はてなキーワード: 必然とは
そうなんだ。歯科医でてんかん持ちってクルマ運転するのと同じぐらい危険だと思うんだけど。
てんかんって履歴書に書いたらまず採用されないと思う(けど糞真面目に申告してた。「手帳ないの?」って聞いてくる人事もいた。不勉強だとは思わない。)し、普免ほぼ必須な地方では働けないし、東京でも普免ないとダメよってとこ多いんで、そもそも僕にあった職場なんてのはたかが知れてるんですよね。
てんかんって規則正しい生活と、睡眠がホント大事だから、今の日本情勢じゃまともな仕事できないだろうなーとも思う。僕がこうしているのもある意味必然なのかもしれない。
マジレスすると、理解できるできない以前に、意思決定のプロセスが革新と真逆のものしか受け入れられないようになってるんだよ。日本企業は。
大きな会社で少しでも働いたことがあれば分かると思うけど、日本企業の意思決定の根拠は、なにはさておきとにかくリスクがゼロであること。
厳密にはリスクゼロなんてあり得ないわけだが、そこは大人の事情で、ありとあらゆる調査だのロジックだのを駆使してとにかくリスクがゼロであるというストーリーを組み上げないとゴーサインが出ない。
結果として出来上がるのは誰の目から見ても「無難」なプロジェクトで、革新性とは真逆のものになる。
そもそも革新的な商品、新しい商品というのは、これまでに無いものであるわけで、必然的にリスクのあるもの。
日本企業は伝統的に「リスクを取る」という概念自体が無く、その文化は組織の隅々まで行きわたっているから、そんなものを許容できる余地はないんだよね。
なんでこうなったのかはわからないけど、ともかく現代の日本企業の体質はそういうことになってる。
リスクマネジメントと聞けば「金融の世界のことはよく分かりません」とか「リスクを無くすことが重要です」とか、そういう石器時代みたいなこと言っちゃうのが日本の大手メーカーの現状。
3つめだけわかる。
消臭剤のCMで、「夫のクローゼットは臭い」といった内容。実態以上に男性に対する侮辱だと思う。
家庭内における父親の居場所をなくすうえ、子どもに対しても父親の地位低下をきたす恐れがある。
そもそも、
女性や妻をいじめるような表現は女性差別とか蔑視になるし見てるほうも気分が良くないからと
男性や夫をいじめるような表現と言うのが社会には増えている。CMにも顕著。ずっと前から。
男性は相対的強者だからいじめてよい、という理屈があるんだろうけど
いい加減あれだって差別や蔑視に繋がるし、裏返した差別も差別だと思う。
見てる男性の中でも繊細な人の心には女性嫌悪や女性敵視が湧きかねないと思うんだけど。
フィクションでも女性が男性を無意味にぶちのめすような描写が多くて
(シリアスな敵対関係やSMのような情緒的関係があるなら必然だけどそうではない)
あれは「女性差別避け風潮」の中で育ったクリエイターが過適応してああいう作品が出来てきてる。
つまり
誰かをいじめることで間を持たすような作り、というのを放棄すればいいだけなんだけど。
ブログ、日記、mixi、Twitterをはじめ、食べログなどで、飲食店の料理、店内などが
撮影された写真がアップされることが多くなり、必然的に、飲食店で、カメラ撮影を
されている方に遭遇する事が多くなりました。
私は、現時点では、大変申し訳ないのですが、他のお客がカメラ撮影などを
しかし、喫煙者が隣の席で、食事の合間に、スパスパたばこを吸っているほど、不愉快ではないです。
そこで、どうしてもカメラ撮影したい方には以下の点を提案申し上げます。
1.お店の方に撮影許可をとる
まず、「勝手に撮影」してしまうことは、被写体である料理にしろ、お店の方に
もちろん、お店によっては、そのように考えないお店も多いとは思いますが。
しかし、お店によっては、料理の撮影、ブログへの批評掲載は、営業秘密や技術秘密を
盗撮した場合と同じで、不正競争防止法や窃盗罪、業務妨害罪などに問われる可能性は
あると思います。 自分が盗撮してると思ったら、なんだか後ろめたい気がしませんか?
