はてなキーワード: アナログとは
あまりPCに詳しくなくて何でも俺に聞いてくる。
まあこれ読んでる人にも経験あると思うけどPCのことなら何でも自分に聞けばいいと思っている。
それは全然いいんだけどね。
そんな彼が漫画を無料でダウンロードできるサイトの存在を知ったらしい。
でもよくわからないからサイトと使い方教えてくれと。
ZIPで配布されててiPhoneとかで見るのが職場で流行ってるとか?
存在自体はありそうなもんだと思っていたけど・・・
まあ一応探してみたら1分もたたずでてきた。規制対策か知らないけど海外のブログサービスとか使ってるのね。
こんなもん自分で探せるだろとも思ったけどw騙しサイトとか英語のサイトとか出ると本能的に拒否るんだろうな。
なんかこれはまずい・・あいつに聞こう・・みたいな。
しかし非常に困る。
「それ違法だしwwいい歳してもうそういうのやめとけよww」と軽く言っても
そう簡単にはいかない。親友だからまじめに言うべき!なんだろうが。。やだなぁ。。。
俺が教えなくても結局その存在を教えた人に聞くんだろうし、最終的には自分で何とかするかもしれない。
そうなる前にやめさせたいけど、中途半端な情報ばっかり吹き込む奴がいるんだろうな。
そういう人に違法って言葉はめちゃくちゃ軽く受け止められてしまう。アナログな思考でみんなやってるしばれないと思ってる。
根拠ももちろん無いんだろうけど。
違法か違法じゃないかという以前に他人の著作物をタダで手に入れること云々を正しく諭すなんて
親友にどう伝えるのがベストなんだろうか。自分の仕事をタダにされたらいやでしょって話はできるけど、なんか弱い。
はっきり言って自分も他人に諭すほど理解できてない。
ただそういうことがなんとなく恥ずかしいと思うだけ。漫画も買えないの?wってね。
とにかく今度はちゃんと納得させられたらいいな・・・。
てかまあ買えばいいじゃんとは言ったんだけど。
すると漫画はかさばるとのこと。それはごもっともで。。。
ここからどうでもいい話だけど
iPhoneひとつで何十冊?って漫画が収まるんだからそりゃ便利そうだなとも思った。
じゃあ有料でちゃんとAndroid向けにデータ販売してるのか有名な出版社のHP見てみたけど全くなし。
WEB上で一部見れるようになってるけど販売は書店かインターネット通販で・・ってアホかw
漫画買って自分でスキャンして売り飛ばす?なんて手間かけられんしね。
CDが売れないって問題もそうだけど、
時代が変わって客が不便に思うのを通り越して客が自ら便利にしちゃった感じ。
客が求めてるのは100%わかりきってるのになぜ提供できないんだろう。
自分もiPodで音楽聴く人ですけどitunesで音楽なんてまず買わない。肝心の好きな曲が無かったりするし何より高い。
iPodなんてすっごい普及してると思うけど、itunesで販売してるアーティストとしてないアーティストがあるのが謎過ぎる。
Sonyえんたーていめんと?とか無いのかな。やっぱ。ライバル的な意味で。
まあとにかく使いにくい。TSUTAYAでレンタルしたほうがはるかに安い。歌詞カードも見れるし。DVDもついてたりするし。
せめて値段だけでもそのラインにしてくれないとね。
とにかく、身近な人が簡単に法を犯してしまう違法DLなんて、割れ物アプリで行われてるらしい
あんだけ、ADSLの時に、光はダメだ、光はダメだみたいな感じで、ADSL ADSLしてたのに
いまは、光、光。
市場に任せていたら、アレでどんだけ光の敷設が遅れていたと思ってるんだこの人。
設備の敷設は10年単位でかかる。市場に任せていたら間に合わないよ。
今フレッツで実用になっている光ファイバーの敷設が、いったいいつ頃からの計画だと思ってるんだろう?この人。
光ファイバーの敷設はもともと、アナログの交換機とメタルのケーブルが何十年かで寿命が来ることがわかっていて、
引き直すという単純な経年劣化の設備交換という話が裏にあって
もう1度メタルを引き直すか、光にするか?という議論が何十年も前にあって
DSLなんて、とっくの昔に出ていたけど、ケーブル自体何十年も使うからDSLでは何十年後には頭打ち。
他方、光は、何十年後でも使えるという、研究的議論から、何十年前から、淡々と光にリプレースしてるんだよ。
現に、DSLで1Gは辛いけど、光なら1G余裕。将来100Gだってありえるだろ?
全国規模のケーブルの経年劣化のリプレース計画とか考えないんだろうか?
appleが少しずつwacomのライバル会社に近づいてきている。
昨日公開されたMagic Trackpadなんかは、Bamboo touchそのものと言える。
という図式が成り立っている。
ここで筆圧関知も付けば、appleは全面的にwacomの機能をカバー出来る。
で、実際静電容量式のタッチパネルならば、筆圧関知は可能なので、appleがその気になれば実現できるんだ。
静電容量式での筆圧関知方法は、スポンジ状の通電ペン等を使用して通電範囲=筆圧として認識する方法。
wacomのペンに慣れた人は、このやり方をお粗末な物として話にならないと切り捨てる人が多いと思う。
しかし、実際にアナログな絵の描き方をよく考えてみよう。
Gペンにしろ絵筆にしろ、ペンにかける圧力によって「紙に塗料を押しつける範囲が変わること」で絵のタッチが生まれている。
静電容量方式での筆圧関知の方がより現実の入力方法に沿っている、と考えることも出来る訳だ。
ってことでappleがその気になってくれたら面白そうなのになーという風にいつも思ってるんだけど、
周りのデジ絵描きは皆(俺もだけど)wacomに金かけてきた奴ばかりで全く同意を頂けないので、増田に愚痴っている俺でした。おわり
どうして、オーディオデーターって機械測定による実測データーが添付されないんだ?
