AIを”人”で数えるなら一人ではないな
そうだよ。AIに手伝ってもらいながら頑張ってる。
明日の夜、揺れる。
その後に富士山がどうなるか
歌を作ることが趣味で最高に楽しかったのですが、歌詞が作れなくなり、困りました。僕は、つい「歌詞 書けない」とGoogleで検索してしまいます。僕は、それを何度も繰り返した経験があるので、検索バーに「歌詞 書けない」と打ち込み、エンターキーを押す前から、そのような検索が僕に有益な情報をもたらさないことを知っています。僕が知りたいのは、自分で作った伴奏で何かを歌うために、ただ歌詞っぽい言葉の羅列を作り出すための手法ではありませんが、しかし、検索エンジンが提供するのは、そういう手法についての情報ばかりです(声には、楽器にはない何らかの特別な迫力があります。シンガーソングライターやボカロPが、インストではなく歌をつくる理由のひとつは、その効果です。「言葉で何かを作りたい」より「音楽を作りたい」が先行する場合、シンガーソングライターやボカロPは、歌詞っぽいキレイな言葉の羅列を並べることで、作詞に関しては、満足してしまうことがよくあるのではないかと思います)。僕は、僕が納得できる歌詞が書けなくて、ひいては、僕を納得させる歌詞とはどのような歌詞なのかわからなくなって困っているのであり、歌詞っぽい言葉を並べる技術がなくて困っているのではありません。僕は、僕自身が歌詞を書けなくなったことへの考察を通じて、「歌詞が書けない理由」についてのオルタナティブなヒントを提示できればと思います。僕が書くことは、個人的なことですが、僕とあなたの「歌詞が書けない理由」に重なる部分がある、ということは十分あり得ると思っています。
歌が、良い歌であるためには、作曲・編曲・サウンドの面で優れていなければならないのは当たり前ですが、僕は、それに加えて、歌詞が良いかどうかについても、気になってしまうタイプの人間であるようです。良い音楽家の歌は、世に評価されることが多いですが、良い音楽家が、僕にとっての良い作詞家とは限りません。歌詞が良くなければ、僕にとっては良くない歌です。僕にとっての良い歌詞とはどのような歌詞なのかは上手く言い表せませんが、僕は、どのような歌詞が気に入らないかは少しわかります。例えば、ある一つの感情に一辺倒になっている歌詞は好きではありません。歌詞の言葉すべてが、感傷的な感情だったり、希望みたいな感情だったりとか、ある一種類の感情に吸収されてしまっているのはあまり好きではありません。あと、何を言っているのかよくわからない歌詞もあまり好きになれません。歌詞は何言ってるのか少しわからないくらいがいいんだよという人も多いかもしれませんが、僕は「何が言いたいんだよ」という気持ちが出てきて、気になってしまうのです。最後に、僕は、作詞家自身の経験に、より直接的に根付いた言葉で構成されているほど、その歌詞を好みます。歌詞が、作詞家自身について語っているほうが好きです。僕が気に入らない歌詞の傾向として今挙げられるのは、上記の三点くらいです。ほかにもあるかもしれません。とにかく、こういう「気に入らないポイント」に引っかからない歌詞を書きたいです。
また違う観点から、歌詞というものを考えます。作品がどのような形態をとるかによって、その作品に乗せることのできるテーマは異なってくると、僕は思います。例えば、散文と歌詞では、乗せられる事柄のタイプが異なるし、例えば、メタルとR&Bの間でも、乗せられる事柄のタイプに、ずれがあると思います。少なくとも、作品の形態によって、ある作品に乗せられるテーマには、得手不得手があると考えます。例えば、哲学的なテーマを扱うために、どのような形態の作品を用いればよいか。おそらく、それをダンスで行おうとするのは難しそうですよね。小説ならば、哲学的な思考を巡らせることは、やりようによっては十分可能ではないでしょうか。論文の形態をとるならば、哲学的思考を最も効率的に込めることができそうです。歌詞は、どのようなテーマを扱うことが得意でしょうか。その点を考えることは、良い歌詞を書こうとする上で有用だと思います。僕の意見としては、歌詞は、ある程度強い感情を伴う事柄を表現することに適していると思います。そして、むしろあまり感情の動きを必要としない事柄については、不得意なのではないかと思います。理由として、歌詞は純粋な散文ではなく、散文と韻文の中間的存在であることや、歌詞は、メロディーや伴奏といった、情動を喚起する力をもつ音楽的要素とともに歌われるものであるということが挙げられます(僕は、散文は感情を喚起する力において韻文に劣る気がするのです)。あまり、感情の動きとのつながりの薄い事柄を、歌詞のテーマにしようとするならば、歌詞の韻文的性質や音楽的要素が、歌詞そのものと比べて余計に感情的になり、アンバランスが生じるでしょう。
このように特定の作品形態について、できること・できないことを決めつけてしまうことは、その表現の幅を狭めてしまうかもしれないことには注意したいです。歌詞は、歌詞である以前に創作物であり、面白い創作物を作り続けるには、自由な発想を縛らないようにすることもまた重要です。しかし、僕が歌詞を書けなくなったという事態には、僕が歌詞の得手不得手をあまり考慮してこなかったことが関わっていると思いました。考えていたのは、僕の趣味嗜好についてだけでした。先ほど申したとおり、僕が書きたい歌詞は、ひとまず、ある感情一辺倒にならず、言葉の意味がある程度明晰で、作者についての、歌詞でした。言葉の紡ぎ方を、このような趣向に合致させたうえで、かつ、歌詞の得手不得手――
強い感情を扱いやすい――を考慮するならば、その結果どのような歌詞を書くことになるでしょうか。作者自身が経験した感情、そのなかでも複雑、曖昧で、なおかつ強めの感情について、その有り様をぼやかさずに正直に描くような歌詞を書くことになります。それは、さまざまな理由によって、とても難しいと思います。しかし、本当に僕自身を納得させるような歌詞を書くには、僕の趣味趣向に合致し、かつ、「なぜそれは歌詞という形態で表現されなければなかったのか」という問いに答える(つまり歌詞の得手不得手を考慮した上でつくられている)ような言葉を書くのではなりません。僕が歌詞を書けなかったのは、僕が納得する歌詞を書くのが難しかったからで、なぜそれが難しいかというと、僕の趣味趣向と歌詞の得手不得手を両立することは実は難しいからだった、ということです。僕がやろうとしていることの難しさは、どのような難しさとして理解されるべきなのかを明らかにできれば、そのように理解された難しさを、なぜ自分が歌詞を書けない状態にあったのかという問題に対する一旦の応答とすることができます(その「難しさ」とはどのように理解されるべきかを説明するには、僕の個人的すぎる部分に踏み込まねばならないし、なにより長くなるので、特に書きませんが)。
これからは、僕がやろうとしていることの難しさの内実を意識した上で、作詞に挑戦することができるので、以前より進むべき道の開けた地点に僕はいるといえます。あなたが、あなたの望む歌詞を書くことの難しさは何だと思いますか。その難しさの内実は何なのか、あなたの趣味趣向と歌詞という形態の得手不得手はどう両立するのか、といった手がかりを用いて考えてみると、以前と違うあなたの視点で、作詞に挑戦できるようになるかもしれません。
うま味がつまってる