そして、出来れば、お店に入った時点で許可をとることをお薦めします。それにより、
他のお客様の席から離れた席に案内してくださるかも知れません。
お店に居合わせた他のお客様、同伴者には「食事と店の雰囲気を楽しむ」権利があります。
その権利を奪うような不愉快な思いをさせないように気を配って撮影しましょう。
・さっと出してしまえるコンパクトタイプのデジカメで撮影しましょう
・電源ON/OFF音、ズーム音、シャッター音を出さないよう消音設定にしましょう
・素早くカメラを出して瞬時に撮影1回撮りしましょう(撮影していることを他のお客様に気が付かれない)
・他のお客様は絶対に撮影しない(他のお客様にカメラを向けない)
・同伴者との会話を中断してまで撮影することは避けましょう
・同伴者を撮影することがあると思いますが、ブログなどに公開する場合、同意を得ましょう
・お店の方を撮影したい場合も、同意を得る事はもちろん、忙しいそうなときは止めておきましょう。
3.ブログなどに掲載するときには、お店の方に撮影許可をいただいたことを明記する
ブログなどに掲載されているのを見た方が、このお店は撮影OKなんだと誤解を招く可能性が
あります。誤解を招かないように、お店の方に撮影許可をいただいたことを明記しましょう。
出来れば、どんなことを気をつけて撮影しているか、どこかにまとめておくといいですね。
以上ですかね。
そして、飲食店でのカメラ撮影している方々からのご意見をお待ちしております。
よろしくお願い申し上げます。
私の母が死んだ。47歳の誕生日を迎えてまもない冬の日。半年の闘病生活の末のことだった。
病名は、慢性骨髄性白血病。
以下、情報が正確でないことにご留意下さい。伝聞や、うろ覚えで書いているものが含まれています。
私は一人暮らしをしているから、その時の状況は電話越しに伝えられた範囲でしかしらないことが多い。以前から頻繁に連絡は取っていたが、病気がわかって以来、母の体調が許せば毎日電話していた。
大学が夏休みになるまで二月余りを残していたと思う。どうも母が白血病らしい、と言うことを聞かされた。私が真っ先にしたのがググって見ること。いかんせん、TVでよく見る難病の一つと言うイメージしかない。調べていくと、ここ10年くらいで新しい薬が開発されて、治療に関わる環境はだいぶ良くなっているらしい。良くはわからないが、いまでは直る病気になったようなのだ。
私は安心した。鵜呑みにするのはいけないと思いながらも、信用できる情報だったからだ。
投薬治療で症状が落ち着けば、通院しながら普通に生活できるらしい。母は電話越しに、「仕事を辞めて暇になったからお菓子を作ってるんだ。夏休みになったら作ってあげる。」と普段とあまり変わらぬ調子で言っていた。
この頃は病名を聞かされたショックから立ち直ってた時期だったと思う。
事態が変わったのは夏休みに入る前のことだ。母が入院した。グリベックという薬が効かなくなっていたらしい。後で聞いた話だが、急遽病院に行き、検査を受けてる間にも体調が急変していたそうだ。これはマズイと言うことで、入院することになった。
入院してからしばらくは、薬で抑えていた病気の症状が現れていて、かなり苦しんだらしい。母の体調を鑑みて、長時間の電話は避けざるを得なかった。この時期の全てはあとから聞いた話しになっている。
薬は何種類かあって、人によっては合う合わないがあるし、量の匙加減も難しい。過剰に生産される白血球が下がりすぎてもだめだし、抑えられなくてもダメなのだ。必然的に、治療は長期間に渡るものになる。
ともあれ、主治医の尽力の下、母は体調が安定するようになった。
夏休みに入って、私は実家に戻った。蛇足ながら以下に私の生活パターンを記す。
朝十時ぎりぎりに起きてバイトに行き、午後3時くらいにはバイトから上がりがてら買い物をして、風呂を浴びた後、母を見舞い、午後6時前後に家に帰って夕食の仕度をする。父が母の見舞いにいくなら付いていって、大体12時には寝る。バイトがなければ家事をしながら、できるだけ母のところで過ごす。
実家は田舎にあるので、私は去年取ったばかりの免許片手に車の運転に習熟することになった。病院までは大体車で20分。
家事は一人暮らしである程度の経験はあるものの、家一つ切り盛りするのは容易ではない。私は祖母と分担してやっていたが、母には到底及ばないことを痛感する。
母は夏の間は比較的安定していたように思う。血液中の成分を分析した数値は上下していて、分からないなりに私たちは不安になったものだったが。熱は高めであったが合併症を起こすことも無く、起きて歩いたり出来ていて母は体力を必要以上に落とさないようにするなど、治療について前向きだった。お医者さんが重い病気にも関わらずしゃんとしていてこちらが勇気付けられる、という風なことを言っていたほどであった。
ただ、病気に対する抵抗力は徐々に失われていっていたようで、秋が近くなったあたりでアイソレーター(空気清浄機の親玉)が個室に入った。母はこれを自分の病状が悪化した証だと見たのか酷く気にしていて、アイソレーターがはやく取れないかとこぼしていた。他にも、入浴は洗浄して誰も入らないうちにしたり、食事に制限がついたりした。納豆などの菌がついてるものは冗談抜きで命に関わるようだ。
