はてなキーワード: つんぼとは
かたわは差別的だと障害者に言い換え、障害者を害の字のイメージが悪いからと障がい者に書き換え、今度「障がい者」が差別的な意味で使われるようになったら、どうするつもりなのかな。
"障"という字のイメージが悪いからだと、「しょうがい者」と表記するのかな。
その意味するところ自体が侮蔑の対象であるために差別的意味をもつようになったもの(「めくら」、「つんぼ」、「おし」、「どもり」、「びっこ」、「かたわ」、「きちがい」、「おかま」、「レズ」、「ホモ」、「かったい」、「白痴」、「廃人」、「チビ」、「乞食」、「ルンペン」「アスペルガー症候群(アスペ)」など)
これらは問題の根っこは大本の差別にあるので、問題の根底を解決せずに言葉を排除しようとしても、新しい差別語が発生するだけ。
差別的なニュアンスが薄れて気軽に使う人々が現れようとしても、「~は差別語だから使うな」と主張する人々によって抑圧され、語の差別性が維持される。
その結果、新しく発生した差別語と旧来の差別語と、という風に、次々と差別語が増えていく。
各種障がい者を表現する用語を「~の不自由な人」と言い換えたところで、「...は『~の不自由な人(笑)』だからな(笑)」なんて、「~の不自由な人」という表現がまた差別的に使われるようになる。
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愚かなブコメがついているので追記
"Yellow Monkey"のような言葉の意味自体が侮辱的なものを除いた、使用者の意図によってのみ差別性を持っている語を忌むべきものとして扱うのが愚かだ。
男尊女卑思想の人間は差別的に「おい、女!」と呼ぶ。「おい、ホモ!」を「おい、ゲイ!」だの「おい同性愛者!」だの置き換えても、「おいめくら!」を「おい視覚障がい者!」などと置き換えても差別性が変わるわけではない。
差別思想の人間が、差別対象に個々の人格や尊厳を認めずに、差別している属性で一括りにして呼称することが差別的なのであり、その言葉が差別的なのではないのだ。
猿呼ばわりされて怒るのは構わないが、日本人であることが恥でないなら、単なるJapaneseの省略形であるJapという単語に怒り狂うべきではない。同性愛者であることが恥ではないなら、単なるhomosexualの省略形であるhomoという単語に傷つくべきではない。
その属性を表すだけの語に傷つくということは、被差別者自身がその属性を恥と思い差別しているということであり、そのような状況では永遠に差別などなくなるわけがないではないか。
「きちがい」に至ってはたんなる侮辱語であるために、これを「(気が)狂った奴」「頭のおかしい奴」「狂人」「精神異常者」などと言い換えても何も問題は変わらない。「きちがい」には傷つくが「狂った奴」や「精神異常」に傷つかない者などいるのだろうか。一つの侮辱語を排除するならば、同じ意味の侮辱語全てを排除せねばならない。馬鹿,アホ,頭の悪い奴,愚か者 などの侮辱語グループは排除しなくてよいのだろうか。おお、差別用語排斥者は人間をネガティブに評価する言葉の一切を日本語から排除しようというのかもしれない。おそろしい。
お盆の帰省からも帰ってきて、また明日から似たような毎日が続く
ふと帰省中の事を振り返り色々と思った事を振り返ってみる
帰省中、実妹の息子ももう3歳を目前としておりいくつかの単語をその場に応じて発するようになっていた
物の色を言ったり、見えた物の名前を言ったりと大変にぎやかであった
妹や私の母が「だめ」だとか「そんなこと言っちゃだめ」と言いだした。
その時はなんとなく心に引っかかっただけだがその時の事を思い出し
なんとなく考えているとやっぱり「なんで馬鹿と言ってはダメなんだろう?」という考えが頭の中を回転しはじめた。
そもそも馬鹿とはその昔無知な殿様が実物の鹿を見て馬だと思ってしまった事に由来すると聞くが
要は何かを間違えたり履き違えている状態に対してそれを指す言葉である事は確かであると思う
ではなぜ「馬鹿」と言ってはならないのだろうか?
