はてなキーワード: 芸術祭とは
彼の独特な作風は間違いなく評価されるべき才能であると思うのだが、ものすごい不遇。圧倒的に不遇。
地味な作家ならいろいろ打ち切られても当然だと思わなくはないのだが、彼に関しては間違いなく光る何かを持っている。それでいて埋もれている。
まずデビュー作の「少女奇談まこら」という作品があるのだが、これは未だ完結していない。
この作品は原作付きで、原作は平野俊貴(魔法騎士レイアースなどの監督)植竹須美男(アニメ脚本家)の2人。
「ゲゲゲの鬼太郎」をオマージュした妖怪漫画で、妖怪皇の血を引く少女まこらが、お供の妖怪と共に父母を探す旅に出るお話。
2006年にリイド社の月刊少年ファングで連載を開始したのだが、1年後にその雑誌は休刊。
作品自体は好評だったようで、その後、講談社のピテカントロプスというウェブコミック誌で「まこら〜ひひひ怪々伝」に改題して連載再開したのだが、これも08年の終わりあたりに突然の更新終了。無念。
その間に、講談社の別冊少年マガジンで「バニラスパイダー」が連載開始(2009年)。
別冊少年マガジンの創刊号の連載陣としてラインナップされ、そのおどろおどろしい世界観とSF的なストーリーでそこそこ注目された。
原作無しの完全オリジナルの連載は初めてだが、きちんとストーリーも書けることを証明してみせたわけだ。
だが、別マガには他に同じようなおどろおどろしい雰囲気を持った怪物的な作品があった。
こちらの作品は瞬く間に注目され、あっという間に人気作に。
一方バニラスパイダーの方は一部で話題に出るものの特にブレイクはせず、地道に連載を続けていたのだが、結局3巻で打ち切られることになった。
別に「巨人」に何の罪もないのだが、完全に陰に隠れてしまった感がある。
実はこの作品、3巻でものすごくきれいにまとまった傑作なので、最初から3巻の予定だったのでは?という疑問も浮かぶのだが、
序盤に出された伏線が回収できていないことと、3巻での作者のコメントを見る限り「打ち切り」だったのは間違いないと見ていい。
とまあここまでならありきたりな話だが、阿部洋一の不遇はまだ続く。
バニラスパイダー終了後、2010年末に今度はアスキー・メディアワークスの電子コミック誌・電撃コミックジャパンで「血潜り林檎と金魚鉢男」を連載開始。
コミックジャパンという名が付いてる時点で嫌な予感がするのだが(過去に短命に終わった同名の雑誌が2つある)、先に言ってしまおう。これも休刊する。
しかも、こともあろうに阿部洋一はこの雑誌で2つの連載をしていたのだ。
1つは前述の「血潜り~」、そしてもう1つはなんと連載を休止していた「少女奇談まこら」だったのである。
「まこら」連載再開時には大きく「復活」と取り上げられ、それまで発表された話数に加筆修正を加えた「完全版」の刊行、そして最後まで連載するという宣言もあり、ファンを歓喜させた。
そして「血潜り」と並行して連載されることになったのだが、結果は御存知の通り休刊で連載中断である。ひどい。
「血潜り~」は奇抜な設定の漫画で、第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品に選ばれたりとなかなかの高評価を得ていた。
「まこら」も連載再開後のエピソード「夢華族」が傑作中の傑作で、この作品はもう名作になること間違いなしだな、と勝手に思っていた。
それが休刊で2つ同時に中断である。「まこら」に関してはぬか喜びもいいところである。
休刊時の発表では、打ち切りではなく今後の動向は追ってお知らせするとなっていたが、いつまで経っても発表はされず、ついにはサイトまで消滅してしまった。
1つの連載作品で3つも休刊を経験するなんてなかなか無いことで、よくわからない称号を得たような感じすらある。
その後はまた別マガで2013年に「橙は、半透明に二度寝する」を連載開始したり(2015年中に完結予定、打ち切りかは定かでない。既刊1巻)、