治療方針についてだが、これは二転三転していた。母の検査の結果次第であるからだ。当初は入院は短期間のことであるとの話しだった。ついで、退院が見えてこなくなり、移植も検討しなければいけなくなり。最終的には移植するしかないとのことになった。移植についても、中々方針は決まらなかった。少なくとも素人目にはそう見えた。が、この場合は主治医の熱心さの表れでもあった。聞いたところによると他の病院の血液内科(要は専門)の先生とも協議を重ねていたとのことであった。それに母は遺伝子が特殊だったらしい。骨髄バンクでドナーを探すのも難しいだろうと言う話しを聞いた。私か兄かの造血肝細胞を用いての半合致移植に踏み切ることも有力な選択肢の一つだった。最終的には、主治医が見つけてきた、完全に一致する臍帯血を用いて移植することになった。
リスクは大きいがそれしかない、との決断だった。母はまだ比較的若くて体力があることも後押ししていた。
施設の問題で、最初に入院した病院では、移植の前処置に必要な放射線照射が行えないらしいので、他の病院に転院することになった。
夏休みの最後に、父と共に、その病院で転院に必要な手続きと、担当して頂く医者との顔つなぎにいった。穏やかな、経験豊富な先生であった。どうも、前の主治医も今回も医者には恵まれたようだ。
私としては、付き添っていたいのは山々だったのだが、母たっての希望で、大学に戻ることになった。
それからは、移植前の前処置に入る直前までは連絡をとっていた。以降は父を通してたまに状況を確認するに留めた。
移植後2週間くらいたった、12月のある日。
移植がうまくいっているかが、おおよそ見えてくるだろうから、私は土日を利用して母を見舞った。
愕然とした。準無菌室に居た母は、長く伸ばしていた髪をそり落とし、管に繋がれて、一瞬誰だかわからないほど人相が変わっていた。見るからに弱弱しく、その辛さは如何ほどのものか、本人にしかわからない辛さだろう。つい先日風邪を引いたくらいで弱音を吐いていた私は自分を恥じた。
なんと言っていいものか、躊躇ううちに1時間が過ぎて、母は疲れてしまったように見えたので、その日はそれだけにしてアパートに帰った。後から聞けば、私は何もできなかったけれど大層喜んでくれたようだ。
クリスマスには冬休みになるから、その時また会おうね。そう約束した。
クリスマスを目前に控えた日。
父から何通もメールが来ていた。文面は全部、すぐに連絡を下さい。
普段は強いて何も考えず、その日も暢気にバイトに精をだしていた私は、すぐに思い至った。まずいことが起こった。そして、そこで考えるのをやめて、すぐに飛び出す準備に取り掛かった。久しぶりの全力疾走。兄が近くまで迎えにきているらしい。気ばかりが急いて、結局アパートの外で30分ばかり兄を待って立っていた。
病院についたら、丁度父と医者が話しているところだった。呼吸器をはずすのはどの時期にするか。そう漏れ聞こえた。私は泣き崩れてしまった。
母の術後の経過は良好だった。白血球の数値も戻ってきていた。ただ、血小板は立ち上がるのは遅くなるもので、どこかから出血すれば手の施しようが無い。その危険性については何度も言われていた、と父は語った。
母の脳内では出血が起こっていた。最も起こって欲しくなかった事態になってしまったらしい。
病院で、個室を一つあけてくれて、母はICUからそこに移された。自発呼吸はしていない。瞳孔も開いてしまっている。脈拍と体温、それに呼吸器の音だけが母の生きている証だった。それでも母は生きていたのだ!
泣き疲れて、寝て起きれば、母は目を覚ましているのではないか。最近眠れてなかったらしいから、2,3日寝てるだけなんじゃないか。そんなことばかり考えた。
その日から、3,4日ほどだろうか。父、兄、私の3人で交代で寝ずの番を立てて母に付き添った。呼吸器のリズムを厭いながらも、安心させられもする、最も堪えた日々だった。最も、精神とは面白いもので、1ガロンも涙を流せば人間立ち直る方向に向かえるらしい。水を飲んだそばから涙に変えれば少しは気が晴れたものだった。
深夜1時、父と兄と私が見守る中で、母は息を引き取った。
繰り返し、情報が正確ではなく、うろ覚え、伝聞が入っていることにご留意下さい。
「ホモ・サピエンス」と名乗ろうとしないのは何故なのか
この世界の物理的・論理的法則の中で、「自由意思」があると仮定する
つまり、自らの意思による行いによって、将来の事を思うように制御する事だ
制御という言葉を用いれるほど、正確な操作が出来るかどうかは別問題であるとして
これを人まず「人間」の根幹に置くとする
知恵の実である
少し話を進めてみる
「自由意志」を持つという事
それはすなわち、「自分は他者とは違い、他者は自分と違う」という事である
自由な意思を持つ限り、自分は他者の思い通りにならないし、他者は自分の思い通りにならない
「自ら考え、よって自ら行動する」事、つまり「自立」である
もう少し話を進めてみる
ある個人を守る為に、他の個人が集まる
他者を守る為に社会を作り奉仕すれば、自らもその社会を通して他者から助力を得られる
「巨大なリスクを回避する為に、全体に助力する」事、つまり「奉仕」である
