はてなキーワード: ドイツ国防軍とは
http://anond.hatelabo.jp/20161204224426
全ヨーロッパのユダヤ人をドイツ領ポーランドの絶滅収容所へ移送する−これは、途方もない作戦である。遂行にあたっては詳細な計画、広域にわたって組織化された設備施設、そして輸送・補給・宿営のための大がかりな兵站機構が必要だった。連行作戦にはドイツの広範にわたる政府機関と組織が巻き込まれている。ハイドリヒが作戦の指揮を執り、1942年5月の彼の暗殺後はハイドリヒの後継者、帝国中央保安局長エルンスト・カルテンブルンナーがこれにあたった。あらゆるSS機関、支配地域の様々な民間の権威、ドイツ国防軍、そしてナチの衛星各国政府が連行作戦に動員された。特にドイツ鉄道組織は連行されたユダヤ人の集団を絶滅収容所まで輸送する手段を提供し、強制連行に加担した。次のことは特筆に値するであろう。何よりも軍隊が鉄道を必要としていたにもかかわらず優先順位を記したナチのリストによれば、ユダヤ人鉄道輸送の割り当ては、軍隊のそれよりも優先されていたのだ。
全ヨーロッパからユダヤ人を連行するということは当然、5つの絶滅収容所に彼らが到着するということでもある。列車同士のブッキングを防ぐため正確なダイヤグラムが必要となった。ダイヤグラムの組み立てにあたっては、それぞれの収容所の絶滅施設の能力も考慮に入れなければならなかった。ガス室があるといっても全員を短時間でガス殺できない収容所へ列車を付けるわけにはいかなかったからである。
ユダヤ人連行は秘密裏に進められたので、大がかりな隠ぺいと偽装工作が行われることになった。連行される人びとに対しては、東方のどこかへ労働に行くのだという情報が流されていた。このためポーランド在住ユダヤ人はソ連領内のナチ占領地域に連れて行かれるのだろうと考え、他国のユダヤ人たちはナチ領ポーランドへ労働のために送られると信じていた。ナチは、嘘がほころび連行に不審感や不安感を持たれないよう、念の入ったことをした。 連行の途中あるいは収容所到着後何人かに対して、故国に残した家族あてに葉書を書くよう強要したのだ。家族が受け取ることになる葉書にはこうしたためてあった−「自分たちは元気に生きている。ここはただの労働収容所で、快適だ」− 差出人は数時間後にはもう生きてはいなかったのだが。
強制連行の手順と方法は大体決まっていた。連行が迫っているという噂が数週間前から広まることもあったが多くの場合、連行命令は予告なしに突然執行された。連行される人びとに与えられた猶予はきわめて短く、2、3時間かあるいは数分だった。まず、ユダヤ人たちは家を出て指定された場所に集合するよう命じられた。集合場所は大抵駅の近くだった。所持品は手荷物以外許されず、彼らは自分の財産のほとんどを置き去りにするしかなかった。手荷物の重さは一人当り10~15キログラムに制限されることもあった。荷物の中身は主に衣服、炊事用品、寝具などだったが、そこには仕事に使うための道具類も加えられていた。働きに行くだけだと信じていたからである。
重い荷物を背負い、包みを抱え、子どもも年よりも、ユダヤ人たちは駅までの何キロもの道のりを行進させられた。年寄りや病人が荷馬車やトラックで隣村から運ばれてくることもあったが、行進は基本的には徒歩だった。行進から脱落した者はその場で射殺され、歩けない病人や隠れていた者も同様に見つかり次第射殺された。複数の小規模ゲットーで同時に連行が行われた場合、それぞれのゲットーの人びとは一つの集団にまとめられることもあった。こうした集団の隊列は長さ数キロメートルにも及んだ。天候は考慮されなかった。凍てつく冬の雨の中、焼けるような夏の太陽の下、隊列の行進は絶えることがなかった。
haruhiwai18 "ズデーテン地方について、大戦を回避しようとヒトラーに譲歩する中で割譲されたと強調" →"ミュンヘンの教訓"を適応するのはどうかと思 http://p.tl/l5lt/id:cider_kondo氏、御高説拝聴したいので 詳しく解説を願います。
cider_kondo id:haruhiwai18簡潔に。太田氏は間違い。ミュンヘン時点で独の軍備は整っておらず、開戦即敗北と国防軍は認識。ヒトラーの勝利は純粋にブラフの力。結果、ヒトラー威信の上昇と国防軍内の反ヒトラー運動の衰退を招いた
haruhiwai18 id:cider_kondo氏"ミュンヘン時点で独の軍備は整っておらず" →間違っていないと思いますhttp://p.tl/oa_U、http://p.tl/THWOが、最初にIDコールいただいた内容がやはり分かりません。http://p.tl/fPBe/そのうち教えてください。 2014/02/05Add Star不適切なブックマークを通報する
「間違った情報で判断した」
だけである。ヒトラーに間違ったシグナルを出したとかその後のイギリス軍備が間に合ったとかはすべて後解釈である。
もちろん、間違った情報で判断した、も後解釈と言えばそう。違いは「間違った情報しかなかったので誤断した」は繰り返し発生する、極めて理解しやすい歴史の教訓だと言うこと。この点では歴史は繰り返さない、は寝言である。
「チェンバレンが融和策で時間稼ぎをしたからバトルオブブリテンで勝てた」は結果論。
もちろん当時のイギリスの軍備はグダグダ(航空機産業の再編に失敗したフランスよりはマシだったけど)だったから、開戦すれば必敗だ、と当時のイギリス人が思い込んでいたのは事実。これはそう誤断するようにドイツ側が相当に頑張っていたから、まあ、仕方ない面もある。だが「騙されて誤断した」というのが事実なのは揺るがない。
実際にはドイツの戦争準備はまったく整っておらず、チェコが本気で抵抗した場合に勝てたかは謎、というか無理ゲー臭が漂う。
少なくとも、当事者たるドイツ国防軍の中の人達は、現在の自分たちの戦争準備がまったく整っておらず、いざとなったらヒトラーを実力で排除するしかない、と思い切ったことまで考えていた人も少なからずいた。
もちろん、そういう情勢だと分からなかったから、当時の宥和策が間違いではなかった、と主張することはできる。できるが、したところで「正しい情報が無かったから誤断した」から逃れられるわけではない。
結果論で言えば、宥和策でドイツの膨張策を英仏が許容したことで、そのたびにヒトラーの権威は上がり、ヒトラー自身の過信も強まり、反ヒトラー派は弱っていったのは事実。
宥和策がヒトラーに対抗するイギリス軍備を建設する時間をもたらした、は結果論では正しく見えるが、だったらもっと強く出ていたらヒトラーは失脚していたはずだ、も相当に強い。
要するに昨今の一部で見られる
「今までの『ミュンヘンの教訓』は間違っていた」は単に「結果論VS結果論」という同じ穴の狢である。
で、最初に戻ってズデーテンの話。ズデーテンを失ったことで、チェコはヒトラーに対抗するだけの意思と能力の両方を事実上、失った。
アキノ大統領がそこまで踏まえて言っているかいないかまでは元記事では不明だけれども、島嶼国家であるフィリピンが、自国に属する海域をなすすべもなく失うようでは、話にならないのは確かである。