はてなキーワード: 利害対立とは
だって日々問題山積なんだからね。時代が変われば問題ができ、それで利害対立が出来て議論がされ、政治が仲裁する。
だけどね、批判されないってのの最も楽な手段が「言論統制」であって、往々にして使われてるんよ。
現に、ネトサポというかたちでレッテル貼りで、政治に問題ある言論をさせないようにとかしてるじゃない。
日本会議系、森友で見えたのも、「上に言うことは従順に従え」という腐った儒教。
本来の儒教は上は批判を受け止める。そのための心構えもいっぱいあるが、日本会議系は全部無視して「下が従順に従え」だけ切り取る。
更に、それを押し付ける。
とすると、「批判のない政治」と聞いて、ある程度政治の知識、歴史がある人間がみれば、上級階級様が好き放題やっても批判のない社会。
全体的に丁寧で反省させられました。俺のは雑すぎ・・・
第1
1.
2.
これでばっちりなんだけど、Pが挙げた昭和33年判決に言及できるとなおよい。
第2
ここは参加的効力の[Ⅰ]発生要件、[Ⅱ]主観的範囲、[Ⅲ]客観的範囲、という次元の違う3つの点を論じないといけないので、三段論法がぐちゃぐちゃになりやすい。
*
(1) 答案の「両者に利害対立がある場合には参加的効力は及ばない」ってのは[Ⅱ]の議論。
(2) 「その効力は判決理由中の判断についても及ぶ」ってのは[Ⅲ]の議論。
(3) [Ⅰ]は補助参加の利益だけど実感に論じる実益は乏しいと書いてあったのでスルーでよいです。
個人的には「要件[Ⅰ][Ⅱ]を満たせば、[Ⅲ]の範囲でCに参加的効力が及ぶ」という書き方をすると三段論法にうまく乗って書きやすいと思う。
2(2)
「参加的効力の生じる範囲の問題として処理すべきである」とあってその通り。
ただ、これは民訴の学者が要件事実論を良く分かってなくて、[Ⅱ]と[Ⅲ]がごっちゃになってしまった黒歴史みたいな話なので、書かなくてもOKす。
3(1)
平成14年判例で「判決の主文を導き出すために必要な主要事実に係る認定及び法律判断など」に生じると判示されたので、まるごと暗記しておくといいっす。
3(2)
丁寧で好印象。俺も見習います(てか俺ここ盛大に間違えてるな・・・)。
第3
2(2)
階層型:
横断的:
・利害が対立するメンバーの折り合いをつける
↓の為末大さんなる人に関するまとめ見てて思ったのだが、
世の中には、政策の是非を判断する時に、倫理を主軸に置いてしまっているが結構いるのだろうと思う。
「その政策が有効か無意味か。リスクはどうか」という観点ではなく、
「その政策は倫理的に正しいか間違っているか」という観点で判断してしまっているのだ、
と考えると、上記の記事で末為氏に噛みついている彼らの言動の多くが理解できてくる。
「自分の見解は論理的に正しい」ではなく「自分の見解は倫理的に正しい」と考えているから、
反対意見に相対した時、
「相手の論理に瑕疵がある」と考えず、「相手の倫理感がおかしい(相手は人格的に卑である)」という方向で物を考えてしまうのだ。
「負けだ」という人に噛みつきもするだろう。
悪への敗北も妥協も許されないだろう。
これは何も左翼に限ったところでもない。
第二次大戦時の日本の是非については、ネトウヨ仲間同士で対立がある部分ではある。
俺はナチスも日本も相当酷い事をやってたと判断してるし、その動機もアジア解放何かじゃなくて国益と軍部の組織の論理が主だっただろうとは考えているが、
一方連合国側も捕虜の虐殺したり民間人虐殺したりその後植民地を奪い返そうとしたりしてる分、
正義と悪の戦いなどではなく、ごく普通の国益と国益がぶつかった戦争に過ぎなかったと考えているが、
どうにもこの考え方が許せない人たちもいるわけだ。
彼らは政策を倫理的に正しいか間違っているかで考えてしまうので、
俺が「いや、日本は相当酷い事やってるだろう」とか書こうものなら、「証拠を出せ」の方向で戦闘モードに入ってしまう人が続出して、
政策決定プロセスのどこに瑕疵があったのかとか、誰のどこに計算違いがあったのかとか、その反省を踏まえて日本政府の仕組みのどこをどう変えるべきなのかとか、
「利害対立している勢力(主に中韓)の言う事を素直に真に受けてる馬鹿」
または
「他国の歓心を買う事が平和への道だと思っている脳みそお花畑野郎」
要するに、「頭が悪い」の方向で相手をバッシングしているのだ。
およそ政策を論じる時に、主義主張が異なる人と議論する時には、
ではなく
で考えるべきだと考える。
そうでなければ、為末氏の言う「変わるつもりのない相手とは話しても無駄」という状態になってしまう。
そういう点で、為末氏の言う事にも一抹の誤りがあると俺は思う。
相手に「悪」のレッテルを貼った瞬間から、妥協も議論もできなくなる。
それではだめなのだ。
そう考える事はできないだろうか。
政策について議論する時は、「悪」は封印するべき禁句なのではないだろうか。
「お前は馬鹿だ」は言っても良いが、「お前は悪だ」は言ってはならないのだ。
俺達は小市民であり一国民に過ぎないので、政策の結果は右も左も関係なく平等に受け取ることになる。
政策がどっちに振れようが、右翼と左翼で受け取る結果に大した違いは無い。
悪も善もあったものではない。
http://anond.hatelabo.jp/20150526190042
これに基本的に賛成。もちろん、ごく一部に学問的にフェミニズムを扱おうとしている人(研究者)もいて、そういう人は当然メンズリブとかにも造詣が深い。近年、こういう立場のフェミニストの人たちが発言する機会も多いので、なんだかそういうものであるような気がしてしまうけど、フェミニズムの全体から見ればこれは例外であって、やっぱりフェミニズムっていうのは、あくまで女性という利害集団による政治運動だってことを忘れてはいけないと思う。それに加えて、政治運動としてのフェミニズムも、戦略的に「これは女性だけの問題ではない」というロジックを使うことが多いので、そういうものだと納得してしまいがちだけど、これは経団連がトリクルダウン理論を持ち出すような話で、それがあるからフェミニズムが(女性に限らない)普遍的な政治運動になれるわけではない。
なので、自分はフェミニズムに同情的な方だし、ネットの議論ではほぼフェミニズム側に立つ意見を持っているけど、絶対にフェミニストにはなれないと思っている。同情的な気持ちになったところで、彼女たちの利害をむき出しにした主張に触れると、相容れないものを感じて、はっと気づかされる。そりゃそうでしょ、そもそもが男性と女性の利害対立の問題なんだから。フェミニズムには政治的に賛成できないというのは当然。フェミニズムが絡む問題について、多数決の投票があったら、男性がフェミニズムと反対の意見に一票を入れることになる場合が出てくるのも当然。ただ、「彼女たちがそう主張するのはもっともだ」と考えるし、倫理的、思想的意義は高く評価している・・・。自分はこういう立場だけど、おそらく、これが(セクシュアリティ的に)通常の男性による「男性としてのフェミニズムへの理解」の限界だと思う。
そして、このあたりの難しさが、最近、ネットなどでフェミニズムへの反発が生まれる原因ではないだろうか。男性的価値観の束縛されて苦しんでいるような人が、フェミニズムに救世主的な眼差しを送るけれど、裏切られる。でも、それはまさに「政治運動としてのフェミニズム」に、「学問としてのフェミニズム」の幻影を見てしまうことによるのではないかと思う。