では、少し掘り下げて粗探しをする
果たしてこれは、自ら廃棄できるのであろうか
違うと思う
「自由意志を持つ」と「自由意志を持たない」を選択出来ている時点で、自由意志を捨てることが出来ていない
そもそも「自由意志」とは「自分の意思で自分の行いを選び、思うように自分の状態を決定しようとする意思」だ
見た目での程度の差はあれ、自由意志はなくならないのではないか
言葉遊びであるが、「他者から命じられた事」に「従っている」という「選択」をしている時点で自由意志であるように思える
自由意志がなければ他者と全く同様に考え、同様に行動するはずである、選択の余地もない
そして、もしそうであるばそれは「自分」ではなく、「操作できる身体が二つある他者」に過ぎない
すべての動物はその手段によらず、自立している
1個体だけの種でない限り、個々体は全体へ、全体は個々体に、多かれ少なかれ奉仕をしている
なので、自立も奉仕も人間だけのものではなく、動物が必然的に帯びている性質ということになる
私は、これ以上に人間だけが備えている特別なものを見出す事が出来ない
タイトルに戻ろう
結局は、手段とそれを判断する者の物差しに過ぎないのではないか
言葉遊びで、奉仕と依存をすり替えた所で、自由意志がなくなることはない
また、真の意味で何も選択していないのだとするならば
それは「他者」であるか「動物」でない、つまり死んでいる=生きていないという事である
結論
今回のテーマは斎藤修「プロト工業化の時代」。刊行は1985年と私が4才のころ。結構前の本だが、興味がある比較工業化というトピックを扱っていることと、サントリー学芸賞受賞作ということで読んでみた。
まずはじめに、「プロト工業化」についての定義が与えられる(p52)。一言で述べると、
つまりそれは単なる農村工業化の話ではなく、農村部での分業形成のプロセスに関する議論ともいえる。農村工業に対して、現在の資本主義社会のオリジンとしての性格にスポットを当てるのが、プロト工業化の理論なのだと見てよいだろう。
プロト工業化論を提唱したメンデルスは1970年代の研究で、18世紀フランドル地方においての次のような事実を指摘した。フランドル地方を沿岸部と内陸部とに区別すると、人口の稠密度合いは明らかに内陸部の方が高かった。一方でフランドル地方でリンネルの工業が発達していったのは、(沿岸部よりも土地が痩せていた)内陸部だった。
ここからメンデルスは、フランドル地域間で比較優位の法則のようなものが働いていたと議論する。沿岸部で農村工業が発達したなかったのは相対的に肥沃な土地だったため農業から転換する理由がなかったためである。一方、農業に向いていない内陸部は、(相対的に人口稠密で)、低賃金労働力が利用できるため工業が発達するインセンティブがあった、と。
工業に産業構造を移転させることができる多くの人員と、地質的に従来型農業への比較劣位をもっていたことが、フランドル地域内陸部で農村工業を発展させるドライバーとなったのである。
ヨーロッパ全体を見渡しても、農村工業がある特定の地域に集中して発展していったという事実は観測できる(p26)。それでは、なぜ農村型工業は特定の地域に定着して、他の地域に根付かなかったのか。プロト工業化論を敷衍すると、偶然にしろ必然にしろ、(人口の多寡や土地の肥沃さなどの)初期パラメータがそうなっていたからだ、ということになる。環境決定論スレスレだが、そうなる。
こうした議論を読んで、すぐに思い出したのは市場の勃興を経済学的なインセンティブの原理から説明したジョン・ヒックスの「経済史の理論」だった。プロト工業化の理論もまた同様、インセンティブに従って動く人々や、既存産業へのロックイン効果が働いている状況といったような、経済学的な議論がかなり下敷きになっているように見える。実際、メンデルス自身、「プロト工業化」を初めてタイトルに用いた1972年の論文をジョン・ヒックスの引用からはじめている。
だから、本書の後半で著者が展開したプロト工業化論の解釈と反論は、私にはやや奇異にうつった。著者は19世紀日本における出生率や結婚、人口成長などを用いた分析にかなりのページ数を割き、日本の人口成長は農村工業の盛んな地域で特に高いわけではなく、(従来産業の)穀物生産が人口成長の主因であったことを示し、日本の場合はプロト工業化論は当てはまらないと強調している。そうだろうか。著者自身が上述の通りに定義したようにプロト工業化とは、工業化の前提条件と工業化のプロセスを経済学の知見を借りながら説明する議論である。人口パターンが先行研究に整合的でないからといって、日本ではプロト工業化は当てはまらないと主張するならば、おそらく人口動態に議論を引きつけすぎて考えすぎなのである。
確かに人口データは、当時においては珍しくアベイラビリティのある定量データで、それが重みのある議論を可能にしている。しかし、「プロト工業化」を論じる上で本当に議論の中心に据えるべきは人口学ではなく経済学的の理論だったような気がしてならない。本書を読んで決定的に惜しいと感じたのはそこだった。
