はてなキーワード: 習慣とは
そこは自制しなよ・・・太りたくないんでしょ?それとも本気でそうは思ってないんじゃない?
さいですね、すんません。
夕飯下ごしらえ→旦那帰ってくるまで仕事(在宅)→旦那帰ってくる→作って夕食
ってのが一連の習慣になっててなかなか…。
仕事時間から組みなおさねば。
http://anond.hatelabo.jp/20070804000349
大事にしたいなあと思ってるんですけどねー。
実際大事に出来ているかどうかは自分じゃなかなか分かりませんよね。
・食事に同席したら結局一緒につまんでしまう
・別々に調理する手間がかかる
そこは自制しなよ・・・太りたくないんでしょ?それとも本気でそうは思ってないんじゃない?
下ごしらえは自分の分と一緒にしておけばいいじゃない。
仕上げだけにしておけば手間なんてたかが知れてるし、煮物なら温めなおすだけだし(かえっておいしくなる場合も多い)。
あと、習慣なんて意識すればわりとすぐに書き換えがきくよ。
昔は、ABCDなんて区別がなかった。区別するだけの技量も、それに対処するだけの設備も無かったから。
実際、ほとんどがAだと思われていたし、統計データをとっても少なくともAとBで半分が占められることは確かなようだった。
…では、「そのほか」は?
ある時期までは「非A非B」と呼ばれていた。そう呼ぶより無かったのだ。AとB以外は「AまたはBではないもの」という扱いだったのだ。
ただ、日本人の生活習慣などの事情もあって、昔はそれで事が足りていたのだから、恐ろしい話である。
やがて「C」の存在が顕著になってくると、実は日本でも「D」や「E」が存在していたことが明らかになってくる。
知られるとともに、急激な増加も確認された。環境ホルモンなど、さまざまな影響を指摘する向きもある。
とはいえ、この分野において日本は完全に欧米の後塵を拝するかたちになっていたわけだ。
この点については、欧米と日本の食文化の違いや、人種による体質の違いなどと指摘するのはあまりに安直に過ぎる。
え? ウィルス性肝炎の話ですよ? 嫌だなぁ気のせいですって。
ITベンチャーを6年間渡り歩いてきて、言葉に出来ないモヤモヤ感と疲労が溜まりに溜まったので、仕事を辞めて今まで貯めてきた金で、カナダのVancouverに来ています。ちなみに、期日前投票はしっかりと済ませてから来ましたよ。
こっちは紫外線は強いですが、ほとんど湿度がないので非常に過ごしやすいです。
おまけに日照時間が長く、明るくなるのが午前6時くらい、暗くなるのが夜の10時くらいなので非常にお得な気分です。
こないだのjkondo氏のホッテントリを交えながら(こっちに来てもホッテントリのチェックは欠かせないのが情けない)、日本との違いをざっくりと書いてみますかね。
まず、日本人働きすぎだろ。ホント偉いと思う。
その労働時間の長さはいい意味でも悪い意味でも世界に誇れると思うぜ。
僕が24歳くらいの頃、社員数30人くらいのベンチャーで働いてたとき(あ、ちなみにWEB系プログラマね)は、出社10時帰宅23時はザラだった。
そんで、金曜日はどうにか仕事を20時くらいには切り上げて仲間と飲みに行くのが習慣だった。
土日はくたびれた体をゴロゴロと癒したり近所を散歩する程度で、なんとなく土日を無駄にしてる気がしてた。
僕はそんな人でした。
そんな僕がこっちに来てみて思うのは、やけに昼間から大人がたくさん遊んでるなぁってこと。
たとえば、平日の午後3時とかにビーチに行ってみると、普通にジョギングしてる人、サイクリングしてる人、日光浴してる人、子供と遊んでる人がかなりいる。
みんな仕事は何をしているんだ?と思ってしまう。
アメリカに渡ってみて僕が気付いた事は、就業時間とか休みの日数とか、そんなつまらないことにいかに自分が囚われていたかという事でした。退屈だから仕事でもするかとも思ったけど、どうせまた明日の月曜日から一週間あるんだし今日は休んで映画でも観ておくか、とか、休日にも仕事をしたのでそこはちゃんと社内にアピールしておかないとなと思ったり、とか、もう今日は休んだ方が良さそうだと思っているのに周りでみんなが頑張っているのでなんとなく会社に残ってみたりとか。
きっと彼らはこういうことなんだろうと思う。
こっちの人はみんな平日も楽しんでるよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070722053313
今回だけじゃなくて、これまでの事が積もり積もって、相手の堪忍袋の緒が切れたんじゃない?