http://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/20100724/etc_sotm.html
SATA noise filterとFAN noise filter
同社いわく、これらのフィルタはRFノイズとリップルノイズを低減することで、サウンドデバイスなどへのノイズの影響を最小限に抑え、音質の維持に効果的
周波数特性ぐらい書いてくれ
暫定環境でいいから、環境作ってSin波をぶち込んで、有り無しで何db程度ノイズ低減するのかぐらいデーターだそうよ。
オーディオでUSBを利用する場合、コンピューターによって音が違ってくる事が珍しくありません。
同じメーカーのパソコンでも機種によって音が違う、場合によっては同じ1台のパソコンでも接続するUSBポートによって違うという事すらあります。
CPU負荷が原因でないなら計測した機材のメーカー名書いてくれ。
あとは、アナログ アンプ部があったまってないからとかだといけないので 偶数回奇数回と交互に複数回測定したデータが欲しい
音質に拘るなら、USB給電じゃなくて、USBオーディオ本体側にACアダプタじゃない内蔵電源いれてもらった方がよっぽど嬉しいと思うが。
いずれにしろ、音というなら、周波数特性のグラフ ノイズというならdbは必ず出して欲しい。本当かどうか、どの程度効果があるのかわからん。
MacBookProを購入しました。そして、まさか、こんなにハマるとは自分でも思っても見ませんでした。
私も元々はこれを読んでいる大多数の方と同じくWindowsを使っていて、
「Mac? 2番手なのにシェア1割じゃ余計に誰も買わないだろ」なんて思っていました。
しかし、今となってはそんな事(シェア)なんてどうでもいいのです。Macは最高なのです。
この、全てが美しい愛機にゾッコンなのです。もう手放せそうにないのです。
なのですが、「Macのどこがそんなにいいの?」と聞かれると上手く説明できません。これは、難しい。
Macユーザーならこの気持ち分かると思うのですが、Macの良さって言葉にすると伝えきれないもどかしさを感じます。
言葉にした途端に輝きが失われるというか。例えば、
J「トラックパッドが凄いんだよ。超直感的」
G「へー、そうなんだ。直感的に操作できるんだ」
J「そうなんだよ! 分かるかな、こう、スクロールとか、全然違うわけ。
スーって動くし。あと、3本指でシャッてやるだけで進んだり戻ったりできるし!」
G「そうなんだ」
J「しかも、その手の動きが画面と一体化してて、もうヤバいよ、アレは!」
G「そんなに凄いの?」
J「あー、もう、見せたい! というか、使って欲しい! 見るだけじゃ伝わらないわ。よし、買え!」
G「えー、操作感のためだけに買い替はしないだろ。つか、皆WindowsなんだからWindowsで十分なはずじゃね?」
切ないです。という訳で、改めて何故Macがこうも使いやすいのか言葉にしてみると同時に、
買おうか迷ってる方の背中を押す文章を捧げたいと思います。
最初に紹介するMacの良さは、地味なところで「画面が目に優しい」という事についてです。
もちろん、パソコンで作業すること自体は目が疲れるという意味では少なからず目に悪いのでしょうが、
ここで言いたいのは視力云々の話ではありません。Macの画面は精緻な芸術作品である、という話です。
WindowsでWordを使っていると、フォントをゴシック体から明朝体に変更すると文字が急に読みにくくなりますよね。
文字が大きい場合は特に問題ないのですが、10pt前後の大きさの文字はギザギザして読みにくくなると思います。
明朝体に限らず、メイリオや丸ゴシックに変更すると文字化崩れて読みにくい。
そして、文字の大きさを少しづつ大きくしていくとある大きさから急に薄めの字でまともに読めるようになり、
プリントアウトすると実はどちらでもきちんと印刷できたりしますよね。それ、見にくいと思います。
それが、Macには無いんです。明朝体なら明朝体が表示されるだけ、です。しかも、普通に読みやすい。
これはウェブ閲覧時にもありますね。突然明朝体のサイトに出くわすとものすごく読みにくかった記憶がありますが、
Macにしてから何も気にせず読めてます。
というか、明朝体の持つ「お硬い文章ですよ」という雰囲気がしっかり表現されていて制作者の意図通りに読めるが嬉しいですね。
フォントといえば、Macに標準装備されているフォントは美しい! iPhone持っている方なら実感あるかと思いますが、
文字って思った以上に小さくても読めるものなのだと思います。可視性の高いフォントであれば。
そして、Macに標準装備されているOsakaやヒラノギといった美しいフォントは、眺め心地が心地良く、
Macが電気的な機械ではなく、もっとアナログに近い何かかと錯覚してしまうほどです。
これには心底感心しました。Windowsを使っているときは、「Alt+Ctrl+Delete」に何度お世話になったことか分かりません。
それから、電源ボタン長押しも。Macを使い始めて驚いたのが、負荷が大きくなった時の
「時計マーク(ポインタが輪っかになりクリックできなくなる現象)」が、少しの間待っていればきちんと解消されることです。
Vista時代は、時計マーク、即、強制終了だったので非常に助かります。
特に、iTunesとEvernoteは顕著ですね。グラボのせいなのでしょうか?