をよくよく思い起こしてみると、どうにかなる状態に対しては指摘してもOKであり
どうにもならない現状に対してその否定的な状態を告げる事はダメな事が多いように思う。
例えば、身体障害者を差別する“目くら”であったり“つんぼ”であったり
どうにもならない現状を指摘してみたところでそれらはほぼ改善しようが無い
しかし運動している者に対して“遅い”であったりと能力の足りてなさに対し檄を飛ばす事は
一般的にだめだとはされていないように思う。
では馬鹿はどうにもならないという事だろうか?
よく“馬鹿は死ななきゃ治らない”であるとか“馬鹿につける薬はない”などと言う言葉が語り継がれているが
もし実際にこれらの言葉に反する現実を歴史の中で人々があちこちで目撃してきていたら
こういった諺などは語り継がれないのではないかと思う
ここまで読んでくれた方はどちらかというと“馬鹿”という言葉に対し否定的な側面ばかりを思い浮かべたのではないかと思うが
実際“馬鹿”という言葉は誰かを罵る時だけでなく愛のある関係間においても時たま使用される事を忘れてはならない。
例えば無茶な行動であったり危険性の高い行動を取った事によって愛する相手の事や相手の持ち物を守った時などに
愛する相手はあなたに対して「ばかっ」などと泣きながら言うかもしれない
もしかしたらそういった“ばかな行動”も死ななければ治らないタイプの個人の行動特性の一つなのかもしれないと考えると
その個人の個性をよく反映した行動に対して言う事ができるのではないだろうか
よくなにかをとても一生懸命やっている人の事を“馬鹿になってやっている”などと称するけれど
馬鹿もやはり方便
よく聞く教育論に
“自分がされて嫌な事は人にもしない”
馬鹿の場合は“自分が言われて嫌な事は言わない”に帰結するのではないでしょうか
でも馬鹿も方便だという事を考えるとこの教育論を自分は訂正しなければならないと思います。
“自分がされて嫌な事は人にもしない”が正ならば“自分がされて嫌な事でもし他人が喜ぶ事があってもしない”も正になるし
屁理屈でしょうか。でも“自分がされて嬉しい事”を人にしたのに実は迷惑だったり
“自分がされて嫌じゃない事”を他人にしたら嫌がられたりという失敗は日常につきものです。
なので
“相手がされて嫌な事はしない”
また
って事も言えます。
言う動物は沢山います。犬は吠える事で何かを伝えるし、猫も鳴く事で相手を呼ぶという事をしますが
イルカ、カラス、象、チンパンジー、ボノボあたりの動物はもしかしたらそういった行動が確認できるのかもしれませんが
“察する”だけでなく“相手の意見を聞く”という行動をこれほど多くとる動物はヒトだけではないでしょうか
人の判断基準は変化する
日常の生活の中で関わる相手の性格や行動特性を理解し予想して先回りの行動にでる事は多々ありますが
どのくらいの事どんな事にその人は一定の基準があって、どんな事への考えはよく変化するのかは個人差があります
例えば久しぶりに実家に帰省する息子に母親は毎回息子の大好物を料理して待っていたとしても
次も同じ様に準備していてくれるとは限りません。事前にきちんと言っておけば食べられるのか食べられないのかハッキリするけど
もし事前に言っておかなければ“期待はずれ”になるかもしれません
そしてもし事前にお願いする事なく“期待通り”の結果を得た場合がある危険を貴方にもたらす可能性があります。
それは貴方が馬鹿になってしまう事。図らずも良い結果を得た事で次も同じ結果を期待してしまい
期待はずれになってしまった時に“作ってくれなかった母”を責めてしまいかねない心理が発生します。
たしかに言わなくても解ってもらえたりすることはとても強い幸福感を感じます。
言えば済む事でも言わずに解ってもらえたという幸福感を求めてあえて言わないなんていう行動にもでてしまったりします。
聞くべき事、察すべき事、長い付き合いにもなればだいたいにお互いを理解して
この相手には何を聞くべきで何は察するべきなのか本能的に解ってくるのではないかと思うのですが
知り合って間もない相手だと解りあえるまでの時間がかかる人もいればあまりかからない人もいる
こんな文章をこんなところまで読んだ貴方とは
わりと早く解りあえるんじゃないかな?