もし本当に「今回だけ」だとしたら、他の人の分まで積もり積もって……かもしれない。
時間のある時に時々教えるのはうれしいけど、(他の人の分も含めて)あんまり頻繁だったり、しつこかったりすると嫌になるもの。
たとえば
こういう人に出会うと、「もう、いい加減にしてよ、あたしはあなたのママじゃないのよ」って言いたくなるもの。
もしあんたが苦労しないで簡単に結論だけ欲しいのなら、よし決まった。あんたが映画や推理小説を見ようとしたら、その前に結末をしゃべっちゃうぞ。そういうのがいいんでしょ?
……というのは冗談としても、企業がお金払ってでもパソコンの面倒をみて欲しいというサポート技術者でさえ、かなり人材不足だというのに、名もない一個人のあなたに付き合ってくれる、それもタダで!?もう信じられません。そんなに気前よい人がいるんですか。その人は「神」なので、機嫌を損ねないように大事に大事になさい。
参考
西暦2026年。日本にある奇妙な現象が起こった。出生率が激減したのだ。
もちろん、出生率の低下はつい最近に始まったことではない。前世紀半ば1970年ごろの、いわゆる第二次ベビーブーム以来日本の出生率は一貫して下がり続けていた。だが、2026年に起こった出生率の低下はそれを凌ぎ、前年度の半数以下にまで落ち込んだのだった。だれもが首を傾げ、専門家も市井のブロガーも、ありとあらゆる人がこの問題の分析を議論した。
21世紀の情報化社会にあっても、丙午の女性は男を食い殺すほど強い、という迷信が健在なのだというトンチンカンな分析をする社会学者も居た。
O社というある小さな会社の出した女性型ロボットが、その原因らしい。
そもそも、人間の基本的な欲求、適応度を上げると言う意味で生物的に基礎的な欲求は、あるレベルを超えれば経済学で言う収穫逓減の状態を示す。水も空気も食品も、あるいは快適な生活空間も人間の生存には無くてはならないが、ある一定以上を求めることは無い。もうおなかいっぱい、と言う状態が存在する。だが、男性の性的な欲求だけは例外であって、際限が無い。
三大欲求という言い方がある。食欲、睡眠欲、そして性欲を指すのだそうだ。このうち、食欲と睡眠欲は自身の存在を存続させる欲求、性欲は自身の存在を拡散させる欲求であると言い換えられる。では何故自身を存続させたいと思うのだろうか? それは、自身の存在を拡散させるため、自身の遺伝子のコピーを広げるためであると言える。生物の存在という目標のためだけに生物は存在し、またその目標が無ければ生物自身も存在し得ない。果てしの無い自身の再生産のためだけに生物は存在する。
男女の愛に関する悲劇の全ての源泉は、男女によって生物学的な適応度を高める方法が違うということに由来する。女性はいくら多くの男性と関係を持ったとしても、直接には子供の数を増やせないが、男性は数多くの女性と関係を持てば、原理的にはほぼ無限に多くの子供を持つことができる。それゆえ、自身の適応度を際限なしに高めることができる。だから、男性の性欲には限度がない。1000人、あるいは10000人と関係を持ったとしても、1001人目、10001人目の女性とセックスできるだろう。
だが、一般的な水準の容姿と金銭と道徳観念を持った男性にはそんなことはできない。だから、売春が生まれ、ポルノが生まれた。英語で"the oldest profession"「最古の職業」と言えば、売春のことを指す。古くは版画やグーテンベルグの発明から映画に至るまで、あらゆるメディアにおいてポルノは存在した。ビデオデッキの規格戦争においてVHSが勝利したのも、その影にアダルトビデオがあったのは有名である。軍事的な目的のために開発されたインターネットを一般人に普及させたのもポルノサイトがあってのことだ。ありとあらゆる技術は、男性の性欲を満たすために使われてきた。人間の経済活動は、男性の性欲に由来している。いや、そもそも言ってしまえば経済活動も含めたあらゆる人間の活動は、究極的に突き詰めれば、この男性の性欲の限度の無さに由来するのだ。人間の無限の欲望も、背後にある原動力として性欲によっている。もし人間から性欲が無くなれば、あらゆる種類の人間の活動は全て無意味になる。
