はてなキーワード: 岡田斗司夫とは
なんかオタクだったら童貞で当たり前、彼女いたら非国民みたいなw
自分がモテないからって自分が好きなもののコミュニティ全体がそうだって信じたいんだ!
実際、オタクの代表格として出てくる岡田斗司夫とかみうらじゅんって
普通に恋愛して結婚してるのにね。漫画家さんも普通に結婚してる。
俺が好きなアニメも一緒に見てくれますよ?
全然、おかしい。自分がモテないのをコミュニティのせいにしちゃダメだね。
あとセックスレスが多いってのも変だよね。こんなにエロサイトが溢れてるのに、肝心のセックスは何でしないの?
俺なんてオナニーする時でも考えるのは彼女のことだし、一緒にいたら必ずセックスするのに。
バカだね。みんな願望充足方法が、おかしいよ!全然、変だよ!
標題に書いた通り、本書の感想ではありませんが、ちょっと思ったことを書きます。
まあ、私自身、元理系の無知なヌルオタなのは自覚していましたが、うなってしまう箇所がありました。少々長めですが、引用します。(当然、無断引用なので、問題等ありましたら、削除いたします)
(以下、P151からP152にかけて)
ローマ帝国は、独裁者によって運営されています。というより、独裁者(デイクタトル)という言葉自体、ローマ帝国の政治システムから生まれた用語です。
もともと共和国家であったローマは、度重なる戦役や国内の混乱に対処するため、迅速かつ公正な判断を下す統治者制度をつくりました。それが「独裁者」です。
長老たちによる推薦と市民の選挙によって「独裁者」を選び、それまでは議会で長々と、時には数年も話し合いながら結論を引き延ばしていた懸案も、あっというまに解決させる。
独裁制は当時のローマ帝国の混乱を一気に解決しました。今の私たちから見ると、ディクタトルは「大統領」とか「社長」と翻訳した方が理解しやすいかもしれません。
独裁者=ディクタトルは共和制ローマから帝政に移行したときに「皇帝」と名前を変えます。独裁者が任期制だったのに対し、皇帝は基本的に終身制でした。
独裁者の任期問題で苦労したユリウス・カエサルが作り上げようとした「終身独裁者」というシステムが皇帝制度です。カエサルの死後、一時は共和制に戻りかけたローマでオクタヴィアヌスは皇帝就任を宣言します。
(このあたりのローマ帝国の歴史経緯は西欧諸国ではかなりの常識です。たとえば『スターウォーズ』のお話を理解するためには、「共和制→帝政」の理解が不可欠なんですけど、あまりそのあたりに踏み込んだスターウォーズ論は読んだことがありません)
さて、この文章を読んでいる方は、このスターウォーズに関する「常識」をご存じでしたでしょうか?私の場合、自分の無知を棚に上げて、どうして誰も教えてくれなかったのか?と逆ギレしてしまいそうになってしまいました。なんというか、映画評論家とかって、自分の感想しか言わないじゃないですか。そんなのは、インターネットの素人の意見の方がよっぽど信用がおけます(私に限らないと思いますが)。プロに求められているのは、一般人に作品の背景を教養学的に解説し、作品の面白さをさらに上げる講釈家みたいな仕事だと思うのです。
そういう意味では、町山智浩氏の『映画の見方がわかる本』は良い仕事でしたね(元ネタがあるそうですが、それでも、日本語の本にした功績は大きい)。マンガ夜話やアニメ夜話も、そういった意味では良い番組だと思います。
いずれにせよ、TVのバラエティ番組が脊髄反射的に視聴者を笑わせて、時間を消費させる時代というのはもう終わっているような気がします。働き盛りにとっては時間は貴重な資源ですし、若者は携帯やPCで、自らコミュニケーションしていた方が楽しい。結局、TVは、団塊世代を中心とした老人向けの番組が多くなるかも知れませんね(笑)。
つまり、言いたいのは、プロにはプロならではの仕事が求められるでしょうし、ネットの普及で、「プロならではの仕事」の定義が変わってきている訳で、その辺に自覚的なプロがどれくらいいるのかということですね。まあ、露骨な世論誘導をするTV業界は、無自覚なまま滅んでしまっても良いと思いますが(笑)。
