はてなキーワード: 養父母とは
気持ち悪くなって早い時間にトコについたら、悪夢に目を覚まされた。
「俺はソープで子どもの作り方を知った」「だが、そこからは分からない。どうやって子は育てれば良いのだ。」
他人事なのにとてつもない不安に襲われて、スプーンを内視鏡のように噛み噛みしていたら、髭面の侍が今晩です、という。
妹の産後に駆けつけたら、「娘だったので、では予定通りに養子へ」と会話をしている叔母と誰か。
そちらに顔を向けたら「個人情報保護のため、不透過加工がされてあります」とのメッセージとともに
磨りガラス越しに、赤ちゃんも養父母の顔も見ることを阻まれて。
「……父親は?この子の父親は誰だ」と呟いたら、周りが一様に顔を伏せて二度目の不安に襲われた処で目が覚めた。
後味が悪過ぎる。
人種に関しては、黒人はスーパウルトラグレートデリシャスなアンタッチャブルな扱いなので、別として。
昔は、ロシア系東欧系=悪って感じで、10年前はイスラム系=悪って感じだけど、今はロシア系東欧系イスラム系も人によってはって感じ。
中南米系は基本的に怪しげな人って扱い。名前とかからすると、イタリア・スペイン的な南欧系なのかもしれないけど、主人公格は無理。
養子養父母の否定がしたいわけじゃなく、このNHK特集記事でそれってのが気持ち悪すぎるという話。美談に酔いすぎだろ。
だって野田聖子の中絶禁止による少子化対策発言とかがあってのこれだよ?明らかにその文脈でこのNPOの活動を評価させようとしてるよね?
産む人と育てる人は別でもいいって、そういうことは産む人と育てる人が一緒でもいい・育てられる環境を十二分に整備してから言うべきだろ。
カネがないのに子どもできちゃった、おろして殺すよりはと泣く泣く里子に出した、でその後そのカネのない女どうなるの?
「自分の子」にはおそらく生涯会えず、子を里子に出さねばならんレベルのカネのなさが変わることもない。
逃げた男に確実に責任取らせるような仕組みも女手一つで子ども育てられる仕組みも何も整えないで「産む人と育てる人は別でもいい」って悪夢すぎる。
追記:
論点ずらして問題見ない振りしてる奴は何なの? それが流行の事なかれ主義って奴? それとも真面目に脳みそ足りないのか?
あのさ、養子養父母の否定じゃないって言ってるっしょ最初から。子どもの救済措置としてアリなのはわかるっつの。
しかしそれは親への救済が片手落ち状態なのを一切正当化しないだろ?
そんな状態で「産む人と育てる人は〜」ってフレーズが出てくるのおかしいでしょ。それむしろ「遺伝子は遺したいけど仕事楽しいし子ども嫌いだから里子に出す」ってケースを自由意志と美意識の問題として肯定するための台詞だよね?
そっちならまだ肯定できる。言い方は悪いが需要と供給が本当に噛み合うケースだと思える。
でも経済的困窮で住むとこと産むベッドがボランティア頼りで挙げ句産まれた子どもろくに抱きもしないで手放さなきゃならないって美化して済ませられる話じゃないだろうがよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/600/148408.html
風邪で寝込んでいる間に夏目友人帳を見た。見始めたら止まらなくなってしまった。これは面白かったと言っていいのだろう。
ところで、どうしても気になる点が一つ。
夏目の周りの人たち、同級生や藤原夫妻など、彼らの気の長すぎるほどの優しさに対する違和感はどう対処すればいいの?