たとえば、車は分かりやすいステータスシンボルであり、セックスアピールである。移動手段としては不相応なまでの高級車を持ち、ガソリン代、車検と不必要なまでのコストを掛けることは、生物学でいうハンディキャップ理論の表れであると言える。食欲を満たすという目的のためにはあまりに高級すぎる、人気のデートスポットであるフランス料理店。これも性的な欲求を含めなければ説明がつかない。動きにくく実用的でない服装や、映画や絵画といった美術ですら、究極的に突き詰めれば性欲に由来する。男性が権力や高収入を求める欲求が女性より強いのも、それが歴史的に女性を得る手段に直結していたからである。歴史を紐解いてみればいい。権力者、独裁者はほぼ例外なく側室を持ち、多くの子を残している。アメリカの元大統領のクリントンのように、権力者が複数の女性と性的関係を持つことが倫理的に許されないことになったのは、ごく近代のことでしかない。日本ですら、戦前までは政治家や財界人が愛人を持つことは当然のことであったし、社会通念的にも認められていた。明治天皇や大正天皇ですら、嫡出子ではなく側室の子であった。「英雄色を好む」という言葉があるが、これは生物学的に見れば一種の逆転である。英雄と呼ばれる人間だけが好色なのではない。そうではなく、あくまで権力を得た人間は自身の欲求を実現する方法をも同時に得られるということでしかない。
しかし、人間は婚姻という他生物には見られない独自の制度を持っている。世界中どこを見ても、結婚制度が存在しない社会は存在しない。「交尾でオスの役割は終わり」という生物とは違い、どんな社会においても、人間の男性は自身の妻や子供を養育する義務を持っている。(蛇足だが、人間の男性が若い女性を好むのも、長期にわたって一人の女性と性的関係を築く婚姻制度によって生じたものである。その証拠に、交尾でオスの役割は終わりというチンパンジーの一種は出産、育児経験のある中年のメスを好む。なぜならそのほうが自分の子供が生き延びられる確率が高いから)それゆえ、近代のテクノロジーが発達する以前の社会においては、自身の限度の無い性欲を満たせるのは、社会的に成功したごく少数の男性だけだった。付け加えて言うならば、有史以前、人間が貨幣を持つ前の狩猟採取社会においては、どうやら一夫多妻制度はまれであったらしいと言うことが分かっている。多くの皮肉屋の主張とは違い、資本主義の発達により貧富の差が生まれたことによって、多数の妻を養うことが可能になったようだ
だが、大容量のインターネット回線と、テレイグジスタンス、バーチャルリアリティ、そして人型ロボットの研究が男性の際限の無い欲求を満たすことを可能にした。
月々数千円も出せば、海の向こうの幼い少女からディスプレイの中にしか存在しなかった理想の美少女まで、ありとあらゆる女性とのバーチャルな性行為が楽しめるのだ。お互いの性器に装着したネットワーク対応の性器具と、データグローブとボディースーツ、そしてヘッドマウントディスプレイによって、その場に存在するような臨場感を持って、バーチャルセックスを体験させるサービスが提供されていった。インターネットのサービスは、地理的な障壁や囲い込みがないため、常に、全世界が競争相手であるし、容易に相手のイノベーションを取り込めるので、リアルでは考えられないほどのすさまじい速度で進化していくのが常だが、ネット経由の売春も、その例外ではなかった。
そして、流れが決定的になったのは、前年に発売された女性型ロボットだった。
ちょっとした高級車を買うくらいのお金を出せば、文字通り女性を所有することができるのだ。しかも、現実の女性と違って妊娠することも浮気をすることも歳をとることもない。なにより、飽きて捨てたとしても何一つ文句を言わない。
しかも、簡易ではあったが会話もでき、(ちぐはぐな受け答えが、逆に幼さを感じさせるとして喜ぶ男性も居るようだ)食事や掃除と言った家事をすることもできた。妻を持ちたくない、または持てない男性にとっては正に福音であった。
いや、もてない男性だけではない。中間層の普通に交際相手が居る男性にとっても救いであった。彼らは常に女性のご機嫌を伺い、足代わりに使われ、食事を奢らされてまで、不確実なセックスにありつくことに疲れ果てていたのだ。彼らにとっても、女性型アンドロイドの登場は救済であった。何も要求せず、見返りの無い愛を注いでくれる、いつまでも無垢な女性。有史以来の男性の永遠の理想の体現であった。
だがしかし、その後不可解な面白い現象が起きた。一体何が起きたのか?
