娘?)がすっぴん部屋着で赤ちゃんの育児してる画像を送られてきたことがあるが、その女性は自分の画像が赤の他人に流出してることを知らないだろう
最近はあまり見なくなったけど、少し前は発達障碍当事者の自己語りをネット上でよく見かけた。
自分にはどういう特性があり、どういう問題を抱えてきて、何が困難で、といったような語りだ。
これはかつてネット上の色んな場所で見られ、時に煙たがられてきたようなものだが、当人にとってこれは自分を理解し次の段階に進むために必要なステップである。
このような語りをするのは、大人になってから初めて診断を受けたような人が多い。そういう人は、子供の頃から様々な理不尽に曝されて生きてきている。
人と全く合わなかったり、馴染めなかったり、いじめられたり。自分は普通にしているだけなのに、その原因が分からない。
それが発達障碍という概念を知って、自分を散々苦しめてきた原因はこれだったのか!と天啓を受けたような気分になる。
あの時の理不尽も、この時の違和感も、すべてはこれが原因だった。人生の伏線回収だ。
そして、この大発見を皆に知らせたいという気持ちになり、このことを知ればみんなが自分を見る目も変わるかもしれないと期待をも抱き、語らずにはいられなくなってしまうのだ。
俺自身もそうだった。俺はネット上ではなく精神科医に対して自己語りをしたのであるが、A4用紙に20ページぐらい、自分の半生の出来事を一心不乱に書き続け、病院に持参したものである。
そのような「大発見」は、当人にとっては生き方を左右するレベルの出来事だが、赤の他人にとってはどうでもいいようなことである。
しかし発達障碍の当事者は、発達障碍を持つがゆえに、それが他人にとってどうでもいいことであるとは気づかない。
そのため、まるで数学の新しい定理を発見したかのような気持ちで、その発見は他人にとっても価値があるものだと確信し、自己語りを公開するのである。
そのように自己語りをしても、周りからの反応はほとんどない。しかし、そうして言葉を紡ぐプロセスを経ることで、当事者は自分自身を深く理解し、次のステップに進むことができる。
また自己語りに関する反応が薄いことで、ああこれは他人にとって価値のない情報なんだと、当人もやっと理解することができる。自己語りは、当事者自身のために必要なことなのだ。
最近、こうした自己語りが少ないのは幼少期から診断を受ける人が増えてきたためだと思う。子供の頃から発達障碍の自覚があれば、大人になって急に天啓を受けることもないのだろう。
また発達障碍の概念が十分に知れ渡ったために、他人に知らせたいという動機も薄くなっているのだと思う。
しかし今でもそうした語りをまったく見ないわけではない。もしそのような自己語りを見かけたら、それは当人にとって必要なステップなのだと理解してほしい。