iPhone持ちにとてiTunesはそれなりの頻度で使うソフトだと思うのですが、使えたものではないですよね。
楽曲の管理がかろうじて使えるくらいで、アプリの管理は諦めていました。Evernoteにしてもそうで、
一応は使えるながらも挙動がいちいち遅くて待ち時間が殆どでは?とイライラしていました。
それが、Macに変えて軽い事、軽い事。iTunesはAppleが作ったものなので仕方ないですが、
こんなにも差別されているとは知りませんでした。使えるソフトの数ではWindowsが勝つとはいえ、
常用するソフトが快適なMacの方が世間から優遇されているのでは?なんて感じたほどです。
これも、説明するのが難しいのですが、Macは「何がどこにあるのか、又何がどこにあるべきなのか、それが全て決まっている」印象があります。
パソコンを使う時間が長くなるに連れてファイルの整理が意味不明になりがちかと思いきや、全くそんな事は無く、
むしろいくらでも増えてくれとまで思います。これも地味な特徴ですが、実は効果絶大でとにかく「整理」にかかる時間は短く、
また欲しいファイルまで文字通り一瞬でたどり着けます。
余りある快適さを手に入れながら、現時点で私が唯一どうしようか迷っているのがOfficeソフトです。
Mac製OfficeであるiWorkは、個人で使ったり提出するために使うには快適そのものなのですが、
他人からdocxやらxlsxファイルを受け取ると少し困るので。単純なレイアウトならそのままiWorkで開くのですが、
スマートアート含め、どうしても形が崩れますね。。。もうすぐOffice:mac 2011が発売されるので待とうか、
現状のOpenOfficeで我慢しようかといったところです。Office:macは少しだけ高めの価格設定なので、そこさえ払えるのであればMac一択です。
というか、Macを使うためだったらそれくらいは気にせず買う事を強くおすすめします。Macを知らないで一生を過ごすのは勿体無いと思うので。
まず、私、メス。引きこもり大好きな妻。
来週から大阪に住んでいる夫の父(=以下「舅」「糞爺」)が、自分たちの住む北海道に来ることとなりました。
最初は楽しみにしていました。
それが、今すげ~ブルー憂鬱最悪・市んで頂きたく候という気持ちです。
お得なバスのオプショナルツアーはいっぱいあるが、これを嫁の私が全部調べろと・・・?ざけんな糞爺。市ね。
定年退職してからも、もちろん家事全てするのは自分の配偶者。服もたためない。ご飯も炊けません。戦後生まれの団塊の貧弱なことよ。(ひとのこと言えないけれど)
でも、旅行に持っていく荷物とか洋服とか、こちらへのお土産とかは、全部妻まかせである。
ぐだぐだと愚痴だけかく自分はジメジメした女だよなぁ、と思う。
もともと一人絵を描いたり工芸したり、むちゃくちゃしたいことがいっぱいあるので、正直舅の訪問はうざい。
貧乏で生活力の無い舅が、とにかくあと2週間後にうちに来るのだ。
姑から、「旅行の舅の荷物を発送します」連絡で、衝動的にぶちぎれた。
姑はいまだ現役で家政婦を二つ掛け持ちし、更に料理には決して手抜きしない。
姑マジ尊敬してるよ。こういう生活力のある自分でも稼いで、かといって、偉ぶらない、ご飯も栄養のことしっかり考えることのできる人間に私はなりたい。人間としてあの糞爺にはもったいなすぎる妻だ。姑はマジ尊敬してる。大事なことなので二回言った。
結局、定年退職してお金を稼げなくなった男は去勢されたオスだ。しかも自覚が無い。
都合が悪いとすぐに「赤ちゃんかえり」するだろう。かわいこぶって、うぜー舅。
この人の糞尿の世話は絶対したくないわ。
都合の悪いときばかり逃げてきた、負債をすべて自分の息子たちにまかせた嫌なやつ。
私はすごく冷たいし、わがままだし、すぐ疲れるからもう、頼るな。勝手にしろ。
別にもう年齢が年齢だし仕事無いのはわかってるんだよ。
朝、どうせ早く起きるんだから、姑さんに朝食くらい作ってやれよ。
姑さんが家政婦の仕事に出かけているときくらい、家の中の掃除くらいすれよ。
なんにもできない能無し男。生活力ゼロ。選挙には一度も言ったことの無い馬鹿。気がつけば過去の栄光ばかり(それもくだらん!!)語りだしたらうざいうざい。
ちなみに私の父も、定年退職後、母親べったり。最初は気を使っていたけれど、疲れた。夫が定年したら、妻が一番忙しい。なんで、文句いわないの?今まで養ってもらったから?
そういう人ばかりではないとは、思ってます。
でもね、嫁さんというだけで、親の介護とか世話するとか、これからのこと考えると、ほんとうにネグレクトしたいです。正直、垂れ落ちる糞尿をそのまま放置、床ずれ放置。悪妻と呼べばいい。
老いぼれて使えなくなった爺に嫌われたって全然平気なんだから。
「アナログ」の文字は焼き付くだろうけど、黒帯は焼き付かないんじゃないか?