数年間のうちに、出生率がV字回復したのだ。ちょうどそれは、60年前の丙午の翌年に起きた出生率の回復のようだった。
例え人形であっても、女性と生活を共にする以上、身だしなみを整え、生活習慣もきちんとしなければならないという男性が多少は増えたのだ。現代の情報化社会の中で、不当に抑圧され、自己肯定感を失っていた若い男性が、たとえそれがロボットであっても、全面的に肯定されることで自信をとりもどしたのだ。不当にワガママな女性に対しては、いつでもアンドロイドに戻れる、ということをほのめかし、恋愛において男性が女性と対等な立場で渡り合えるようになったのも大きい。
そして、性欲は人間の本質的な欲求であるが、それと同じくらい、子供を持ちたい、家族を持ちたいという欲求も本質的なものであるらしかった。擬似恋愛という一種のカンフル剤で人間性を取り戻した男性が、次々に現実の恋愛、結婚へと戻っていったのだった。
しかし、再び恋愛市場の中に戻っていったのは、男性全体から見ればごく一部でしかない。彼らはもとから女性に相手にされるだけの財産なり顔なりを持っていた幸運な男性なのだとも言える。大部分の男性は、そのまま「戻ってこなかった」 なにせ、どれほどのキモメンであろうと、振られる事はありえないのだ。大部分の男性は、理想の彼女と一緒に、自閉的な生活を送るようになった。それでも彼らは満足しているようである。
こうして今や、少数の結婚市場に復帰した男性と、大多数の「降りた」男性たち、そして、理想の彼女との競争に晒される女性だけが残った。出生率が回復したと言っても、日本の出生率は世界最低レベルを走り続けている。どうやら経団連は、労働力不足を補うために本当に移民の受け入れを考えているらしい。このままでは1半世紀しないうちに日本人は消滅すると予測している学者も居る。
しかし、再び現実の恋愛へ戻っていった男性も、擬似恋愛を楽しんでいる男性も、それぞれに幸せなようだった。
だが、、、これは本当に人類の進歩なのだろうか? はたして、テクノロジーは本当に我々を幸福にしたのだろうか? 科学技術の進歩によって、最後に生み出されたものが「自由意志による断種」「幸福に包まれた自死」でしかなかったとしたら、数千年に及ぶ人類の歴史は一体何だったのだろうか? 今後の人類の未来を考えるにつけ、私は絶望的な気分になる。
同じく技術者の立場の女増田だが、同じ状況におかれたら自分も給湯室当番をやってしまう、むしろやらないと気がすまないタイプだなあ。そうしないと居心地悪くて仕方ないから。上司から時間の使い方で文句言われそうなら30分早く出社して時間外でやってしまいそうだ。自分のこういうとこ嫌いなんだけど、属してる集団の中で負担が重い人と軽い人がいたら、重い方に合わせないと気がすまないんだ。潔癖症的に。
でもでも、そんで後輩が入ってきたときにその子にもやらせる(自分がやっているということがその後輩への無言の強制になる)ことになって悩んだりするんだろうなあ。思慮が浅いって言われる。
しかしうちの会社はそういうタイプの人多くて、入社したときの唯一の女性の先輩は、朝30分早く出社して部署全員のデスクと電話拭きとかやってた。それが社内で一番キツイと恐れられていた女性総合職だった。そういう背中を見て育ってしまったからなー。今年の新人の女の子もやっぱりそういうタイプだった。男性社員もそういう人多いな。掃除のおばちゃんや短期のバイトさんに対しても、日本語として不自然に近いレベルの丁寧な言葉遣いかつ下手に出る習慣がある。
そういう人の集まった会社のせいか、放っておくと時間単価の高い社員が雑用をやろうとするせいか、掃除や給湯サービスは専門の業者に委託されてる。掃除が一日に2回もまわってくるので、もう掃除する隙がない。来客用のお茶出しも専用の人(受付業務と兼任)の担当なので本当にすることがない。
元増田の話とずれた。ごめん。こういう話のときいつも思うのは、雑用をやるのは簡単だけど自分の行為が後進に負担を強制することになるんで(ここでも女の敵は女)、そこで雑用を引き受けるのがいいとも言えないってこと。本人とそのまわりは一瞬すっきりするだろうけど。本当は事務の女性でもその業務に特化した方が効率がよいし、外部業者に任せた方がコスト面も有利だと思うんだけど、事業所の規模によっては難しいよね。
ああいうのってどこで知るものなのかな。
幼い頃から子どもに叩き込むのかな。
勝手に見てて覚えた。たとえば、毎日出てくるごはんを見てれば野菜の切り方なんて覚えるよね。
と思ってたんだが、毎日わたしのごはんを食べてる旦那がたまにカレーでも作ろうと言い出したのでやらせてみたら、野菜の切り方をいちいち尋ねるので、見てれば覚えるってもんじゃないんだと知った。親から習ったのは、見てて覚える態度だったらしい。
余計なことだけど、うちってかなーり田舎だったんで、子供がする簡単な手伝いなんかでも詳しく説明してやらせるって姿勢じゃなくて、教える人が一回やってみせてそれを見てて、次にそれを再現するんだけどそれで出来ないと「お前の目は節穴かー!」って頭小突かれる文化だったんで、万が一そういうところに行ったら、なんでも見てて覚える習慣のない人は大変だろうなあとつい思ってしまう。まずあり得ないだろうから余計なお世話だけど。
官僚とか国家公務員とか国家試験という評価制度を抜けて競争原理が働いているところはいいんだよ。
がんばってるとおもうよ。
でも、最小自治区レベルに目をむけてごらんよ。
彼らは競争原理も成果評価とも無縁。
それでも、それなりにしっかり働いている人の数の方が多い。
しかし小さな組織では例外的存在が極端だとあれば組織そのものの姿を変えてしまう。
母数の小さな集団では能力の中央値と平均値が大きく違う可能性がある。
だから、「あの」自治労を含む公務員系の組合ですら「まっとうな評価制度を作ってくれ」と何年も前からおねがいしてるって話さ。
現行法でもそうすることになってるし。
「法律の改正をしないと出来ない」ってのは実績を作りたい政治家が「私がダメな公務員を成敗しました」というポーズをつくるためにやってるって話でもあるか。
しかも中央では評価されえない人物がよりにもよって重役についている可能性がある。
もしそのような人物がいた場合その人を排斥する手段はあるだろうか?