集英社のウルトラジャンプで短期連載の「オニクジョ」を含め読切が複数回掲載され、短編集が発売されたり、
デジタル版に完全移行したコミック・アーススターで「新・血潜り林檎と金魚鉢男」として連載が復活したり(これまた新装版が発売されるようだ)(雑誌が雑誌なだけにまた休刊するんじゃないかとの声もある)
と、なんとか漫画家を続けてこられている。(しかし「まこら」は音沙汰なし)
ネット上でオススメの漫画とか紹介するのが流行ってたりするみたいだが、そこにもほとんど顔を出さない。
「少女奇談まこら」はマジで傑作。「橙は、半透明に二度寝する」もとてつもない怪作。オムニバスなんでとりあえず1話だけでも。(http://www.shonenmagazine.com/bmaga/daidaiha)
というわけで、皆さん是非読んでみてね。(わざわざ言わなくてもいいと思うけど、本人じゃないよ)
(追記)
ブコメに「総合マンガ誌キッチュの話はしないのかい?」とありましたが、はい。
「キッチュ」は同人誌に近いマンガ誌で、編集長が阿部洋一氏と同じく京都精華大学マンガ学科ストーリーマンガコースの一期生であるという繋がりからか、作品がよく掲載されています。
大分県国東市周辺で開催されていた国東半島芸術祭で「希望の原理」という展示を見た。
使われなくなった町役場を会場に複数の作家の作品が展示されていた。
面白かった。
廃校になった学校や町中の施設で展示を行う、というのはよくあるが、たいていは面白く無い。
美術館やギャラリーで見た方がまだましなんじゃないかという展示だったり、
会場との関係性に媚びすぎて作品自体がどうでも良くなっているものだったり。
見ているうちにこちらが白けてしまう。
良い作品に出会った時、面白いものを見た時に共通することがある。
その前に、もう一段階前の話。
美術館やギャラリーでちょっと面白かったり、楽しめたりする展示に出会うことある。
ただ、それは「見て損しなかった」という感覚にも近い。
録り忘れたなら見なくてもいいけど、なんとなく毎週見てしまう寡作なテレビドラマやアニメ、
単行本は買わないけど、雑誌の立ち読みでは読んでしまうマンガ。みたいな。
この作品はこういう仕組みで動いているな、この作品の素材は何々かな、
誰それの影響を受けてるっぽいな、ここのとこ仕上げは手抜いてるな、
設営は大変だっただろうな、低予算ぽいのに工夫してがんばってるな、
鑑賞を終えたあとで振り返ってみれば、何か日常と切り離されて異空間にでも居たかのように感じる。
その感覚は、作品自体の詳細は忘れてしまっても記憶として長く残るように思う。
本展では、個々の作品が全体の要素として上手く機能していたように思う。
個々の作品が、自我を主張しあうのではなく、溶け合おうとしているわけでもなく
悪く言えば、何か強烈に印象的な作品があったわけではなかった。
(いや、会議室で展示されていた映像作品は、それだけでとても印象的ではあったが、
それでも会場全体の中の一つとしても機能していた。)
にもかかわらず、小品まで記憶に残っているのは
町役場の廃墟が非日常的であり、日常から切り離されるのに一役買っていたかというと
少しずつ「本当にあった景色」を「どこにもなかった景色」へと空間を歪ませていく。
現実と非現実を横断し、自分自身の記憶と思考を巡らすことになる。(なった)
展示の中に虫の標本のようなものがあった。
町役場内の元々あったとは思えない場所に虫を置いた瓶が並べられていた。
それとは別に赤いブロックで囲まれた植木のような作品の縁に一匹
会場内(廃墟)の別の場所、「保健室」と入り口にある部屋の流しにも
それは意図して置いたようにも思われるし、会場が田舎であることも相まって
そこで死んでしまっていたようにも思える。
そこで、空間が歪む思いがした。
擦り合わされ混濁し、見るものの足場をぐらつかせる。
虫の死骸一つで、見える世界が変わる。
そんな印象を持って、会場を出た。