…と思ったが、そうでもないのか。
■ ご注意 プラズマディスプレイの焼き付き現象について
焼き付き現象についての説明
焼き付きは、表示エリアの特定の場所に周辺より輝度の高い静止画を長時間写し出すことにより発生します。明るい部分は暗い部分と比較すると発光量が多く、蛍光体の劣化が他の部分より早くなります。蛍光体が劣化することにより輝度低下を招き、周辺の劣化していない部分との輝度差が大きくなり、焼き付きとなって現れます。焼き付きは静止画を使用する限りブラウン管デイスプレイやプロジェクションデイスプレイなどでも同様に発生いたします。
昨日、京都の恵文社一乗寺店に行ってきた。ネットでは話題になり雑誌等にも多く取り上げられ下町の一乗寺という立地なのにうっそうと流行っている。昨日行った時も人ゴミで店内は覆われていた。なぜAmazonなどのネット書店が席巻する現代でリアル書店が今尚健在しているのか。そんな疑問が気になって京都まで足を運んだというわけなのだが、結論を先にいうと、おそらく店内に並べる本のチョイスが斬新な点にあると思う。決して、店内の雰囲気がいいとか、雑貨が置いてあるとか、本の並べ方がいいとか、そういったことではないと感じた。
振り返ってみよう。現代の本屋さんとはどんなのがあるか。大きく分けて二つあって、一つはランキング形式を重視した1から100まで網羅している大型チェーンの書店。それともう一つは、対照的に、とある商店街の一角にひっそりとある「なんで潰れないの」的な亭主一人の本屋さん。もしくは、駅前の売れ筋商品だけを置いた小書店。・・・以上二つに分かれるわけだが、そもそも個人的には紙媒体の文化というのは、後数十年でマイノリティになると考えているので、前者はアマゾンと置き換わり、後者は間違いなく潰れると思う。
その点を少し掘り下げてから、恵文社の魅力にシフトしたいので少し寄り道をして欲しい。
なぜ、リアル本屋さんが今の経営だと淘汰するかというと、単純にデジタルネイティブ。つまり物心ついた時から活字はデジタルで読むものと教育されてくる子供たちが今後増えるからで、現在のアナログ世代とごっそり入れ替わった時には本屋さんの存在はマイノリティになるだろうと。それはこんな根拠があるからで、まだ日本語版のキンドルやiPadなどの電子書籍母体は発売されていないが、他の先進国ではもう地に根付いているといっていい。なんでかというと、公的機関、つまりは教科書がデジタル化に大いに役立っているからなのだ。アメリカの教科書というのは日本と違って、独学ができるように膨大の情報が詰め込まれており、分厚い専門書籍と化している。そんな分厚いものを何冊ももって移動となると、それだけで疲れてしまう。それを補ってくれるのが電子化による、データを持ち歩く方法で、子供の頃からそれが当たり前となると、どうなるか。先ほども言った、活字はデジタル画面で読むものという常識が固定されるわけで、それは必然的に、アマゾンでデータを購入してデジタル画面で読むという行為になり、リアル本屋さんというのが、今で言う、レコード屋さん状態になるだろうと推測せざる得ない。
さて、余談が長くなったが本題に入ろう。
そんな絶望的な本屋さん市場なのだが、それでも希望の光はあって、その光を感じさせたのが今日の主役の恵文社というわけだ。簡単に説明すると、恵文社というのは大型書店の後ろの方に眠っている良書を一般客に触れさせている点にある。人は皆、食わず嫌い性質が備わっており、変化を嫌い、予測できない事、物はさける行動をとる。それは本屋さんでも適応され、好きなジャンル本コーナーしか行かない。例え興味本位で哲学とか医療とかの書棚にいったとしてもちんぷんかんぷんで足を止める時間というのは刹那だろう。その点、恵文社はそれをごちゃまぜにしている。東京では最近オープンした松丸本舗がそれにあたるだろうか。漫画や古書を隣に並べるなどして、お客に刺激を与え、ハードルを下げ、好奇心、自分探しの森へ引き込ませる。それが最大の要因であり、恵文社が好まれる理由にあると思う。
しかしだ!! それでも甘いと私は思っている。もっと振り切れる必要があるのではと考える。
確かに、恵文社や松丸本舗という質に拘り一般人の琴線に触れるチョイスをする本屋さんというのは魅力的であり、集客力も案外ある。しかし、それが購買に繋がるというと、やや懐疑的な部分もある。絶対数が増加したからある程度は増えただけであって、どうもそういった第三のリアル書店というのは、雑貨屋さん、つまりは見て楽しむ本屋さん、ファッション的書店になっているのではないかと思う。
はっきり言って、今のやり方ではネットでも十分にできる。ごちゃまぜ方法的なやり方なんかだとネットの方が有利ではないか、立ち読みも楽勝にできるし、棚の入れ替えもすばやく展開できる。恵文社ネット版は安易に作成できるのだから、やはり今の経営方針ではまだまだだと個人的には考えている。恵文社にいるときに自分ならどうするかを思考していたので、それを少し紹介すると、ネットでできなくてリアルでしか通用しないもの。それはなんなのか。それはこんな事ではないか。
本を選択してくれるサービス。
本を購入するというのは、大きく分けて二通りあって、目的がはっきりしている買い方と紹介による買い方。反論を防ぐ為におさえておくと、ぶらっと立ち寄った本屋さんでふと手に取った本をペラペラと立ち読みし、なんとなく気に入って購入したとか、ジャケ買いしたとかは、前者に含まれる。それはあくまでも自分好みのものを手にとって見たからで、目的が決まっていると言っていいと思う。それで重要なのが、後者の紹介による購買で、書評をみてとか、本屋さんのPOPを見てとか、尊敬する人から進められたとか、誰かに決めてもらって本を買うという方法。わたしはこれがほとんどを占めているが、あと、好きな著者つながりとか。