あるよ。
河原の草刈りの仕方が気に喰わない住民がいて、市長が担当者をクビにしなかったら、リコール投票で市長ごとクビにした自治体まであるぞ。
組織として間違った人いた場合、住民の意思を反映できるのは市町村議会しかない。
しかし、その人物が地場の地主や商店の息子とかであった場合どうなるだろう。
その地方の住民も予算を気にせず「いままでどおり」を望んだ場合どうなるだろう。
住民の望み通りいくとこまで「いままでどおり」行って、破綻すんじゃねぇの?
夕張を破綻に追い込んだのは、公務員の給料じゃないし、組織の問題じゃない。
主に雪だるま式に増える借金を債務保証して貸りさせて、突然債務保証しないって言い出した国と、おいしい話に騙された市長だけどね。
国に騙されるような市長を選んだ以上仕方のない事かもしれんね。
おもったことをつらつらり。
はてなが自発的にアクティブなわけではなく、はてなは受専だと思う。
経営に特化した人物でそれがはてなの社風にあうようであれば迎えいれたいみたいなことは、はてながまだ4,5人だったころから言っている。自身も認めている通り、日本の商習慣にあわないという意味で彼は社長業務には不適格だ。
個々の能力がある程度あったので戦略をとらない戦略でうまく回ってこれたとも言える。
20人を超えても各自がんばれで乗り切れるかは少し疑問だ。
一般的な会社と比較すると、彼が社長というより実はreikonが社長というほうがしっくりくる。
というよりreikonが社長業務をこなしていたからここまで成長したといっても過言ではない。
彼女の気配りは社外にいても伺いしれる。
まったく実にうらやましい夫婦だ。
日本というのは非常に狭い社会で、結局はどこかの銀行の派閥に属さなければならない。
完全にリベラルというのが難しいのだ。
だが、はてなという会社は設備投資がほとんど必要がなく、キャッシュを必要としてこなかったために、そこから無縁のまま成長してきた。
japan net Bankの口座をいつまで経ってもつくってくれないのはそういうことか?
今気になっているのは、そろそろ社内のキャッシュがオーバーストックで死蔵されているのではないかということ。
ちゃんと運用しないと…だめよ?
どうも、乳首が隠れるか隠れないかのロングヘアの元増田です。毎日トリートメントもするし美容院もちょこちょこ行くけど、ロング期間が長いので習慣になっていてある意味無頓着なのかもしれない。
惹かれるのは良い。勝手に惹かれてくれて良い。髪キレイだねと言われてデレデレしたこともあるさ。でも毎日触りながらじゃないと落ち着いて眠れないとか言われれたら赤子みたいでキモい。というのが感想。
私が本にのめり込むきっかけとなったのは、小学二年生の時に親から買い与えられた江戸川乱歩だった。題名は覚えていないのだが、怪人二十面相シリーズのどれかだったと思う。それまで童話やゲームブックしか読んでいなかった私は、たちまちその"はじめての小説"に夢中になった。何度も読み返し、本屋に行くたびにシリーズをねだり、次々と読破していった。読書欲、を感じた最初の瞬間だった。初めて自分のおこづかいで買った小説は「三角館の恐怖」で、この本に関しては購入した店も、そのシチュエーションも、はっきりと覚えている。あの頃は今よりももっと、本は輝いていて、私にとって尽きぬ宝の山のようだった。
やがて江戸川乱歩の子ども向けに出ているシリーズを制覇した私は、買い間違えたことをきっかけに、よく似た装丁のアルセーヌ・ルパンシリーズにも手を出した。「奇巌城」「813の謎」……ルパンの冒険と謎に胸をおどらせることの幸せだったこと。読み終わった私は、今度は祖父母に世界文学全集をねだった。この頃にはもう、両親よりも祖父母にねだる方が勝率が高いことを、私は理解していた。手に入れた全集は分厚く、何冊も連なり、私はそれをむさぼるように読んだ。私はそこにある本を読まずにとっておくことや、ゆっくりと何回にも分けて読む、ということの出来ない人間だった。覚えたての読書の味は熱病のように私をとりこにしていて、憑かれたように全集に没頭した。「海底二万マイル」「秘密の花園」「小公女」「黄金虫」……めくるめく世界は、まだまだ幼かった私の前にどこまでも広がっていた。
そうして、三年生になる頃には親はもうあまり本を買ってくれなくなった。その代わりに、図書室があるじゃないか、と私に言った。図書室に入り浸ることを覚えたのはこの頃だったと思う。毎日、給食を終えるなり図書室に駆け込んだ。読書に熱中するあまり、本棚の影で授業が始まっていることにも気づかず本を読み耽ったのが、私が始めて授業をさぼった思い出だ。その調子で図書室を開拓し、私は年間で20枚以上の図書カードを消費し、登下校の最中も歩きながら本を読んでいることで先生に怒られ、一年と少しが過ぎる頃には図書室の本は大体読んだと豪語するまでに至った。