夏目友人帳は、自分一人だけに妖怪が見えるということが原因で長い間他人とうまくやってくことができなかった主人公の夏目タカシが、
藤原夫妻という養父母やよき友人たちのもとで、周囲に自分を受け入れてもらう、その難しさや怖さを徐々に克服していくことに焦点を当てた成長物語としての側面を持っている。
もちろん魅力はそれだけではないのだろうけど、
彼の成長、あるいは彼がなかなか成長をしないことに対するじれったさが、
見るものを惹きつけ、続きを見たくなる一つのドライビングフォースとなっていることは間違いない。
ところが、こういう見方をした時にどうしても気になる点がある。
物語中での彼の成長を描くために、過去との対比がよく用いられる。
過去で描かれる夏目は、妖怪のせいで周囲の人から奇妙な行動を目撃されたり、虚言癖があると指差され、距離を置かれる。
さらに、両親がいないために、親戚をたらい回しにされ、自分の居場所を持つことができない非常に孤独な少年として描かれる。
一方で、現在の彼は、藤原夫妻という「優しい」夫妻に引き取られ、高校でも「優しい」同級生に恵まれ、
多少奇妙な言動を見られたり、変なことを言っても、幸いなことに距離を置かれることはない。
むしろ、北本や西川、笹田といったクラスメートは、初期お世辞にも愛想が良いとはいえない夏目に対してすら好意を持ち、
おれは作品の欠点を意地悪くつつくような血気盛んなタイプではないし、
多少気になることがあっても見えないふりをして楽しめる方だと思う。
少なくとも物語のスタート地点での夏目個人は、過去の夏目と同一だろう。
それが周囲の人たちに恵まれて、徐々に心を開いていく。周囲の人達に支えられながら、夏目が成長しているのである。
ところが、過去に出てくる人たちも、必ずしも意地の悪い人というわけではない。
引き取ってくれる親戚も、一部を除けば夏目のことを悪く思っているわけではないし、
同級生も少なくとも転入してすぐには親しくしてくれようとする、とこれは夏目自身が回想している。
これを拒んでしまう夏目自身、そして言動、虚言癖によって徐々に溝ができてしまうというのである。
すると、過去と現在との違いは果たして何なのだろう、ということになる。
物語初期には、他人の好意を条件反射的に拒んでしまう夏目はいまだ健在で、おかしな言動だってある。
確かにこれは徐々に改善されていくのではあるが、その素地は彼自身にあるのではなく、
それまでただひたすら優しく彼の未熟さを受け入れてかまってくれる友人たちにあるのだ。
現在の彼らが夏目に対してひたすら優しい笑顔を向けていられるのだろうか。
あるいはもっと単純に言ってしまえば、アニメ1クールを通してひたすらやさしい友人たちに対する違和感、これが気になって仕方がなかった。
物語としてテーマを浮かび上がらせるためには、単純化というやり方は効果のある手法だと思う。というか物語ってそういうものだ。
ところが、この単純化された物語に対して現実感、あるいは説得力を持たせるためには、
その特殊な設定が許される理由付けが無くてはならない。
もちろん、説得、というのは相手がいるものであって、どれだけしっかりとした理由付けが必要となるかは受け手によるだろう。
理由がなくても流せる人もいるだろうし、逆にもっと極端に目に付く人もいるし、また受け手の体調なんかにも左右されるだろうから、
別に絶対的にうまいやり方はないし、そもそも現状がうまくないと言えるわけではもない。
ただ自分にとってはどうしても気になって仕方がなかったということだけ。
おれの疑問としては、みんなこの「夏目の周囲の人の極端なやさしさ」をどう消化しているのだろう?
ということである。気にならないのか、どうなのか。
最後にこれはかなり個人的な背景が影響することかもしれないが、おれにとってつい次を見てしまう動機となったのはむしろ、
「いつになったら周りの人がイラッとした表情をみせるだろうか」
というジリジリとした緊張感があったような気がする。
自分にとって夏目のいる全く悪意のない環境というのはとても不自然で、
誰かが舌打ちをすることで現実感が生まれるはず、
もっといえば現実感をつかむために誰かが夏目に対して(これはつまり感情移入している自分に対して)舌打ちをしているのを待ってる、
どこまでいけば舌打ちされるのだろうかというジリジリとした緊張感こそが、次を見てしまう原動力となった。
1クールみてからは、この物語には悪意はないのだということを了解したために、そういう緊張感はなくなったのだが。
どうなんですかね。