要するに、数多ある書籍を目の前に置かれても、選択できないのが人間で、それは時代の流れて確かに収斂されてはきている。この恵文社のように、ある程度本屋さん側にチョイスしてもらって、その中からお客さんがまた選択すると。ただ残念ながら、わたしはそれでも多いと思っている。やはりある程度絞ってもらっても、本選びの時は不安なものは不安だし、お金のある人は別だが、数千円を投資するわけだから、何かにすがりたいのが世の末だろう。
そこでだ。もっともっと絞ってみてはと思ったわけで、想像していただきたい。とある本屋さんがあったとする。そこには、10冊しか本棚に並んでおらず、本と本の間のスペースは2,3冊分はあいており、そこには亭主が厳選した書籍がたっぷりの書評と並べて置いてある。まさに、セレクト書店というべきか、ポイントなのはそこでしか、その選択のサービスは受けられない点にある。有名人なら一人で経営しても問題ないだろう。例えば、書評で有名な弾さんなんかがセレクト書店をオープンすればそれなりに流行ると思うし、もちろんネットでは同じサービスは止める必要がある。しかし、知名度がない人や法人がやるとなれば、コツコツとやるしかない。
仮に恵文社程度の規模で私がプロディースするとすれば、ネットで書籍を沢山読む人を集めて書籍を選んでもらい書評を書いてもらう。そしてそれを店の本棚にならべる。ポイントは一人につき書棚一つ。それと個性的でバイアスのある書評家を選ぶ必要がある。となるとだ、かなり特殊な本屋さんになるのは自明だろう。無造作に置いてある本をお客さんが決めて買うではなく、数冊に絞ってやり本をお客が不安満載で博打買いするのではなく、この書評コメントに感化されたから買おうと、そしてその書評を書いた人が魅力的に感じてきて、その人が選ぶ本なら自分と結構趣味が合うので買おうと、最終的にはその選ぶ人のコアファンになればいうことなしだ。なぜなら、好きな人のお奨めする本は、本を購入するという行為に直結するからだ。
ってな感じで、本を選ぶのではなく、人が選ぶ情報を買うにシフトする必要があると考え、それと重要なのが、ネットではその情報を流さないこと。これさえ徹底すればリアル本屋さんも当分はやっていけるのではないだろうかと思う。本の種類を抑えるとコストもさがるし。ただビジネスとしての初期段階では本屋というビジネスモデルは選ばない方がいい。もしやるとしても、ローカルな趣味経営で止めておいた方がいい。現段階で書店経営している場合は考えるべきだろう。
選挙なんだけどさ、一人一票ってのはどうにかならんのかなあ。
個人的には支持政党は無いんだけど、選挙には行くんだよ。で、どっかに投票するわけなんだけど、別にその政党に全幅の信頼を持ってるわけじゃないんだ。その政党が掲げている政策とか公約とかのうち、いくつか良いなあと思ってる部分を支持して投票するんだけなんだけど、なんだかどうも政党というのは一票貰ったら、もうその有権者はその政党及び候補者を100%支持してくれているとか勘違いしちゃってんじゃねーかと。もちろん、ヘタな事をすりゃ次回の選挙では勝てないって考えはあるんだろうけど、次のっていうかもう少し今を考えろって。
一票じゃなくて5票くれ。
そうなれば、なんとなくいいなと思った政党及び候補者には3票、お前らもうちょっと頑張れというところに2票入れるよ。
いいなと思った政党や候補者がもっと良くなれば、次は4票に増やしてやるよ。頑張りが足りなくても、とりあえず独裁になると恐いから残り1票はどっかにやるよ。
そんで投票者個人がどういう割合で5票使ったか統計が取れるようにするんだ。5:0で支持されてんのか、4:1なのか、3:2なのか、はたまた2:1:1:1なのか解るように。
そもそもこんな時代に、1か0かなんてふざけてんだろ。政治家を100%信頼してるとかありえねーだろ。だから複数票持てるか、0.1刻みの投票が出来るようにしてくれ。
って思ったんだけど、たいして調べてないけど世界中、まともな国はみんな一人一票なんだよね。
なんのかんのいうても最終的には多数決で物事を決めるわけだから、1か0になるので、一人一票なのかな。
1か0かを決めるようになるから、例えば、非実在青年がどうだの腐女子がーロリコンがーアニメがーってのが変な話になっちゃう。結局は1もらえないなら0って事で死んで良しって事につながっちゃうんだよね。
個人的には犯罪さえしなきゃロリコンはいてもいいけど、ロリコン候補者ってのがいたとしたら、絶対、一票は入れないんだよね。まあ5票あっても自分は入れないけど。でも5票あれば1票入れてくれる人もいるかもしれないね。0.01刻みなんかが出来たら、0.01入れてもいい。
0.01あったら生きててもいい。存在していい。って事。死んでもいいって事は無い。でも1か0の世界だと、0だったら死ぬのも同じ。でもそこに1入れないからって、もう片方が死んでもいいって考える人はそんなにいないと思う。投票しない方を殺す為に、違う方に投票してる訳じゃない。もちろん殺したいなら0:100の割合で投票すればいい。
普通に投票したら、80%の支持率で投票した事にして欲しい。残り20%は支持する政党以外に割り振って欲しい。もちろん残りの比率を個別で配分できるようにして欲しい。
投票率を上げたいならそういうのやってくれ。1か0、0か100なんて感覚で選ばせんな。政治家なんてそこまで信頼される仕事じゃねーだろ。かと言って、棄権っつーのも変だし。棄権が0になっちゃうのも本当は変なんだと思う。どうでもいい。という意思表示なんだから、候補者や政党に等分布されるようになればいいんだ。与党が不利になるから、与党があぐらをかかないでもっと有権者、国民の為に頑張るかもしれない。
なんだかまとまらん。
こんな感じの事を考えている人ってどっかにいるの?