それでもまだ読む本を貪欲に求めた私は、父親に面白い本を尋ねた。本の世界はあまりにも広く私の前に広がっていて、私はまだ、指針がなくては進むべき方向が分らなかった。父は私に「ロビンソンクルーソー」を勧め、それを私が気に入ったとみるや、次々に本を教えてくれた。これは後に私が入り浸ることになる図書館のものだったが、この時の私はまだ図書館を知らなかった。「二年間の休暇」「トムソーヤの冒険」「月面旅行」「地底探検」、冒険もの、漂流モノにはまったのがこの頃だった。
五年生になって、私には新しい友人が一人増えた。彼の影響を受けて、私は今度はSFの世界にのめりこむことになった。タイムマシンものよりも、謎のウイルスの話、宇宙人よりも、突然変異体が暴れまわる話が好きだった私を、彼が笑っていたことを覚えている。最も印象に残っているのは植物が突然人を襲い始める話で、何故か最後の部分だけ落丁していて読むことができなかった。そのせいで今でも覚えている。
六年生になってようやく、私は図書館という広大で未知の宝の山に足を踏み入れた。ここで赤川次郎にのめり込み、やっと私は、"作者で本を選ぶ"という指針を手に入れた。今までSFであればSFを、無人島ものであれば無人島ものを、とジャンルで開拓していたことに比べて、作者、という指針は非常に分り易かった。何より図書館は作者ごとに整理されていて、端から読んでいくのにちょうどよかった。私は弟の分のカードも使い、12冊借りては読み、翌日また12冊借りては……ということを夏休み中繰り返した。たまに別の作家の本に手を出し、それが面白ければその作者の別の本も…というように"あ"から順に私はじりじりと侵攻していった。
あの頃むさぼる様によんだ赤川次郎の面白さを、今ではもう理解することができない。けれど棚ひとつを埋めつくす赤川次郎の著作を眺めながら、少なくともここに棚ひとつ分の読む本がある、と奮い立った胸の高鳴りはしっかりと覚えている。赤川次郎や森村誠一や筒井康隆といった、あたるとデカイ作家は、あの頃の私には本当に偉大な存在だった。その分、寡作な作家は私の包囲網からはすっかりと抜け落ちていた。
穴を埋めてくれたのは、母だった。母は私に恩田陸をすすめ、若竹七海をすすめ、服部まゆみをすすめた。それらの少しマイナーで著作の少ない作家の作品は私を魅了し、私は父より母を頼りにするようになった。母は次に、綾辻行人や西澤保彦をすすめ、有栖川有栖を見切っていた私に、江神先輩シリーズを読ませて改心させることに成功した。いわゆる推理小説にはまったのがこの時期、中学二年から三年にかけてだったと思う。
母からは面白い作家だけでなく、"賞で選ぶ"という新しい指針も教えられた。母のお気に入りはメフィスト賞と日本ファンタジーノベル大賞で、私が講談社ノベルの新刊を全てチェックする、という蜜月の日々を一時期過ごしたのは、このせいだった。
中学を卒業する頃には私はいっぱしの読書家になっていた。最早教えを請わずとも、本屋を回り、タイトルを眺め、新たに開拓することができるようになっていた。けれど、書くスピードの方が確実に遅く、読む本はいずれ尽きるのではないか、という思いが頭に時折浮かぶようになったのもこの頃だった。
そんな思いを裏切って、高専に進学した私は新しい世界を知った。ライトノベルというその手付かずの場は、まだまだ広く私の前に残っていたのだ。コバルト,電撃,スニーカー,ビーンズ,ホワイトハート,デュアル,富士見……毎日学校帰りに本屋で一冊読破する、という本屋に迷惑な習慣を身につけたのはこの時で、毎月いっぱい買ってるのだからいいではないか、と自分の中で言い訳していたような気がする。当時バイト代は半分近く本代に消え、年間30万に届こうという勢いだった。今思えばあれが最後の、輝かしい読書の思い出だ。銀河英雄伝説を一気読みして泣いたことも、グインサーガを一週間で既刊読破し、読む時間と巻数が反比例していることを嘆いたことも、銀の海金の大地を捜し求めて古本屋を回ったことも、本当に懐かしく幸せだったと思う。
今ではもう、好きな作家の新刊と一部の賞の受賞作品をチェックするだけで、何も新たに開拓しなくなった。開拓する余地も、なくなってしまったように感じる。今でも本は変わらず楽しく、面白いもののままだ。それでも全てをかけてのめりこむような読書はできなくなってしまった。
まだ海外作品と古典が残っている、そう思うこともあるけれど。それに手を出すのは隠居生活に入ってからになりそうだ。
404 Blog Not Found:怠翻 - 読書を一生の習慣にするための14の心がけ
個人的ハック。
PCなんて電源落としたくらいじゃ意識外にできないでしょ?