最後に、著者が提示した、非常に興味深いが本書では語りつくされなかった課題を紹介しておく。それはどのようにして農村工業の局面から工場製工業の局面へと移行したか、という点である。プロト工業化は農村工業の発達に関しては雄弁だが、そこから事業者達が設備投資して機械を導入し、工場制度へと移行するプロセスについては上手く説明してくれない。「本格的工業化の開始を説明する理論としてみた場合、プロト工業化論は決定的なところでその資格に欠ける」(p269)という著者の指摘はまっとうだ。この移行を説明することは、産業革命を経験する地域があった一方で工業が衰退した地域があったのはなぜかを説明することにもつながる、非常に有望な論点でもある。
http://twitter.com/#!/zaway/status/17654592619675648
はてさて、もう2010年も終わりだ。
今年の一年は今までの人生で一番目も当てられない一年であったと思う、なんとも自由で堕落しきった一年だった。
人との関係を蔑ろにした一年だった、人に縛られないことを自由に感じるより人に縛られることを不自由さを感じた。
望んでいたもの手に入れたつもりだったのに、ダラダラしているだけじゃ不満ばかりが募った。
逃げた、いろんなことから逃げた。逃げた先に更なる苦難があることを知っていながら逃げた。
今年得たことは何だろう?
偏見とか
あー、そういえば絶対はまらないと思っていたパチンコにあっさりはまった年でもあったな、それこそ週3ペースで行ってた。
今思うとぞっとするな。
一回持ち金が尽きて2ヶ月前くらいからやってないけど、いつ足元を掬われるかわかったもんじゃない。
それにしてもあれは凄いな、依存を引き起こす仕組みが。なんでちゃんと規制しないのかな?社会が悪いんだ(笑)みたいな?
そういえば、人に対しての見方がひどく悲観的になった気がする。
人は自分のことしか考えてないんだーとか、弱肉強食だーとか、人は一人だーとか、人間なんて所詮動物だーとか、世界はもう征服されてんじゃないかーとか
それと働きもしてないな、知り合いの偉い人が「学生の本分は勉強」とか言ってたから、まぁそれなりに単位は取ったけど。
アホな大学だしな、自分を嫌いになるよ。ああいうトコは。自己認証がみるみる崩れて気がおかしくなってしまった。
ほんと、さっさと辞めてしまいたいけれど、裕福でも貧乏でもない?両親の金で(もったいなさすぎて恐ろしい)
行かせて頂いている学校だし、文句を親に垂れることはしてない、辛いとか言ったら全国の奨学生の目の敵になるから言わない、言えない。
あまっちょろくてごめんなさい。
そういえば、今まで自分の属するコミュニティの中に美人がいれば逐一惚れてきた、恋多き男だったはずなのにこの人と付き合いたいと思った人に出会わなかった一年だった。
昔の人はよく「恋こそが生きる原動力」だとか言うよね、まさにそうなのかもね。ぜんぜん服に金を掛けない、靴なんて一年ほとんど同じ靴だったことには自分ですら引いちゃうな。
人と会わないから必然だったともいえるけれど、どんどん俗世との隔絶が深まっていってるような気がする。
戦術論、販売、会計、英語、組織論サボった分の穴埋めも年明けまでにしなくちゃいけないなー
クリスマスの予定が無いんだよなー、家にいると肩身が狭いなー、あー
大晦日と正月は昔の友人とその元カノ(顔見知り)とその友達(面識ほぼ無し)という前年と同じ奇妙な集まりがあるから寂しくはないんだろうけどなぁ
寂しいってなんだろうな、もう自分がそういうのに飢え過ぎていて、そのことにも気づかないことに気づいているレベルだよ、もう。
寂しくて泣いたのは今年が始めてだったな。
あーもうぜんぜん女の子と喋ってない、ヤバイ。っていうか男とも喋ってませんでした、声が出るか心配です。
好きなものは嫌いになったし、嫌いなものを好きだと思い込んだ。
欲しかったものは捨てるべきものになったし、
必要なものは不必要になったし、
持ってたものは無かったことに、
こういうのって、大体の青年期に訪れるらしいけど、やっぱり結構重症かもしれない。
あー、そういえば高校の部活ではしょっちゅう「部活やめる」って言ってたよ、俺。
きっとかまってほしかったんだと思う。いい迷惑でした、ごめんなさい。
あー、でもだましだまし過ごすことに限界を感じてる気もしなくもなくもない。
くるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
うつ病をめぐるツイートのまとめ http://togetter.com/li/79120
完全に抜け落ちているのが、ストレスの原因を取り除くという手段。
薬を用いようが、別の何かを用いようが、大きなストレスの原因に
なっていることを取り除かない限り絶対に寛解は無理。
こんな糞みたいな世の中で糞みたいな仕事があふれていて、それで
休んだら犯罪者みたいな扱いを受ける世の中で、ストレスを軽減する
なんて無理でしょ。即効性のある薬に頼るのは必然かと。
仕事にしろ、学校にしろ、歩みをとめられない、レールから外れたら
終わりという状況で、長い期間をかけて、治療に専念するなんて
きれいごと過ぎる。
横になっていい時間が半年もあれば、良くはなるよ。でもそれって
社会が許してくれるの?