それとも穴がありすぎて、実現するはずがないのかな。
人間はアナログなんだから、イチかバチかみたいな選挙のやり方はよくないと思うんだよね。
日本に限らず、政治があんましうまくいかないのは、政治家個人や政党の問題じゃなくて、選挙システムそのものに問題があると思うんです。仕事でもそうだけど、なんだかうまくいかない場合ってのは、個人の資質とかの問題よりも、やり方とかそのものの成り立ちに問題があると思うんだよね。
1か0か、イエスかノーかっておかしいよね。
例えば戦争やるって事になったとしても、1か0の世界だと、選挙で戦争okみたいな結果になったとしたら、戦争のやり方は政府が決めちゃう。あの国にはお灸が必要だろって考えて、1か0で、1の投票をしたとしても、政府が「全力でフルボッコしてやんよ」みたいな戦争になったら、ちょ・・・ってなっちゃう。もちろん政府は世論の動向を踏まえてーなんて事を言うのだろうけど、数字で出てない情報だけで都合よく考えちゃうからウンコ。
複数の票や0.01刻みの票があればそういうのも解り易いのに。
増税の話だって、増税するか、しないか。という1か0論なら、増税すんな。という結果になるのが当然。
複数票あれば、ちょっとだけなら増税してもいいよ。って票も取り込めるじゃん。
なんだかキリがないな。
どっかにこんな考えを持ってる人いるだろ?たぶん。いないかな。
天才プログラマーがはてなにはいるんだろ?こういう考えを元に投票システムを作れたら、とても面白いと思うので作ってください。そして会社のエライさんはそれを政府に売り込んでくれ。投票システムとまでいかなくても、世論はこうなってるという目安をwebで見るだけで解るものになる。
まだまだアナログ映るのにもったいないのと金がないのとでテレビ買い換えを延ばし延ばししていたのだが、予約録画機能が使えなくなり、仕事柄家を空けがちなのに好きな番組を見れないのはひじょうに悔しいと思い、ついに定期預金を崩し、清水の舞台から飛び降りて(死語)薄型を購入した!
現在使用のテレビデオは社会人1年目&初の一人暮らしで買ったものだけに、それなりに愛着もある。「ひきとってもらうのに説明書はいるのかしら」と、テレビデオの説明書をごそごそ読み返してリモコンをいじくっているうちに・・・壊れてしまったと思っていた録画機能が復活したことに気付いた。がーん。
薄型は前からほしかったからうれしいけれど・・・ああ、もったいないことしたかも・・・。アナログ停波までつきあってあげたくなってきた・・・けど、2台も置けないし、せっかく買った薄型キャンセルっつーのもなあ・・・うわああああん。
地デジ:アナログ一時停波し警鐘 政務官が検討指示
地上デジタル放送への切り替えを促すため、長谷川憲正・総務政務官はアナログ放送の一時停止の検討を指示した。デジタル対応への遅れを視聴者に認識させる荒療治として、米国でもアナログ停波を実施したことがあるが、実現には曲折がありそうだ。
地デジ対応受信機の世帯普及率は、09年9月時点で69.5%と、目標の72%を下回っている。ビル陰などの受信障害がある世帯が利用している共同受信施設(共聴施設)に限れば、地デジ対応は25.8%と、10年3月末の目標値50%の半分にとどまっている。
9日の政務三役会議で長谷川政務官が「政府のCM枠内ででも『今から10秒間、アナログ波を止めます。止まった方は地デジに非対応なので早急に変更を』と呼びかけられないか、事務方に検討してもらっている」と説明した。
石川県珠洲市では今年1月、48時間にわたってアナログ波を実験停止したが、大きなトラブルはなかった。ただ、ある放送局の広報担当者は「全国一斉では苦情が殺到するのでは」と話す。【望月麻紀】
「政府のCM枠内ででも『今から10秒間、アナログ波を止めます。止まった方は地デジに非対応なので早急に変更を』と呼びかけられないか、事務方に検討してもらっている」
そんな芸当本当に出来るの?
横ですが。
今回の日本の不況、衰退、デフレ何でも良いんですが、その原因には、少子高齢化や(冷戦構造崩壊によるグローバル化を起源を発する)戦後民主主義の賞味期限、デジタルネットワーク革命など、いろいろな要因が絡んでいると思うですよ。要するに変化が激しすぎて、適応が追いついていない、という面が多いと思います。旧来の安定したインフラやシステムが逆に既得権益としての壁になってしまっているような気がします。だから既得権益批判をやるという話ではなくて、今は産みの苦しみの時代だと思っています。今必要なのは時間であり、ある期間を乗り越えたら、急激に日本はまた復活すると思います。というか、内田先生の日本辺境論ではないですけど、日本の環境適応能力や吸収力、学びの力は異常だと思います。フランスの留学生(でしたっけ?)のブログで話題になっていましたが、日本の風景の変化速度は異常です。でも、それでも追いついていないのが現状だと思います。適応のために時間が必要なのだと思います。なんとなく思っているのは、アナログ世代が退場した後、デジタル世代が主導権を握る時代になれば、マスコミが主導する世論形成システムも自動的に崩壊し、社会の意志決定のシステムも大きく変わるでしょう(もうその兆候は見られています)し、人口が少なくなっても、デジタル世代はITによってうまく生産性を向上させると思います(現在は主導権を握っているアナログ世代が適応障害を起こしているので、どうにもならない訳ですが)し、アナログ世代のリーダーがストップをかけていた製品企画にも足かせの取れたデジタル世代のリーダーが出てくれば面白い製品にゴー!をかけるのではないでしょうか?その根拠として、YouTubeを見ていて思うCGMによって作成された日本製娯楽コンテンツの異常なレベルの高さです。日本人のクリエイティブ性は”今でも”凄いと思います。これほど、職人がいる国はないのではないでしょうか。また、経済を歴史から見ると、経済の中心地(オランダ→イギリス→アメリカみたいな流れ)があって、その中心地が世界経済全体のエンジンになっていたという考え方があるそうです。しかしながら、グローバル化し、デジタルネットワーク革命が起こった現在に、中心地は存在しないのではないでしょうか?インターネットの構造と同じように、情報的・経済的ハブとなる地域はあるが、中心地のない時代になっているのではないでしょうか?つまり、全世界の「辺境化」です。そして、辺境の地としての日本の歴史には一日の長があります。日本が有利なんです。だから、職人は本能のままに「一千万人の職人の創作活動で世界を萌やし尽くしてやる」と突っ走ればいいのではないでしょうか。と、たまには明るい未来を語ってみました。
追記:
増田で議論する気はないけど、たまには反応するかな。
http://anond.hatelabo.jp/20100226173402
もうちょっと論点を整理して語れないもんか? 要するに「きっとなんとかなる!大丈夫!」の一言でまとめられる気がするけど。
論拠なしでも「きっとなんとかなる!大丈夫!」でおk?神様にお祈りでもするか。
http://anond.hatelabo.jp/20100226173632
さかなをたべよう!
