はてなキーワード: 山川純一とは
われわれ働く増田の会は、日本の保育園によって育てられ、いわば日本の保育園はわれわれの父でもあり兄でもあり、母でもあり姉でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的発言に出たのは何故であるか。
かえりみれば、幼きわれら増田は3年、あるいは保留児となったかも知れぬ過去を父母の加護により隠蔽し、入り得た保育園で一片の打算もない教育を受け、またわれわれも保育園を愛し、もはや園の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに先達の知らなかった豊かさを知った。ここで流したわれわれの涙は山川純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に園の庭におしっこした。このことには一点の疑いもない。われわれにとって保育園は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。保育士諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、保育園を愛するが故であると私は断言する。
われわれは失われた二十五年の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、保育の大本を忘れ、保育園精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は森元らに転がされ、五輪紋章の汚辱は払拭されずにただごまかされ、保育園卒園者すなわち日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。
われわれは今や保育園にのみ、真の保育、真の保育士、真の保育再興の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、待機児童の現状は自治体および日本国の行政不作為が問われる状況にあり、国の根本問題たるべき待機児童が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、待機の語義を永遠の諦めにすり替えることによって、親となった増田たちの魂の疲弊、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき保育が、早期解決すべき待機が、実質を重んずべき一億総活躍の美名が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。保育園は元号を平成に変えてから国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。待機は待機の本義を与えられず、女性活用も一億総活躍もその対象も明確にされなかった。われわれは失われた二十五年のあまりに永い保育園の眠りに憤った。保育園が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。保育園が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、保育園が福祉の本義に立ち、真の男女均等となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。しかるに、誤って目覚めたのは宮崎であった。
われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。地方行政は自らは何もできぬという。しかし行政に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には増田らの民意からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的保育園の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、保育園行政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする保育園は魂が腐ったのか。ゆりかごから墓場までの理想はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な遊戯所になって、どこかへ行こうとするのか。
われわれは二十五年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。保育園を真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。次世代の生命以上の価値なくして何の保育園であり一億総活躍だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。保育だ。われわれの愛する歴史と伝統の保育だ。これを骨抜きにしてしまったこの国に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に勃ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の増田として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
増田 公威
聞けい。聞かぬか。そうか。
少女は二三歩退いた。出口はなかった。コンクリートの煤けた壁が少女の背中に触った。
「初江!」
と若者が叫んだ。
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」
少女は息せいてはいるが、清らかな弾んだ声で言った。裸の若者は躊躇しなかった。爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、
三島由紀夫の『潮騒』の有名な一説です。大変美しい文章で、沢山の人が感銘が受けています。
が、どーもこの文章をそのままでは自分的に受け入れられないです。だって、三島由紀夫といえば、「ホモセクシャルww」で、そんな
モチのロン。。。。
「初江は男です!!」「初江のモデルは三島由紀夫本人です」そうなんです!!!「焚き火で抱き合ってる二人は男同士なんですwww」
つまり。。。
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越して来たら」の一文は、「常識という一線を越えて、俺と一緒に男が愛し合う世界でやらないか?」って、
新治が誘ってるわけです。。。それに対して、初江こと三島由紀夫はホイホイとついて行ってしまうわけですね。。。
あーーーー
「山川純一」で、『潮騒』が漫画化されねえかなwwwモチのロン主人公の二人は男ですww
追伸
『この弾力だ。前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』の弾力は、胸ではなくて、男の尻でしょうね。セーターは着れないですけど
彼女いない歴=年齢はつらいよ。
たまにそれがバレるとウザい女が寄ってくる。
まず、よくあるのが「モテない同士くっつこうよ!」みたいな女。
彼氏いない歴=年齢な女たちが、
ろくに俺の中身を知らずに言い寄ってくる。
そんなんでもし恋人になれたとしても、
中身の相性が悪かったらどうすんの?それでもいいの?
モテないことを慰めあうんだったら女同士してください。百合っていいよね。
あと彼女いない=童貞ってところだけに引かれてやってくるような、スイーツ(笑)もたまにいる。
もちろんこんな奴も論外。ビッチなあたしカッコいいとか思ってる糞袋。
あと顔がいいってだけで
寄ってくるような女もむかつく。
お前は一生芸能人に引きこもってな。男求めんな。
「顔がカッコいい男」が好きなだけで、
(正確には好きでもない。こんなイケメンと付き合ってる自分が素敵と思ってるだけ)
寄ってくるのも困ります。ところでこいつを見てくれ。こいつをどう思う?
山川純一(こういう本を読んでるとこだけに共感して寄ってくる奴もいる)が、
男は度胸!何でもためしてみるもんさ、って言っていて確かにそう思う。
でも、俺は恋人は作らない、今は。
本当に俺のことを好きでいてくれて、世界で一番大事にしてくれる、
そんな人と出会うまで、俺は恋人作んない。
・・・・悪い?
ぼくの知り合いに漫画好きの女の子がいて、この子の誕生日に何かプレゼントを贈ろうとなった時、それならぼくの好きな山川純一の「ウホッ!いい男たち…」の単行本をと考えた。聞いたところ、それはまだ見たことがないということだったからだ。
ぼくはホモにはちっとも詳しくないのだが、山川純一の「くそみそテクニック」が好きだ。特にその台詞が素晴らしい。阿部高和の語る「やらないか」は、ぼくにぼくの見たことのないホモ・セックスの世界を強く想起させる。きっと彼は、ぼくが実はホモだったのではないか?――と、そんなふうにさえ錯覚させられるほど、それはぼくの欲望を強く刺激する。キンタマを強く勃起させられるのだ。
それで贈ったのだけれど、これはどうやらあまり喜ばれなかったらしい。感想を聞いてもぼんやりした答えしか返ってこなかった。何でも彼女は彼女の兄と一緒にそれを見たのだそうだが、兄の方が夢中になっていたということだった。
それでぼくはアッー!と思い至った。これは勘なのだが、きっと山川純一は女の子にはあまり喜ばれないのだ。ここには何か男性にしか感得し得ないものがあって、それは女の子には届くことがない。それが例え、やおい好きの女の子だとしても……いや、やおい好きの女の子には特に、かも知れない。
これは漫画に詳しいid:g616blackheartさんなどにも聞きたいのだが、なぜ山川純一は女の子に喜ばれないのだろうか? あるいはアニメ好きの女性の方で、にも関わらず山川純一や「くそみそテクニック」が苦手(もしくは嫌い)という人がいたらぜひともその理由を教えてほしい。