いっそ読書や勉強中にニコ動でも落としててくれたほうが気が休まります。
あと、ひきこもりの人は家の中を歩けますよ。
ただそれだけ。
やはり習慣のようなモノだろうか。他に熱中できるものがなかったってことでもあるんだろうけど。
そういえば仕事がむちゃくちゃ忙しくて漫画のチェックができず、ふと気づいたら本編終了、作者交替。
新しい作者のストーリーになじめずに。。。ってのでジャンプ系列は卒業できた気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20070624124250
>つまり、男女の恋愛から離れたい!とか、本当の私を見て!なんて魂の叫びがなくても腐女子にはなってしまうのです。
>諸姉の皆さまをなぞるように行動して、さしたる信念もないままやおい本を読み漁って、気がついたら腐女子と呼ばれる生き物になっていて、「どうして男同士の恋愛漫画なんて読んでるの?」と問われるようになって、いや別に(理由なんてない)・・・と口ごもっていると、やれ身なりに自信がないからだの男より優位に立ちたいからだろうだのと推察されて、そういわれればそういうシンソウシンリが私の中にあったのかもなーと洗脳されてしまいそうです。
他に熱くなれるようなこと、見つかるといいよね。
今の状態でエホ証やめちゃったら、家族関係その他どうなるかな?
きっと害があるんじゃないかな?
やめたことで害があるなら、やめるべきじゃないんじゃないかな。
やめるのは、害があると判断してからでいいんじゃないかな。
ユダヤ人として育てられ、いまでも自分の伝統に対する忠誠心から安息日やその他のユダヤ教の習慣を守っている私の友人は、(中略)神を、歯の妖精(子供の抜けた歯を金に換えてくれるといわれる妖精)よりも実在する見込みが高いものとはみなしていない。
――リチャード・ドーキンス 『神は妄想である』
あ、でも、勧誘来ても断るよ。
お世辞にも敬虔な信者とは言えないけど、籍は置いてるからそう名乗っても間違いじゃないだろう。
協会(エホバの証人の法人組織、「ものみの塔聖書冊子協会」のこと。日本支部は神奈川県海老名市にある。)は繰り返しインターネットの利用に慎重にあるようにとの指示を出してるので、こんな所に書き込みしてる時点で不良信者であることが自明ですね。
で、そんな指示を与えられてるわけなので、この広大なネットには現役証人の割合ってのが低すぎるわけです。オレはこのブロゴスフィアってのが大好きで、色んな境遇にある人の色んな文章を読める状態ってのが素晴らしいと思うんだけど、だからこそネット上の現役人口が低いのがどうにも面白くない。本当はエホバの証人の日常を書いたブログが、たまーにはてブの注目エントリにでも入って、色んなコメントが付くのが健全だと思うのだけど。
といっても、匿名ダイアリーに書いてることからも分かるとおり、普段書いてるダイアリーとかでは自分がエホバの証人であることは明かしてない。自分のIDにエホバの証人という属性を付与するのが、まあ、怖いというか。数年はてなやっててそれなりに気に入ってるもんでね、今のIDのキャラ。もしもまかり間違って匿名ダイアリーの書き込みIDが見える事故なんかが起きたら、それはそれで受け入れるしかないか、ぐらいの覚悟はしていますけど。
で、なんでこんなことをつらつら書く気になったかというと、まあきっかけははてブの注目のニュースに入ってたこれ。
あとこのニュースのブックマークコメントで紹介されてた幾つかの記事も。
まああくまできっかけであるので、それらについて具体的に語ることはしませんが。(聞かれたら応えられる範囲で応えます。即レスは無理かもしれないですが)
さて、今現在オレはエホバの証人であることをどう感じているか。実はあまり深い感情はない。週3回の集会や、月に数回の野外奉仕(つまりは宣教活動のことです)は、母親が聖書研究し始めた小学校の頃からの習慣なので、あまり大変とも感じない。仕事で残業が必要になった時とかは躊躇なく休むし、なかなかあえない友達に会うとかのときは遊びでも、そっちを優先する。この通りネット大好きなので、エホバの証人の信条を否定する情報にも触れてるし、もちろんその中には的外れだなあと思う批判ももちろんある。こんな風にやってると、エホバの証人の信条は絶対的なものではなくなる。じゃあなんでエホ証続けてんの? ってことになると思う。
じつはそれは、オレにとってエホバの証人の信条が「絶対的なものではない」からだ。