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おし、つんぼ、"ぶらく"等の放送禁止とされている用語に新しく加わわるのは、「貧乏」だ!!
というお話。
放送禁止用語には、その差別的表現を理由・根拠としているものが多くある。
「貧乏人」やら「貧乏人の子」といった言葉には、間違いなく差別的な視点がある。
なぜ間違いないと言い切れるかというと、私がその立場にいる(いた)から。
そして「貧乏人」と"言う側"には、先の「おし」や「つんぼ」も同じだと思うが、
"生まれつき被差別的な立場にいること"は「貧乏」にもあり得る。
また事故や病気等の何かのアクシデントによって、後天的に被差別的な立場に立たされることもあり得る。
(まぁ、実際には事故や病気よりも、不相応な借金やらギャンブルといった
親の収入が子の学歴如いては収入に、子の収入は孫の収入に、と受け継がれ、
その螺旋からなんとか抜け出せた一握りの人間は、自分の生まれをひた隠し、
抜け出せない(出さない)大多数は「被差別的立場」を享受していくんでしょう。
制度改革やなんやで、生ぽ受給額あたりを目安化、また可視化したら、
実質的には障害等級に近い振る舞いをするようになるんでしょうし、
被差別内差別が起こる土壌形成に一役買うことになるんでしょう。
ということで、
社会が、貧乏からの脱却が不可能に、あるいはきわめて困難になった時、
「貧乏」は姿を消し、一般的には「貧困」に、「貧乏人」は「貧困者」に、
口あたり・耳あたりのいい言葉として「お金が不自由」・「お金の不自由な人」に、
言い換えられる日が来るのではないだろうか。
個人的にはひとまとめに「poor」にしてもらって、
なんとも気の抜ける「プアー」をテレビが連呼するのをバカにしたい。
今の段階でも、貧困者支援団体やら支援ネットワークあたりが騒げば、
放送禁止にできるような気さえする。
地獄のミサワ的な言い方になっちゃうけど、いまさら感が非常に強い。
ATOKの変換語彙自主規制は90年代半ばにはすでに実装されていて、
その規制語彙の一覧などを見れば、
一度も気づけないなんてことが考えにくいほどに無茶な規制を組み入れている。
”不快表現、差別語なんて一般的な場面ではつかわねーから気づくわけないだろ!”
たとえばラーメン店の屋号としてつかわれる支那そば屋の支那をなぜ変換できないのか、
なんてことに人生で一度もぶち当らないで済むような上流階級の貴族様や、
ぶち当たっても変換できないのが当然と思ってスルーしてきたような問題意識の乏しい人が、
だれかがATOKに変換語彙自主規制が導入されていると言っているのを耳にして、
にわかに「20年来のパートナーと別れる」なんて言い出すのなんて、だっせーなとしか思えない。
古女房がプロ市民として長年活動していることを他人から指摘されて初めて気づいて、いきなり離婚すると言い出すような。
程度の差こそあれ、MS-IMEにも表現規制は導入されていて、
メーカー側の勝手な配慮により自動変換不能にされてる語彙は少なくないことからすれば、
他に十分な変換機能を備えたまともな選択もない以上、実際に使う使わないかは別として、
ジャストシステム様が「おめーらには使わせてやんねえ」とのたまってるド下品な語彙リストを
ユーザー辞書としてぶち込んで抵抗してやるぐらいのことしかできない
・・・はずだった状況もGoogle日本語入力が登場するまでの話で。
盲滅法もつんぼ桟敷も一発で変換してくれる素敵な変態IMEのGoogle日本語入力があるんだから、