2023年09月05日の日記

2023-09-05

anond:20230905175228

人口の話出てるから朝鮮統治独立運動の話しかと思ったけど、震災の方か。

まともな官憲朝鮮人を暴徒から守ってたみたいだけどね。それにしても、当時の日本人無知蒙昧さと野蛮さは、想像を絶するものではあるね。

まあ、米欧もたいがい似たようなもんだし、そういう時代だったのかもね。

不倫してる会社社長から逃げようとしたら酷い目にあった

って話って需要あるんかな

anond:20230905175447

前例を作るまたは作らないようにするため

どんな容疑者被告であろうと等しく裁判を受ける権利がある、弁護する者を与えられないということになったらそれでもいいという前例ができる

だいたい調べもしてない第三者裁判での判断ができるわけもないし考慮もされない

anond:20230905175447

好き嫌い善悪で弁護するかしないか決めるのは、基本、職業倫理には反することやで

 

まあ自由資本主義の一部である以上そうとばかりもいかないので、国選弁護人かい制度もあるんだけど

野菜が高いと思いませんか?

トマトが1個200円(税込)しています。高い店では300円。

こんなの買えません。

ほうれん草が1束350円。買えません。

きゅうりが1本100円。無理です。

安いのは、キャベツ。半分が120円とか。助かる!

あと、時々小松菜奈が安い。100円くらいで買えます

でもそれくらい。ナスビは3つで250円くらい。

もやし50円

ブロッコリーは小さいのが300円。

どうやって暮らせばいいのか。

とりあえずお好み焼きでしのいでます

こういう弁護士って

なんで弁護しようと思えるのかなぁ

相手論破するゲームみたいな感覚なのかな

anond:20230905150852

その3つはだいたい相応の評価(つまり後2者はちゃん尊敬)されてるとこしかたことない。

民間のDBSは監督庁がないからできないって嘘やろ

ないなら作れ

anond:20230905173943

俺もホロコーストとは全然違うと思う。主に民間パニックによる虐殺と、確かな意図を持って国主導で虐殺するのでは邪悪さのレベルが違いすぎる。

Twitterの人たちは日本弾圧なんかしないって思いたいのかね、戦争弾圧しなかった国家とか無いよね基本。

手を差し伸べるべき弱者とは青葉くんである

anond:20230905162033

ウィッス

サイキン

ジカン ニ ルーズ ッス

ヨクナイ ッスネ

ハンセイ ッス

ウィッス

anond:20230905160325

ウィッス

カイセツ タスカル ッス

ウィッス

anond:20230905172754

さすがにイケメンじゃないと素敵!抱いて!とはならんけどセックス意識させてることはできて、あとは相手の出してくる条件(彼女にして、優しくして、とか)を飲むだけだよね

anond:20230905172938

40すぎてからヘッドハンター系(メディア伝説ヘッドハンターとか持ち上げられてるのが在籍してるようなとこ)からの連絡増えたんだけどどんなもん?やっぱノルマあるんかな

クラス制度友達

 現代学校教育では、クラス制度が設けられている。小学校から高校(大学も一部の講義ではクラス制度存在する)まではクラス制度が当然のように存在するので、毎日固定されたメンバーと共に集団生活を送らねばならない。

 こうしたクラス制度存在がなければ、友達を作ることが難しい人は一定存在するのではないかというのが今回の記事テーマである

 どうしてこのような考えを持っているのかというと、高校までは受動的な姿勢のままでいても友達を作ることは容易にできるからだ。高校までは周りに人がいるという環境が既に与えられている。その環境は何かといえば、クラス制度である。これは本人の意思によらず、自分がどこか一つの共同体に属することが強制的義務付けられるので、周囲の人間関係を構築しやすいところが多分にある。その理由としては、主に三つの要因があるのではないかと考えている。

 一つは、クラス構成された共同体の一つであることにある。クラスには名簿なるものや連絡簿、名札などが存在するので、自分の顔と名前がほかのクラスメイトに知れ渡っている状況が簡単に作り出されている。そのため、少し交流しただけで、交友関係が容易に発展しやすいという特徴がある。特に何をせずとも自分個人的情報が、いくらクラスメンバーに知れ渡っているという状況は、交友関係のとっかかりを作りやすい。

 二つは、周りに人がいるのが当たり前の環境下で生活することを強いられる点にある。自分の周りには当たり前のように人がいるので、自然に声を掛けられてそのまま流れで友達になったというケースはよくあることだ。実際にそうした経験を持つ人はとても多いのではないだろうか。クラス存在しないとなれば、自分から進んで声を掛けないと簡単友達を作ることはできないが、クラス存在するのであれば、自然コミュニケーションが発生し、気付いたら友達になっていたという状況になっていることはままある。

 三つは、本人の意思によらず問答無用クラスメイトと一緒にいる時間がとても長いことにある。高校の授業は1限から6限、あるいは1限から7限まで授業があることがほとんどである。そうすると、一日の大半をクラスメートと共に過ごすことになる。高校まではクラスメートと共に同じ机を並べて授業を受けることを強要されるので、同じ体験を共有することができる。この同じ体験を共有しているという状況が関係性の発展に貢献しているところが結構ある。何せよクラスメンバー全員が、同じ体験を積んでいるので、授業でわからなかったところなどをクラスメイトに相談して問題解決することもできる。これは会話をするきっかけとしては十分なものである。 こうしたように高校までの環境特に自分から行動を起こさなくても、自然友達ができやすい傾向にある。

 

 一方、大学以降の友達作りは、交友関係形成しにくい面があるように思う。それは大学にはクラスがないことがほとんどなので、自分から積極的に声でもかけない限り、他人と会話をするきっかけそのものがない。きっかけがないと、自分の顔と名前を知ってもらって、関係を構築するという次のステップに達することはできない。また、 同じ学部メンバー全員が、一様に同じ講義を受講するわけではない。大学では、それぞれ自分の興味関心のある分野を自主的選択して講義を受ける。つまり、人によって受ける科目にばらつきがあるのだ。そのため、いつも周りの人間と同じ講義の科目を受けることになるわけではない。被っている科目が少なければ、それだけ同じ学部人間接触する機会も減る。会う機会が少ないと、会話を重ねて人間関係形成していくというのは難しいところがある。つまり高校までと比べて共同体に属しているという感覚希薄であるように思われる。高校までと違ってクラスもないし、名簿も名札もない。だから自分存在を知ってもらうことが高校と比べて難しい。もちろんゼミ語学講義などのように同じメンバーで定期的に講義を受ける科目も存在するには存在するのだが、その頻度は週に1、2回とさほど多くはない。なので高校までの授業と比べて。同じクラスメンバーと共に何かをするという経験を積むことが難しい。そうした環境人間関係形成しにくくさせる要因の一つになっている面もある。

 高校までは周りの人間が声を掛けてくれることで何とか友達(友達らしき存在)を作ることができたが、それがなければ、その間ずっと友達を作れずに学校卒業したケースも多かったのではないかと思われる。そうした人たちは一定数いるのではないか。むしろそうした人たちの存在の方が多いのではないかというような気さえする。クラス制度存在友達作りに貢献しているところを踏まえると、クラス制度存在に救われている人も結構いるのでは。クラス制度って案外必要制度なのではないかと思ったりもする。

さーて、暇だから、、、

ツーショットダイヤルでどエロ女でも探すか

ネットサーフィンでお宝画像でも探すか

③深夜映画エロシーンで抜いて寝るか

anond:20230905172754

悲報】わい虫歯だらけデヴおじ、新卒OLにそれをやったところ懲戒解雇となる

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん