はてなキーワード: チオビタとは
Jubileeって曲知ってますか?
どなたも、チオビタの牧歌的なCMで耳にしたことがあると思う。
語源をヘブライ語のヨベルに持つ言葉で、歓喜、記念日、祝祭とかそういう意味。
Jubilee 歓びとは 誰かが去る悲しみを 胸に抱きながらあふれた 一粒の雫なんだろう なんで僕は戻らないんだろう
この部分だけ抜き出してどうこういうのは野暮くさいとも思うけれど、どうしてもこの部分が胸に引っかかる。
心地いいんだと思う。響くんだと思う。でも「誰かが去る悲しみ」からあふれるものが、どうして「歓び」なんだろう。
「誰か」との出会いがもたらしてくれた、素晴らしい何らかを胸に、僕がこの先にまた進める歓び、ということなんだろうか。
「あふれた雫」は、その出会いに対する、後になってからしみじみくる感動、とか、そういうものなのかな。
自分はなんて安直で短絡的な考えしか(そしてそれをうまく言語化すること)できないんだ、と絶望しながらもいつもこの部分でいつも泣きそうになる。
この、どうしてなんだろうというクエスチョンが浮かんでいるのに、理屈じゃ説明できないけど泣きたくなるくらいに心が動いてるこの現状!
このバランスのままでいるのがいいのかもしれない。案外これが心地いいのかもしれない。
だけどだけど、周りの人がどんな風にこの歌とか言葉を受け取るのか、とても知りたい。
4月に東京に来て3か月薬局やコンビニで気が付けばリゲインを探しているのだけれども全然見つからない。
(通販しろってみんな言うけど通販苦手なんだよね。家にいないといけないから。そして薬局で買うのとくらべて1.5倍くらいする)
http://www.suntory.co.jp/softdrink/products/0000004330/FREC.html
新作かー200円・・・た・・・高いでも買っちゃうくやしい(ビクンビクン
そして炭酸入り
炭酸苦手なんだよな・・・
他の成分は同じかなとよくよく説明を読んでみれば
1988年の発売より、働く人を応援してきた「リゲイン」を、サントリー食品インターナショナル(株)がエナジードリンクへと進化させた商品です。
あなたは何もわかってない。
http://anond.hatelabo.jp/20130720072435
先日読んだある山月記の評論では、「李徴が虎になったのは虫がよすぎる。人間であった時の所業を反省するなら、それこそ虫けらにでもなるべきだった」とか、「もし袁參ではなく妻子と出会っていても妻子のことより詩業のことを先に気にかけるだろうか」とか、「どうして虎としての最初の体験が兎を食うのでなく人間を食っていた方が衝撃度が大きくて面白いのに」とか無責任に書き放ってあった。
読んでいて面白い発想であるとは思ったが、かなりこいつは歪んでいる、こいつこそハイエナが何かになってしまえなどど思った。
これらの設定は、元にした『人虎伝』を踏襲しているので仕方がないことなのだ。
『人虎伝』にはなくて『山月記』に書き加えられているものである。
一つ目は、依頼の順番が詩の伝録の次に妻子のことという順に入れ換えられていること、二つ目は、李徴が詩人になろうとしていること、三つ目は、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の登場、四つ目は運命論である。
これら書き加えられた部分は、中島敦が『山月記』で書きたかったテーマと密接である。
そして、これらが「李徴の詩が第一流になるのに微妙に欠けている点」「李徴が虎になった理由」を考える糸口になる。
まず、「李徴の詩が第一流になるのに微妙に欠けている点」について考えよう。
妻子の事より自分の詩業を気にかけるような愛情不足や人間性の欠如という考え方がある。
本当に人の深い所から揺り動かすような作品は、作者が全てを犠牲にし命を削ってこそ始めて生まれるものである。
李徴の場合、なまじ妻子のことを気づかっているからこそ第一流の作品にならないのだと私は思う。
「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」とか言っているが、結局は心理と態度の不一致、何やかんやと理由をつけて、詩業に専念しようとしない怠惰が「李徴の詩が第一流になるのに微妙に欠けている点」であると私は思う。
自尊心なら自尊心、羞恥心なら羞恥心を描ききれば、それはそれで第一流の作品になったのではないだろうか。
次に、「李徴が虎になった理由」について考えよう。
李徴は最後に妻子への愛情不足だと言っているが、妻子の為に詩業を諦めて再び役人になろうとしているのだから充分に愛情一本のチオビタお父さん振りを発揮している。
その前に、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と意味ありげな言葉を弄しているが、授業でも考えたようにこれを自分の詩業に当てはめて語っている部分は理路整然としているようで全く矛盾に満ちていた。
それに、「自尊心」と「羞恥心」、「心理」と「態度」など矛盾するものが同時に存在することこそ、人間が人間である証拠なのである。
それは、先週の『探偵ナイト・スクープ』の越前屋俵太の調査でも明らかである。
その矛盾が飼い太った結果虎になるというのは可笑しい。
李徴は色々考えようとするがどれ一つとして理由になっていない。
とすれば、残ったものは「理由もなく押しつけられ、理由もなく生きている生き物のさだめ」、つまり「運命」としか説明がつかない。
人間は主体的にありたい自分の意志に生きたいと思う気持ちが非常に強いので、「運命」などというものを認めようとせず、あれこれ屁理屈を考え出すのである。
項王のように全て天命のせいにし天命に逆らわずに生きる生き方をする以外、この内部矛盾から解放されることはないのである。
多くの人が気にしていた問題は、その後の李徴は人間に戻れたかという点であった。
この答えは、虎になった理由の延長線上にある。
最後に李徴が袁參に虎になった己の醜悪な姿を見せることによって、李徴は内部矛盾から解放されたありのままの自分になることができた。
もとの「臆病な自尊心」などが復活した時にこそ再び「人間」に身を落とすのである。
賢明な人はもう気がついただろう。
「虎」になることが不幸で「人間」になるのが幸福と考えるのは、思い上がったいかにも「人間」らしい発想なのだ。
「人間」とは矛盾に満ちた不条理な生き物であり、「虎」こそが純粋なありのままの自分でいられる生き物なのである。
また、最後の部分が「再びその姿を見なかった」であって「その姿を見せなかった」ではないことを指摘している人がいたが実にスルドイ。
「見せなかった」の主語は「李徴」であるが、「見なかった」の主語は袁參であり読者である。
そして、『人虎伝』にあったその後の様子を中島敦が書かなかったのも、中島敦にとって問題が解決していたからだろう。
女学校の教師を続けるか作家になるか、文学を取るのか妻子の生活を取るのか、自分の中にある「二つの私」をどう処理するのか、これら中島敦自身の問題が、一応解決した、あるいは再び深い絶望の淵に陥ったのか、いずれにせよもはやこれ以上書くことは必要なかったのだろう。
偉大なる先増田様