岡田斗司夫「メガマックは4つに切って3つを捨てて食べれば痩せる」
この記事を読んで非常に気になった事がある。
おそらくこの日記を見た人は上の記事を「なんて事を言うんだ」と思って開いたと思う。
元のスレッドで議論している人もそう思って書き込んでいる事は想像に易い。
だがZAKZAKの記事には「メガマックは4つに切って3つを捨てて食べれば痩せる」なんて書いてないし
記事の要約ですらない。
文脈からすればそもそも無駄に食べ物を買わない癖を付けるために作ったルールのように思える。
少なくとも
「メガマックなんて全部食べるような物じゃありません。1/4食べたら捨ててますよ!」
等と言う意味では言っていないのは分かると思う。
視点は違えど結局マスコミとやってる事は同じだ。
7 : ペスト・コントロール・オペレーター(長野県):10/07/27 16:27 ID:VXzEcToP
俺も人を信じないけど表面上は信頼してるように見せないと色々面倒だろ
コミュニケーションにおける最大の問題は、それが達成されたという幻想である。
The greatest problem in communication is the illusion that it has been accomplished.
George Bernard Shaw
たいていの友情は見せかけであり、たいていの恋は愚かさでしかない。
「嫌われる勇気」ありますか? 承認欲求を否定するアドラー心理学とは | ダ・ヴィンチニュース
大切なことはすべてアドラーが教えてくれた | 好きな事を好きな時に好きなだけする
噂が怖いのは、聞き耳を立てその噂をかぎつけた人は、今度はそれを他人に言いふらすからです。
見出しのコトワザのいうように、
とくに他人の噂を伝えてくれる人や、
あなたのことを根ほり葉ほり聞きたがる人には、
気をつけなければなりません。
その人はあなたの噂を次の人へと伝えるからです。
簡単じゃない。
“友達ごっこ”なんて。
すべてこの世は舞台、男も女もすべて役者に過ぎない。シェイクスピア
コミュニケーションにおける最大の問題はそれが達成されたという幻想
[友人][友達][友情]お互い友人だといっても、それを信じるのは愚か者。
連帯保証人には、簡単になってはいけない。しかし、連帯保証人のハンコを押す友人が一人もいないというのもまた淋しい人生である。(加藤諦三)
[権内][権外][分限自覚][エピクテートス]意志の力でどうにもならない物事
誰のことばにも耳をかせ。こちらのことはむやみに話すな。 シェークスピア
人間関係は腹六分 僕の大嫌いな人間は、膝の上に上がってきたから頭をなでてやったら、いい気になって肩まで登ってくる。放っておいたら今度は頭の上まで登って顔まで舐めだす奴がいる。僕はそういう奴は大嫌い
はてなブックマーク - 2歳女児の顔なめ続けた59歳男を逮捕 - 社会ニュース : nikkansports.com
かけがえのない人間になるためには、
常に他人と違っていなければならない。
ココ・ シャネル
たとえ友人を失ったとしても、誰が気にするだろうか。そして、
すべては私たちの頭の中にあるのだから、
それらを失わないようにするのがよい。
多分友達が必要なのは、自分が確立していないからなんだと思います。
わざわざ友達に会う為に一時間もかけて学校になんか行きませんよね。
因みに現在のぼくの友達の定義は、ぼく(たち)に何らかの危険があった時に
真っ先に電話をする人、です。
そうなると、ただしゃべっていておもしろい人とかは、おちます。
もっと本当に頼れる人。
よく新聞とかで、エライ企業人とかの 昔話しで友達の大切さ、なんて書いてありますよね。
ぼく、あんなの信じられない。
少なくとも私は親兄弟に関しては相当の相互理解を持っているとは思いますが、
友人等の基本的には他人である人間に関して、親友と呼べる人間でもせいぜい6割の相互理解が関の山だと思います。
そして、一生かかっても100%の相互理解を得られる人間なんて存在しないでしょう。
それは恐らくは私だけではなく、ほとんど全ての人に言えることだと私は思います。