あたまあたまあたま~あたまがよくなる~
http://anond.hatelabo.jp/20100226180143
更に横増田です。
たぶんこの辺の認識が元とは違うと思います。
元が問題だと思っているのは景気サイクルの波ではなく、国の規模が衰退傾向にあるということに目を背けていることが問題なのでは?
>要するに変化が激しすぎて、適応が追いついていない、という面が多いと思います。
>旧来の安定したインフラやシステムが逆に既得権益としての壁になってしまっているような気がします。
既得権益が新興国の低賃金に関与しますでしょうか?この国は豊かになってしまい簡易な労働でも非常に大きなコストがかかってしまうという事を認識すべきなのでは?
>必要なのは時間であり、ある期間を乗り越えたら、急激に日本はまた復活すると思います。
時間が経つと何が変わり、何が復活するんでしょうか?
>デジタル世代が主導権を握る時代になれば、マスコミが主導する世論形成システムも自動的に崩壊し、
マスコミがこの国の政策の策定及び執行にどの程度影響を及ぼしますか?
>人口が少なくなっても、デジタル世代はITによってうまく生産性を向上させると思います
その他、コンテンツの質の高さ等がありますが、そのコンテンツが将来どのぐらいの価値を生み出すでしょうか?
>経済の中心地(オランダ→イギリス→アメリカみたいな流れ)があって、その中心地が世界経済全体のエンジンになっていたという考え方があるそうです。
>しかしながら、グローバル化し、デジタルネットワーク革命が起こった現在に、中心地は存在しないのではないでしょうか?
各国に分散していく事に対してこの国が寄与できる部分はありますか?
疑問ばかり。心配ばかり。部屋の中でガタガタ震えてお祈りしてれば?
「あんたのやりかたはダメだ。これこれこういう理由で(あるいは俺にはそのやり方は理解できんからなんとも言えないけど、とか)。それよりもこっちの方がうまくいく確率が高い」という意見が建設的な意見というものでしょう?「絶望した!」と叫びたいだけなの?
平成22年2月17日(水)の読売新聞のコラム「「電子黒板」より生身の職員」があまりにも酷い内容だったので筆を取らざるを得なかった。
佐藤卓己という京大準教授が書いたというこのコラムの内容は、要約すると下記のような内容だ。
「電子黒板など意味がない。なぜならば10年前、教育現場にパソコンを導入しようとして失敗したではないか。電子黒板などノそんでいるのは情報機器メーカーだけだ。電子黒板事業など事業仕分けされて当たり前だ。唯一成功したメディア教育は黒板と教科書を媒介した人間的な教育だけだ。」
この佐藤卓己という人間は、民主党のまわしものか、日教組の組合員か。いずれにせよ、教育の現状を知っているまともな人間ではない。
教育現場でのパソコン導入が失敗したのは、パソコンの使い方がわからない教員のせいだ。
教員たちはパソコンを与えられても「仕事を増やすのは労働者の権利を侵害する」などと言って学ぼうとせず、ホコリを被って可動すらしない状態になるまで放置しておいて「そらみたことか。そんなものは教育に役立たない」と言った。
また、生徒たちが「パソコンを使いたい」と言っても「壊したら責任が持てない」などと言って触らせもしなかった。
結局、子供達は自発的に携帯電話や電子端末を持つ事となった。それが子供達本人の負担、教育、情報の格差に繋がっているにもかかわらず、学校教育はそれらを無視してきた。
「学校裏サイト」などというものができて、子供達自身が作り出す電子メディアが学校の運営を脅かす状況になっても、教員たちは「それは外部の事だ」と無視をきめこんでいる状態だ。
電子黒板がどれほどのもので、果たして成功するかどうかわからない。
しかし、間違いなく言えるのは、「唯一成功したメディア教育は黒板と教科書を媒介した人間的な教育だけ」なのではなく、
教員の怠慢によって、教育メディアはアナログにとどまっているだけなのだ。
それをよしとするのでは、あまりにも向上心がない。向上心のない教育など、教育ではない。
先日、SFCネットビジネスイノベーション政策フォーラムでは「物事を覚え、関心する最大の原動力は感動である。感動を与えるために、感動的な電子デバイスを全ての子供達に渡そうではないか」というスピーチがあった。
それをネットを通して観ていた数万人の人が「教育は感動」という言葉に感嘆した。
しかし、もし今の教育現場に感動的な電子デバイスが導入しても、教員達は己の怠慢のために子供の感動を剥奪するだろう。
アナログな友達。といえば君が学校で作ったような友達のことだよね。
我々がアナログな友達を作るときは
外見→声→会話→中身
こういうサイクルが基本だよね。
まさに「人は見た目によらない」とか抜かす偽善者共の言ってる事が矛盾してるのが分かるよね。
中身まで攻め入らない限り人は外見通りなのにね。
デジタルな友達。
たとえば君がネトゲで作った友達とか。mixiで知り合った友達とか。