ねぇ聞こえてるかな
歌に流されやすいのは仕様です。
困ったものです。
俺・・生まれてきてもよかったのかな・・・・・・・・
収益化!金よこせええええええええええええええ
ヨコセヨ!デパートヨコセヨ!
俺の頭の中をリズムが駆け巡る。
幸せってどういうもの?
いえええええええええええええええええええええい!!
愛されて500周年。
人類生まれて400万年。
何万年と受け継がれてきた
たすきを僕は胸にかけた
やべぇ。ノリノリだわ。
響けこのメロディー。
最高だわ。最高すぎる。
心も身体も満たされていく。
最高の道を、常に探していこう。
なんでい!くっだらねぇ!!
今度っていつ?
超げろまずなんですよねー。
ぐひょひょひょひょwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ナメック星人撃退するの。
風の股三郎。
ふっと湧いてくるイマジネーション。
僕は賭けるよ。この今という時間に。
所構わず、僕はでかけるよ。
ところがどっこい・・・嘘じゃありません・・
太枠で書かれた文字。
理解を越えた理解を求める。
勇気をブッ壊して、人は生きていく。
なめていた口、
ひるんでいた出口、
むしゃむしゃと食う。
置いてけぼりの幽霊。
目一杯精一杯の良心。
誰も読んでくれないって?
今日は、の間違いだな。
ゆったりと、滑りこむようにぬるっと入ってくる宇宙。
一人でいたら、一人でいることに慣れてしまった。
鼻くそをほじりながら、僕らは歩く。
本気でア・イ・シ・テ・ル。
ふざけた変換機能だぜ・・
イマジネーションが浮かんでこない。困ったものです。
なんにもないや。本当に、なんにもないや。
からっぽなんだ。そうだ、からっぽの音だ・・
何もない冷蔵庫を開いた時のような。
何もなくなってしまった。
ぼくの手の中には、もう何もないよ。
ぶっ壊すっていっただろ!!
モチベーション高めにもって。
最高級の愛を。愛を。愛を。
I want you.でたらめに作られたこの世界に夢はないのかい?
身体中が痒い。
スーパーで最高なのかもしれない。
(´ρヾ) ネムネムゥー。眠い。さっき起きたばっかりなのに。
/(^o^)\ナンテコッタイ くっだらねぇって、つまんねぇって、
それすら越えていく有象無象。
自我がブッ壊れていく。
俺は俺という存在を理解できなくなる。
さぁ、言葉の端をつかもう。
ぶるあああああああああああああああああああああああああ
ほら、元気を出して。
お前なら俺の感情全部知っているんだろう?
なんてねぇ、くだらないことを撒き散らす。
深い青黒く染まりはしない
空で無数の星が弱く照らすから。
うっひゃあああああああああああああああああああああああああ
またテンションあがってきたぜええええええええええええええええええええええ
うっひゃああああああああああああああああああああああああああ
ゴ━━━━(# ゚Д゚)━━━━ルァ!!
意味なんていらねぇんだよ。さぁ、頑張ろう。噴き出そう。
フォロー人数数万人なんて、どうやってそんな領域へいくんだよ。
全く、理解できないぜ。数千人で手一杯ってとこか。
一日30人で一年に一万人ってとこか。今までの苦労、全部へし折り俺は進む。
前に進む。でもちょっと待って前ってどっちだよ??
俺が誰なのか、それを探す自分探しの旅。
なんでもいいけどそろそろ終わらせたほうがいいんじゃない?
そういうわけです。
>さて、それでは「現状女が余っている」って事実は果たしてあるだろうか。
>金持ちにとって魅力的な女は、普通の所得層にも魅力的だよね。それが市場原理で掻き集められるということは
>必然的に、通常の所得層のパイが減るわけでして。この部分、あなたの理論では確実に解消できないよね。
横だけど、余っているなら、パイが減ろうが関係ないんじゃね?