もちろん本人が理解し合っているつもりってのは除いてですよ。
世間の人が友愛と呼んでいるものは、ただの社交、欲望の駆け引き、親切のとりかえっこに過ぎない。結局自愛が常に何かの得をしようとする一種の取引に過ぎない。
友人友情は偶然や便宜のための付き合いやなじみ深さをいうに過ぎない
[友人][友達][友情]困難な情勢になってはじめて、誰が本当の味方だったかわかるものだ。
いろいろ書かせる調査票が配られたことがあって、そこに「友人は誰か」というのがあったのね。
友達かそうでないか、1か0かに分けさせるのって残酷だと思うんですよ。
0.3くらいの強さで人と辛うじて繋がっていた人が、
社会人奮闘日誌:友達 - livedoor Blog(ブログ)
例えば自分はこの人は友達だと思っていても
相手は知人と思って要るかもしれない?
友情とは名ばかりのものだ。私はどんな人間も愛さない。兄弟すら愛さない。
兄のジョセフだけは少し愛している。ただし、それも習慣上からである。
私は他人の心を理解するだなんて超能力を持ち合わせてはいない。できるのは、他人の心を推測することだけ。
人間は一生、他人の心などわかるはずもない。MASTERキートン
完全に自分の事をわかってもらえない、完全には相手の事がわからない
他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちている
「人間の性は、本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾であるが故に、私は人間を根本的に信用しない」
[人間関係]「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」
本当の幸せは内側からもたらされる。 誰もあなたを幸せにすることは
[人間関係]「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」
[biz]中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
[権内][権外][分限自覚][エピクテートス]意志の力でどうにもならない物事
たいていの友情は見せかけであり、たいていの恋は愚かさでしかない。
私たちは「一日に平均二回」の嘘をつく(ヴァージニア大学調べ)
彼女にも、友達にも、上司にも、部下にも嘘を付く
建前と本音
友情を疑う―親しさという牢獄 (中公新書) : 清水 真木 : 本 : Amazon
友人たちよ、友人などいないのだ。アリストテレス
友人と親しさの差異は何か
結果的に、
これらの言葉が「使えない」という唯一の可能な使い方であるという結論に辿りつかねばならなかった
p190
運と気まぐれに支配される人たち―ラ・ロシュフコー箴言集 (角川文庫) : ラ・ロシュフコー, Fran〓@79CF@ois de La Rochefoucauld, 吉川 浩 : 本 : Amazon
ただの社交、
親切のとりかえっこに過ぎない。
結局自愛が常に
何かの得をしようとする一種の取引に過ぎない。
習慣は偽りの友を作る。
友人は服のようなものだ。
すり切れないうちに捨てねばならぬ。
さもないと、向こうがこちらを捨てる。
三人の信用するに足る友がいる。
老妻、老犬、それと貯金。
トルコの諺
友人が成功するたびに、私は少しずつ死んでゆく。
友を探し求めるものは不幸である。というのは、
忠実な友はただ彼自身のみなのであるから。
友を探し求めるものは、
己自身に忠実な友たりえない。
[悪口][陰口][告げ口][お世辞][心にもない言葉]ねたみ・批判にあった時
友達が
いて非常に迷惑だった。
☆ゴミの通院日記☆:波浪注意報 - livedoor Blog(ブログ)
私はあんたのことなんて知らない、お前が男とどうなろうがしったこっちゃない。
言いたいのに、いえない。
私へのメールは日記じゃないのです。
うざいからやめてくれない?
泣きながら電話するのやめてくれない?