そういう人達のこと。
中にはまるで前略プロフのように使う輩もいるようだけど、我々の人種はそれとは違うよね。
そもそも「絡み待ってます」とか言わないんで。
絡む(笑)だっておw
我々がデジタルな友達を作る時は
会話→中身→声→外見
ってなるよね。
これはチャットやSNS、ネトゲで知り合い、スカイプを通して会話し、オフ会に行く場合だけど。
だいたいはこうだと思う。
俺はこのサイクルの方が好き。外見で判断されないから。
よくネトフレを馬鹿にしたり理解できない”だんかいw脳”の人がいるけど、それはべつにそれで良いとは思う。特におっさんやおばさんは理解する方が苦しいよね。
俺だってそんなゆとりの仲良くなりかたおっさんだったら嫌ですし。おすし。
我々は「人は外見によらない」とか「好みのタイプは性格が良い人」だの
本当だかどうだか分からない事をつぶやきながら生きている。
はたしてそれが本当か。そんなのリアルを見れば良いじゃない。
そういう良い意味の偏見を実際に行う人なんてほとんど居ないよね。
だったらネットを見れば良いじゃない。
中身まるだし。匿名大好きなネットなら誰でもネット弁慶になれるからね。
実際にそれで成功してる人だっているよね。
アルファブロガーとか良い例じゃん。
ついったーなんか見ても中身だけは最強って人いるよね。
今の時代はMixiで付き合ってみたり、ROで結婚してみたり、ねらーのオフ会で馬鹿をやったりと色々できるよね。
できるんですよ。
どうですか。デジタルな友達。
あなたには居ますか。デジタルな友達。
ダウト。
お前が好きなのはそこの美少女です。
「優しい人がタイプ。(>_<)」とか抜かすそこのモルボル。
ダウト。
あんたが好きなのは好きなだけ甘えさせてくれるイケメンです。
別に同性に限ったってそうです。
外見だけでつるむような非効率的な関係はできないし、
どうですか。
デジタルな友達。
どうですか。
この宗教めいた文章。
どうですか。
※ ここで言うプログラマは日本的な意味でのプログラマ。広い範囲を職能とする海外のプログラマは対象にしていない。
どうもプログラマという職業の評価というのは曖昧だ。営業マンのようにうまいこと数字で表せない。ロジカルな世界であるはずのプログラマという職業は、評価において非常にアナログだ。
何によって評価されているのか?ということがわからないと、人は迷走してしまう。
ゴールドマンサックスのリーダー養成担当であったスティーブ・カーという人が、「仕事に対するフィードバックが無いのはピンの見えないレーンでボーリングをやるようなものだ。結果を把握しないで仕事をしていると2つのことが起こる。1つには上達しない。もう一つに、どうでもよくなる。」と言ったそうだ。深い。
コーディング能力や言語の知識だけで評価されないどころか、その評価軸は半分以下であることは言うまでもないが、私の同僚の中でも有数のキレモノは、この解いに対して、「最も大切なのは、勤怠と週報ですよ」と断言した。さすがキレモノw
せっかくなので、派閥でまとめてみよう。
この派閥はイキオイがあるし、だいたいこの派閥の人はイケメンだったりカワイコちゃんだったり、話が面白かったりするので、周囲としても軽々には扱えない。がしかし残念ながらあまり周囲の評価は受けていないようだ。多分周囲の嫉妬を買う部分も多いのだろう。ただ、この派閥にいる人が一番迷走している傾向が強い印象を受ける。
少数派なんだけど確実にいる。コミュ派とは敵対関係。彼らに迷いは無い。もし周囲が彼を評価しなかったとしたら、それは彼の実力を正しく評価できない周囲が悪いのだ。
この仕事しててあまり学歴の事を問題にされることが無かったので、絶滅したものと思っていたが、存在するようだ。学歴と「地頭の良さ」みたいなものがリンクするという考えのようだ。マクロ的には相関があるかもしれないが、個人個人の揺れ幅が大きすぎていまいちピンとこない。学歴そのものをお客さんが評価するとは思えないので、学歴のあるヤツは何でもうまいことやるだろうという信仰に基づく意見だと思われる。
少数派である。新人は平気でこれを言うかもしれないが、むしろ大勢は、「成果で評価されたらたまらんわ」くらいの勢いがある。案件の当たり外れが大きすぎるのが問題だ。新人でも無く、経験年数10年以上になってもこれをちゃんと言ってる人と言うのは、そもそもハズレ案件を自分に持ってこない政治力を持っている。ただまあ、質問に対する応えにはなってない気はする。「実力だよ」って回答するのと大差はない。
あまり何言ってるのか主張がよくわからない場合が多いが、とにかく才能であると、なんだかよくわからないが才能であると。コミック「THE3名様」のミッキーみたいな感じの派閥。(読んでない人すみません)
文句のひとつも言わず、残業はサービス残業でモクモクとやる派。仕事を頼みやすいので、お客さんもどんどん彼に中途半端な仕事を投げてくる。結局のところこの派閥が頭角を顕して行く・・・のか?