とりあえず、自演を疑ってるようだけれどこれは否定しても証明しようがないのでほっとくよ。
んー。んじゃ、「60歳代の男の生殖能力には問題ない」って前提導入しよう。
「彼らにガキを作るインセンティブがある」っていう前提は、微妙なところなので保留。まぁ、あるともないとも言わない灰色ってところで抑えておこう。
「ある」側の人物と重婚した場合、女性の生産性は↑の前提を導入すれば失われない。あなたのおっしゃるとおり、問題にならないね。
しかし、「ない」側の人物とくっついた場合、女性の生産性は完全に失われる。これは「重婚してガキ作りたいですか?」ってアンケートを金持ちにとらないと結果が出ない話なので、ちょっと置いとこう。
さて、それでは「現状女が余っている」って事実は果たしてあるだろうか。
金持ちにとって魅力的な女は、普通の所得層にも魅力的だよね。それが市場原理で掻き集められるということは
必然的に、通常の所得層のパイが減るわけでして。この部分、あなたの理論では確実に解消できないよね。
「(多くの場合高齢である)金持ちには重婚して子どもを作るインセンティブがあり、重婚によって失われる女性の生産能力を補うだけの出生率を生み出す」かつ「若い男性の求める女性像と金持ちの求める女性像は競合を起こさない」っていう二つの前提を越さないと、あなたの論は確実に成り立たないけれど
この部分、どうやってクリアするんだろうか。明らかに日本の文化土壌で「重婚」っていうのは現在の「おめかけさん」文化と地続きになるし、そこに子どもへの需要が生まれる理由がわからない。
ここはアラブではないからね。そして、明らかに金持ちの需要と若者の需要はバッティングする。
この二つを乗り越えて尚、「出生率に寄与する」という理由がさっぱりまったくぜんぜんわかりません。
「老人の生殖能力には問題がない」という前提を付与しても、まだまだハードルあるよねぇ。
んで、トドメとしては。
その制度、導入する金銭面としてのコストは確かに安いだろうけど。
政治的にそれ実行するコストすごく高くないか、と。天皇制なんかもそうだけど、慣習に思いっきり逆らう法を通すのは
非常に難しい。それを実際に立法する側のコストが極めて高い。これは、「コスト」には入らないのだろうか。
んで、現実的に更に言うと「金持ち」の絶対数は日本では極めて少なく、かつ老人ばかり。やるメリットも理由もほとんどない。
想定されるデメリットは上記のとおり。どーすんのこれ。
一夫多妻で夫がガキを作る保障がどこに。
昼間にやってたらしい空理空論にこそ成果の保証を求めるべきだ、あっちは実施コストが凄いんだから。
「余る」とかそういう話は今居る男女が全部くっついてる状態で言うこと。
現状でマッチングしてない男女が膨大に居るんだから、
これについても前段に同じ。
もうちょっと考えてから反論を書いてくれといいたい。
論の叩き上げにすらなりゃしない。
平たく言うと、脳みそ沸いてるんじゃねーのおまえ?
現にどうだい、得たのは赤っ恥だけだろう。
一夫多妻で夫がガキを作る保障がどこに。
一人マトモにガキ育てるのに最低ラインで2千万はかかるだろ。
ってことは、嫁二人ガキ二人で4千万。しかし、嫁二人で子ども一人ずつであれば最低ラインにも達しない。
んで、最低限の人口を維持する人口置換水準は2,1。しかし、日本の人口はやや男が多いので
一夫多妻になればその分必然的に男が余る。つまり、出生率の伸びは男女1対1と同じかそれ以下。(ちなみに、日本の未婚率は男>女)
つまり、一夫多妻で人口の維持を図るには男一人嫁複数、かつ子ども二人ずつより多くというのが最低条件。
三人の嫁を取って、子ども7人育てるのに最低1億4千万のコスト。実際には嫁それぞれの生活費用も要るのでこの程度ではない。
さて問題です、この出費に耐えられる日本人の、しかも子どもを作るのに適した年齢の男性は
平たく言うと、脳みそ沸いてるんじゃねーのおまえ?
最低ラインが上がるのは、この異常な空気のせいだろ。
分相応なポジションを取ろうとすると、負け犬以下の罵声を浴びる。
清掃員はクズか?俺はそうは思わんね。
確かに、大きな利益を叩き出すビジネスプレイヤーだとは思わないが、クズだとは思わない。
だけど、今の空気では、清掃員なんかやってたら人間としての尊厳すら脅かされるくらいクズ扱いだ。
であれば、社会的動物である人間が、パイの小さい不相応なポジションに殺到するのも当り前だろう。
俺が言いたいのは「よくまあ仕事程度で精神すり減らさせるくらいのカーストな空気を作るな」ってこと。
自殺が年間3万人だぞ?君の言ってることはなんの解決策にもならないよ。
パイが無いんだ。必然的に失業者が出るの。これは、経済構造上しかたないことだ。
だけど、それで誰かがクズ扱いされなきゃならないのか?
