なんでそんなに不幸を身に纏いたいの?
「なんでも過ぎるのは良くない」って
自己アピールなり、自己推薦なり、自己紹介なり、自分を売り込むときが必ずある。
そんな瞬間がたまらなく辛い。
自分には堂々と出来るような実績も、証明も、肩書きも無いからなのだろうか。
それだけじゃない、「自分でこれだけの事をやった」と言い切るような気持ち自体に不快感がある。
結果が出ること自体、タイミング次第で変わったりするもので、それを自分の実力だと言い切れる確信すら得られない。
周囲の助けがあったり、環境の変化、時勢柄、理由を挙げたらきりが無い。
そんな点が繋ぎ合っているだけの現状を、「自分はこんな結果を出した!」と言い切れる事ができない。
通り魔に刺された被害者を横目に、「自分は日頃の行いが良かったから助かった!!!」と誇らしげに語っている様でならない。
たまたま助かったことをさも「自分の実力」と胸を張ることと同じような感覚に陥ってしまう。
「なんでこの程度で褒められるのか?馬鹿にしているのか?」と思ってしまう。
言わないだけで自分の目標点みたいなものはもっと上にあると信じている。
目標値まで着いてないのに評価されても、「自分はもっとできるはず」という気持ちがあって素直に受け取れない。
そんな気持ちが染みついているからか、自分を売り込む時が来ると途端に弱くなってしまう。
なにを売り込んで良いのかわからない。
それだけとしてしか認識できていないので、アピールなんて到底出来ない、している自分が情けない。
当然、人の目につくかどうかが需要に変わっていくわけで、出来ないものは淘汰されていく。
仮に実力がある者だろうと、主張しなければ日の目を見ず終わる。
それが現実。
確かに自分も変わりたいし、売り込みたいのだけれども、どうしても染みついたこの感情を捨てきれない。
語らずとも評価され、行動のみで主張が出来る、そんな立場を目指せば良いのだろうか…?
そうだとすると、まだまだ実力が足りないのだけなのか。
過去「まだ郵送なんかしてるんですか?FAXで十分じゃないですか?」
現在「まだ、FAXなんて使ってるんですか?メールで十分じゃないですか!」
未来「まだ、メールなんて使ってるんですか?LINEで十分じゃないですか。既読かどうかも分かるし。遅配もないし。SPAMに紛れることもないし。」
相手に『頼る』ってことを覚えると、もう少しラクになれるかもよ。
親戚の集まりで
たまたま誰かが「なんでも過ぎるのは良くない」
「そもそも『過ぎる』という言葉自体が良くない範囲から外れることだから
いや、言ってることはわかるけど、わざわざ言うほどのことか?
なんつーか、言葉の語義そのものにこだわりすぎでしょ もう完全に着眼点がアスペのそれ
案の定、変な間ができてたよ。。。世知辛〜。
最近転職を考えている、ということを知り合いに言うと、なぜかかなりの高確率で
と聞かれる。
それに、給料はちょっと少なめだけどまあ普通の範囲内くらいだし、みなし残業はあるものの残業代もちゃんと出るよ、と答えると
なんていうのが返ってくる。