中2の女子です。他人が信じられなくなりました。他人の心は読むことはできないと思います。 - Yahoo!知恵袋
自分の心も、表情とかにださない場合は他人にはわからないと思います。
私は心の中では最低な人間です。
彼女にも、友達にも、上司にも、部下にも嘘を付く
建前と本音
「福田には友達がいなかった。いつも一人でいたね」麻布高同級生のベテラン声優が語る福田氏の素顔
スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法 : ダンカン ワッツ, Duncan J. Watts, 辻 竜平, 友知 政樹 : 本 : Amazon
はてなブックマーク - ARTIFACT ―人工事実― : mixiは毎日年賀状をやりとりするようなものだから疲れる―コミュニケーションコストが高いツールで複数の人と雑談を毎日する苦労―
はてなブックマーク - 九尾のネコ鞭「会話はキャッチボール」の本当の意味
はてなブックマーク - コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由 - 分裂勘違い君劇場
噂が怖いのは、聞き耳を立てその噂をかぎつけた人は、今度はそれを他人に言いふらすからです。
見出しのコトワザのいうように、
とくに他人の噂を伝えてくれる人や、
あなたのことを根ほり葉ほり聞きたがる人には、
気をつけなければなりません。
その人はあなたの噂を次の人へと伝えるからです。
三人いる所で言ったり、したりしたことは、秘密にはできない
多数の者に人気のあるほうが善いというふうにはならない。セネカ
[悪口][陰口][告げ口][お世辞][心にもない言葉]ねたみ・批判にあった時
嫌いな人については考えないことにしよう。
他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに、だ。
これからは、どんなに非難されようが、ほめられようが、人があれこれ言おうが言うまいが、俺は俺の考えに従う。
ラ・フォンテーヌ
[友人][友達][友情]お互い友人だといっても、それを信じるのは愚か者。
【人間関係】こっちが友達とおもっていても相手はどう思ってるかわからん
自分が友達と思っていても相手が自分を友達と思っているとは限らない
[友人][友達][友情]友情とは名ばかりのものだ。ナポレオン
たいていの友情は見せかけであり、たいていの恋は愚かさでしかない。シェークスピア
すべてこの世は舞台、男も女もすべて役者に過ぎない。シェイクスピア
友人友情は偶然や便宜のための付き合いやなじみ深さをいうに過ぎない
友情とは天気がよければ2人乗れるが悪いと1人しか乗れない程度の船
三種類の友がある。諸君を愛する友、諸君を忘れる友、諸君を憎む友。
君は君の友にあまりに近づきすぎて彼に隷属せずにいることができるか
相手の同意なく相手を支配できるほど優れた人など存在し得ない。
支配したり、服従したりしないで、それでいて、何者かで在り得る人間
私は私のことをします。ですから、あなたはあなたのことをして下さい。
愚か者でないかぎり誠実であることは危険である。バーナード・ショー
自らの運命をコントロールせよ。他人にコントロールされることになる
あなたを怒らすことができる人は誰でもあなたの主人となる。エピクテートス
友に選んだであろうような女でなければ、妻として選んではならない
人間は一生、他人の心などわかるはずもない。MASTERキートン
天体の運動はいくらでも計算できるが人の気持ちはとても計算できない
公益目的でなければ、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな
本当の幸せは内側からもたらされる。 誰もあなたを幸せにすることは
我々は一人で世の中を歩いている。我々が望むような友情は夢・寓話
[友人][友達][友情]お互い友人だといっても、それを信じるのは愚か者。
人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚かだ。ゲーテ
他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちている
「人間の性は、本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾であるが故に、私は人間を根本的に信用しない」
私たちは「一日に平均二回」の嘘をつく(ヴァージニア大学調べ)
[biz]中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
頭まで登って、顔まで舐めだす奴がいる。 俺はそういう奴が大嫌いなんだ。
他人をあてにしてはならない。それは期待するほうがまちがっている。
[人間関係]「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」
[人間関係]私は他人に何も期待しません。ですから人の行動が、私の願いに反することはありません。
はてなブックマーク - 九尾のネコ鞭「会話はキャッチボール」の本当の意味
君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し
Amazon.co.jp: 友だち幻想―人と人の“つながり”を考える (ちくまプリマー新書): 菅野 仁: 本
Amazon.co.jp: 友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書): 土井 隆義: 本
友情を疑う―親しさという牢獄 (中公新書) : 清水 真木 : 本 : Amazon
友人たちよ、友人などいないのだ。アリストテレス
友人と親しさの差異は何か
おとなのひとにいってほしかった24のこと | ヨゼフ パイオン, 上野 紀子, Joseph Pion, 多田 文子 | 本 | Amazon.co.jp
「友だちはいらない」
子どものための哲学対話 / 永井 均【著】/内田 かずひろ【絵】 - 紀伊國屋書店ウェブストア
友だちはいらない!
そんな友だちなら、いなくたっていいじゃないか!齋藤孝の「ガツンと一発」シリーズ 第(3)巻 | 齋藤孝 | 本 | Amazon.co.jp
「つるむ関係」と「友だち」はちがう
友だちは無駄である (ちくまプリマーブックス) : 佐野 洋子 : 本 : Amazon
「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た : 村上 宣寛 : 本 : Amazon
”リア充”がネットで流行 岡田斗司夫さん「人間関係で必要なのは、仕事仲間と恋人と家族だけ」
私はある時期から、「友だち」とは何かとか考えないようになった。理由は、「友だち」よりも「一緒に働く人」の方が重要だからである。
友達がひとりもいません。そういう方はいますか? 1-99 - 無職.com
友達が一人もいないひといますか? 1-99 - 無職.com
[悪口][陰口][告げ口][お世辞][心にもない言葉]ねたみ・批判にあった時
「なぜ悩むんだね、人間は一生、他人の心などわかるはずもないし、人の死を本当に悲しむことなどできはしない。」
「あなたが奥さんを愛していたのは本当のことだ、それは、あなたの中にあるからだ。」
「でも、奥さんがあなたを愛していたかは、あなたの思いこみだけで、本当には分からない …ましてや、わかりあっていたなんて幻想に過ぎない。」
「人間は一生、自分という宇宙から出られはしない。」
「自分の中に描いた他人と共に暮らし、ドラマを作り、泣き、悲しみ、死んでいく。」
「いや、これは人間だけではない、鳥や獣もそうかもしれない。」
「しかし人間は、この宇宙よりもずっと広大な宇宙を持っている・・・。」
マスターキートン 第4巻第1話『喜びの壁』
もうそろそろ、岡田斗司夫みたいなまとめ役が現れてネットに偏在する金を持ったオタクどもから金を集めてアニメを作ったりしないかなと。
脚本でっち上げて、こんな30分アニメをつくりたいです。でも一話あたりとりあえず300万資金が必要です。って言う人が現れないだろうか。
それがシリーズ物の第一話だったりして、次の話を見たいならあと300万よこせって盛大にオタクどもをだましたりしてくれないだろうか。
低画質版をyoutubeやニコニコで配信して、高画質版を見たいならDVDかえというような商売をしてくれないだろうか。
ていうか、もう岡田斗司夫本人でいいや。
http://anond.hatelabo.jp/20070629015021
うろ覚えなんだけど、どこかで岡田斗司夫(かはてなでそれを援用した誰か)が
今の時代に喧伝される「オタク」はもはやオタクではなくて、そういうブームは終焉したというようなことを言っていた様な・・
まぁ、オタク的なものが「先端」とは言えない気がする。
蓄積が非常にある人々を見ると押しつぶされそうになるのはわかる。
高校生の時2chを見ていて、何か「ベテラン」にやられてしまうんじゃないかというような
緊張感があったしなあ。
確かに、リアル世界でもそういう「差」を痛感させられることはありうるが、
ネットに嵌りすぎるとそこでもそういうのを感じて余計にずしっと来るから
防衛反応が出ちゃうのかもね。
岡田 「私は岡田斗司夫……かつて、オタクと呼ばれた者。(略)みんなそれぞれに『オタク』という言葉をとらえている。(略)しかたがないことかもしれない。きみたちはオタクという幻想でつながった世代なのだから……」
岡田 「人を超えた“力”と『人の革新』とは別のことなんだ。(略)ぼくの終わりとともに『オタク』という言葉も消えるべきだった。けれどもそれに囚われてしまった人々は、その次を求めてしまった」
岡田 「そうだ。それと同時に、過去にしがみつき、それを利用することしか考えなかった者にも未来は作れない。(略)そう、すべては幻だ。(略)『オタク』を求めてさすらう時代はもう終ったんだよ。そしてきみたちは新しい未来を作っていかなきゃならない。(略)『オタク』という言葉を捨てればいい。それで願いは叶うはずだ。(略)ぼくも元いた場所に帰る」
総統 「行かないでくれ! 『オタク』がなければ、我らはどうなる!」
美形 「そんなものはなかったんですよ。はじめから」
岡田 「ふるい時代は これで終わりだ」
BOOK OFFで、岡田斗司夫がテレビブロスで連載していた「オタクの迷い道」の文庫をふと買った。
懐かしいなあと思いつつ。
そしたら、後でネットで公開していることを知った。ギャー!
・・・まあいいや。語り下ろしの対談がついていたから(負け惜しみ)
で、本題。
下記の引用に出てくる「シンクロCHAT」の疑似ライブ感の面白さって、ニコニコ動画の起源みたいなものだなあと思った。
昔から、こんなことしていたのだなと。
それだけです。
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/priodical/mayoimichi/TVBROS5.html
「椎名へきるは、へきる星から来たんですよ」とぼくは教えられた。
「へきる星は神奈川県にあるんです」「えっ?!」「だから、へきるファンは、神奈川県へ行く時は、へきる星に言ってくると言うんですよ」
やっぱり、へきるファンは壊れている。
しかも、ちょうどいい具合に壊れている。
この前、名古屋で会ったファンも、少し前までは、熱が冷めてきていたのに、新曲「目を覚ませ、男なら」を聞いてしまった。「もし私がさらわれたら、必ず助けに来て。どこまでも追ってきて」という歌詞で、椎名へきる自身の作詞だ。その曲を毎日毎日、何回も聞いていると、だんだん「やっぱりファンをやめちゃダメだ。もっと応援しなきゃ」という気になってくる。あれは尊師のテープですよ、と彼は力説した。
CDを何回もきくのは、まだ初期症状だ。現在は、パソコン通信という悪魔のツールで、みんなの心はバキバキに壊されている。