そんなに"クズ”を追い詰めて、自殺にまで追い詰めて、一体何の益が在るんだ?全体にも個人にも。
何をどこまで求めて家事をしているのか分からないけど、
育児をしているわけでもないのに、一年中家事に忙殺されて動けない、なんてことはありえない。
それじゃあなんで世の女どもは「家事が忙しい」などと嘯くのか?
ありていに言えば「かまってちゃん」なわけだが、これが根深い。
自分が世の中にいてよくて、誰かに大切にされている、ということを実感できていないわけだから、
そりゃ焦りもするし不安にもなる。
食欲だの性欲だのよりはるか上位にある欲求だし、最近の犯罪の多くも、結局これが原因だ。
パートに出たり、習い事を始めたりしてそれを解消しようとする主婦は多い。
旦那のほうも、その時間を作ってやっているのだから満足しろ、と言いたくなるはずだ。
でも結局、パートや習い事なんてものは「誰にでもできる簡単な作業」でしかない。
責任ある仕事やその人にしかできない専門職を担ってきた人なら、満たされない気持ちがかえって際立っていく。
自己承認欲に対する欲求不満は、主婦の職業病と言ってもいいかもしれない。
社会との唯一のつながりは旦那だけ、その旦那が評価するポイントが家事だけなのであれば、
家事がいかに大変な仕事で、自分はどれだけ頑張っているかをアピールしてしまうのはある意味必然。
しかも、家事というのはできていて当たり前、できていないと怒られる減点方式の評価しかされない。
どんなに頑張っても「普通」以上の評価は得られないのだ。
だから女は「愛してるなら手伝って」などと言う。
それ以外に表現方法が見つからないからだ。
かまってほしいけど、どうして欲しいのか自分でも分からない。
それが家事至上主義と呼ばれる現象の本質ではないかと私は思っている。
だから、バカ正直しぶしぶ手伝ったりしても無駄だ。
家事を奪えば奪うほど、女は逃げ場を失っていく。
今度はやり方がダメだと注文をつけたり、より無理難題を押し付けたりしてくるはずだ。
最近流行りの新型うつに感染する確率も、どんどん高まっていく。
世の旦那さんがたよ。
彼女や奥さんが自分で考え、実行したことを見つけてやっていますか?
成功にせよ失敗にせよ、それを評価していますか?
彼女が興味を示したものに、あなたも興味を持ってあげていますか?
たとえば愚痴でもいい、何かを話して、彼女にアドバイスを求めることは?
ペットではなく、メイドでもなく、デリヘル嬢でもなく、なぜ彼女と一緒に暮らしているのか、考えたことはありますか?
お互いの信頼やコミュニケーションに不備があるのでしょう。
「性格の不一致」としたほうが、丸いと思います。
外国人、少数民族、女性、被差別部落、障害者、貧困者(ホームレス・労務者)等の属性に当てはまったら、
社民・共産とかリベラル左翼な人たちが立場を代弁してくれたり、生活を支援してくれたりする。
農家や経営者だったら自民党が、大企業のサラリーマンや公務員だったら民主党が、
その人達の利益に沿うような政策を掲げて、政権を取ったら政策を実現してくれる。
ところが、普通の日本人男性で、労組もないような中小企業のサラリーマンの俺は、
どこに行っても利益を代弁してくれる人がいない。
俺のような日本社会でのマジョリティは、必然的に無党派にならざるを得ない。
「自分で労組作れよ」とか「自分で選挙に立候補しろ」ってのは、全く非現実的だ。
そんなことする労力の余裕なんかあるわけ無いし、労働運動して会社に睨まれたり、
立候補して落選したあとの生活を考えたら、とてもそんなことできない。
今のところ、マジョリティの利益を代弁してるのは、河村たかしみたいなポピュリストか、
「日本民族の利益」を代弁してる在特会あたりのネトウヨくらいしかない。
在特会は、暴力と無根拠な陰謀論があまりにもアレすぎて支持できないけど、
ポピュリストに減税を掲げられると、自分の利益を考えれば支持せざるをえない。
「皆さんの税金をマイノリティに分配するくらいなら、給付を削って財政再建します」って政策のほうが、
「マイノリティを助けるために増税します」よりも受けがいいのは当たり前だ。
「自分たち」が「彼ら」のような境遇になる可能性を考えて、「彼ら」のためにお金を使うのは、
それだけの余裕が「自分たち」にある時でなければ、到底無理な話だ。
今まさに生活水準が下がっているのに、他者を思うような余裕などありはしない。
「彼ら」のためではなく、「自分たち」のために分配してくれ!というのがマジョリティの本音だろう。
その本音を、政治の場で代弁してくれる人はいるのか?
リベラルはマジョリティを救わない、リバタリアニズムもマジョリティを救わない、
じゃあ結局、ナショナリズムしかないんじゃないか?