うちの家族は両親ともにエホ証で、妹もエホ証。ちなみに母と妹は正規開拓者(野外奉仕に月70時間費やすと宣言してる人のこと)。いわゆる神権家族ってやつだ。父が証人になったのは、先に学んでいた母の証言によるのだが、実はその前、父は消費者金融から借金をしていた。詳しい金額は知らないのだが数百万は間違いなくてもしかしたら一千万越えてたのかもしれない。それが元で夫婦仲は良くなく、母はオレや妹に離婚をほのめかすこともあった。まあそれから色々あって家を手放したりしつつも借金はなくなり今は親もオレもアパート暮らしだが、家族仲は良好だ(母親の一番の悩みはオレが信仰に熱心じゃないことなんだろうけどね)。今の状況は、決して裕福ではないにしろ、昔と比べたら間違いなくいいものだと思うし、それをもたらしたのは間違いなくエホバの証人とその教えなんだ。それだけではないけど、影響は大きかった。
つまり、オレにとってエホバの証人という存在は、けして悪いものじゃない。けれどネットの情報に触れて、それは絶対的なものじゃなくなった。ならば、オレはエホバの証人を捨てるべきなのか。エホバの証人はカルトだ、だから抜けろ。そう短絡的に言われても、エホバの証人の信条が完璧だなんてオレだって思ってないよ、でもオレにとって、間違いなくいい影響をもたらしてくれたんだ。だったら、それは他の道を選ぶのと何が違うんだ? 仕事に生きても、恋愛に生きてもオタク趣味に生きても、楽しいこともあれば虚しいこともあるなんてのは当たり前じゃないか。だったらそのどれを選ぶのも同じじゃないのか?
取り留めなくなってしまったけど。投稿。読んでくれた方はありがとう。
追伸。こないだ映画『300』見てきました。腕チョンパ、首チョンパ盛りだくさんだったけどすげえ面白かったです。かっこよかったです。あとオナニーも好きです、気持ちいいです。
昔、所属していたサークルには、練習が遅くなると自分を含む女の子数人を先輩が車で順番に送る習慣があった。私はいつも最後だった。
その人は大先輩で、8年つきあってる彼女さんがいて、自分とは年が12歳も離れていたから、信用しきっていた。好きでも嫌いでもなかったしね。
で、うっかり眠ってしまい、気が着いたら車は知らない山の中に止められていて、まぁ要するに無理矢理やられてしまったんだ。私は当時18歳で処女だった。
それまでずっと「好きでもない人とセックスするのなんか信じられない!初めては本当に好きな人とする!」と言い張っていたし、本当にそう思っていたのに、その時は頭の中が麻痺したような感じになって「早く終わらないかな」とか考えていた。
抵抗したけれど力では全く敵わず、「ここであまり騒いで殺されたくない」「寝てしまった自分が悪い」「今、車から降りてもここがどこか分からないから帰れない」という自分でも信じられないぐらいの冷静さ。
コトが終わってから家まで送ってもらう間、一言も口をきかず無言で車を降りた。部屋でぼーっとしたまま一夜明けて翌朝、その先輩から機嫌をうかがうような電話がかかってきた。ここで罵倒すれば良かったんだけど、麻痺しっぱなしだったんで、まったくいつもどおりのテンションで「おはようございまーす!次の練習ですけどー」ってスルーしてしまった。何で?と思うけどスルーしてしまった。それからスルーしたまんま、誰にも言わず、練習で顔を合わせても何もせず、1週間後にサークルを辞めて実家に帰った。
自分がこれほどまでに貞操観念が薄い人間だったことに驚いた。なんで抵抗しなかったのか、なんで罵倒しなかったのか、なんで弾劾しなかったのか、今でも分からない。何もなかった、と思いたかったのかもしれない。
それから10年、何度か恋人が出来たけれど、少しでも私が嫌な時にセックスを無理強いするようなことがあれば、すぐに別れるということを繰り返した。「穴さえあれば誰でもいいんじゃないか」と、一気に冷めてしまって、恋人を最後まで信用しきれなくなった。
私は心の貧しい、捻くれた人間だ。私にしたい時としたくない時があるのと同じように、恋人にだってしたい時としたくない時がある。それが完璧にかみ合うことなんて絶対ないのに、あっさり切り捨てた。10年前、決着をつけなかった自分の怠惰のツケを、ずっと払わされているような気がする。
もういい年なんだし、そろそろ何とかしなくちゃなあということで、10年で初めて人に言ってみたよ。こんなことに増田を使ってすみません。