へきるファンたち(つまりへきらーの方々)はインターネットやパソコン通信で毎日、何百件という書き込みを読んだり書いたりしている。毎日、そんなにたくさんのへきる情報を、浴びるのだ。世界で大事なことは、椎名へきるに関することだけという確信に至っても不思議ではない。
中でも、一番凄いのは、シンクロCHAT(チャット)だ。CHATというのは、パソコン通信の一種で、書いた文章がそのまま、即時に、みんなで読めるように表示されるシステムだ。だから、書き文字で会話が出来る。電子会議室が、みんなで見られる電子交換日記なら、CHATとは、電子井戸端会議だ。もちろんネットとつなぎっぱなしになるので、電話代や接続料がものすごく高くつく。が、それでもハマる人が多い悪魔のシステムなのだ。
椎名へきる会議室では、シンクロCHATというのが、流行っているらしい。
まず、予め、シンクロCHATを始める日時とアルバム名を決める。その時間前になると、ものすごい数の参加者が、CHAT部屋に入ってくる。で、3.2.1の合図の書き込みで、一斉に各自、自宅でCDをプレイする。これで、全国で何百人ものへきるファンが、同時に同じ曲を聞き始めるのだ。
この音楽に合わせて、コールを入れる。つまりコンサートと同じタイミングで「LOVELYへきる!」と、打ち込む。入力した瞬間、同時に入力された何百行もの「LOVELYへきる!」が表示される。画面上を流れ続ける何百行ものLOVELYへきる。目眩がする光景だ。
映画「シャイニング」で、狂った主人公がタイプライターでうち続ける同じ文章よりも、衝撃的だろう。
へきるファンだけでなく、声優ファンの会議室では、どこもシンクロCHATが盛んだそうだ。みんな、いい具合に壊れているなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20070117155554
中二病(だか暗黒エネルギーだか)的な素材ってのは、手に入りやすい食材なわけであるな。
で、金(発想力とか)のない料理人(クリエイター)の卵が持っているのは、殆どがそういう素材だ。
別にそれはそれで当然であり、中二病素材をこねくり回して料理の腕を鍛え、金を溜め、いずれは中二病的でない素材と中二病的な素材を上手く組み合わせて上手く料理できる立派な料理人になる、というのが妥当な成長なのだろう。
もちろん、中二病素材しか持っていない状態からいきなり超上手い料理を作れる人もいる。
しかしここで、中二病食材を使っているだけで馬鹿にされる・見下される・見透かされるという風潮がある。
これでは、中二病食材しか持たない料理人の卵たちは、自分は不味い料理しか作れないのだ、料理の才能はないのだ、手を出しても馬鹿にされるだけだ、と感じ、料理を志さなくなってしまう。それは、とても悲しいことだ。
「食材を誇(誹)らず、料理を誇(誹)るべし」は非常に正しいが、それに料理人の卵たちが気付かず自ら道を断ってしまうのは見過ごせない。
……ということをリンク先の人は言ってるんだと思うが。あと概ね俺も。
自分から「食材を誇(誹)らず、料理を誇(誹)るべし」「中二病と言われようと今ある食材で料理するしかない」に気付けたりとか、「それでも料理をしたいんだ」と思えるような人間だけが料理人になればいい、という考え方もあるのだろう。
でもそれは、料理(創作)に対する考え方の違いな気がするので、どうとも言えない。
とりあえず俺は、料理を嗜む人も創作を嗜む人も、下手の横好きでも何でもいいから増えればいいと思う。特に創作は。何故なら俺も創作をやりたいけど中二病って貶されるのが怖くてすぐにくじけるワナビ未満の人間だから。
ふと思い出したが、羽生名人だったかの、「情報化時代で簡単にトップの人間が見えてしまうため、御山の大将になれずに物事を努力するモチベーションを保ちづらくなっている」とかいう話にちょっと似てるかも。
※追記)
羽生名人の話は俺の勘違いだったっぽ。はてブでツッコミ受けた。あと名人じゃないとかナントカ。将棋って名人という称号があるのか。
はじめに
秋葉原は現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術の聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェア・コンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェア&ハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。
この記事は、秋葉原の歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。
電気屋街としての秋葉原の歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前の秋葉原にも山際電気(現在のヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後、焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生がラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。
この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野や新橋、渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原の国鉄や都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。
その後、GHQにより道路の拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本の高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車で郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原は電脳街となるのである。
秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメやゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタクの聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。
秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌、アニメグッズ、ガレージキット(フィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原に移転するまで吉祥寺、渋谷、新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂の宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャー・ショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメやマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。
批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメの物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生のミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。
東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語(アニメにおけるキャラクターやロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」
この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁・血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティ=コミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在の秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術の進化が趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。
オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクはオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家の篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。
しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。
秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCやインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタクと情報家電の親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブやパソ通などで、一部のオタクはBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチな趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。
「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。
秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバblog(http://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットのジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在の秋葉原はオタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメのコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。
高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在の秋葉原は評価されるべきだろう。
参考文献
「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹
http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm
http://www.akiba.or.jp/history/index.html
オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1
http://sotokanda.net/his_cafe.html
註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。
コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博
カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介
動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