はてなキーワード: COP15とは
最近家のことについて調べていると、0エネ住宅なんてもはや結構当たり前の存在になっていると言うことを認識させられる。
Appleの新社屋の話で、さらりと「100%再生可能エネルギーです」なんて触れられて気になってはいたのだけど、改めて調べると欧米ではもうここ数年でそういう流れは普通に定着してきているらしい。
既に0エネ住宅がバンバン建ちまくってるドイツでは、2021年までには0エネ住宅以外作れなくなるそうな。
そんな話、テレビでもネットでも、「ニュース」として話題になってたことある?
もちろんこれを調べたのはネットだから、ネット上に情報はあると言えばある。
でもそういうのは(日本語の限りでは)何かひっそりとした工務店や推進機関の広報サイトにパラパラと載ってるくらいで、マスメディアが「今こういうことになってる」と特集しているところはほとんど見られない。……最近は。
こうした話題を扱っているのは、テレビの情報だと何故かむしろほとんど、ある時期以前のものだ。
ある時期とは、2011年。
2010年ごろには、COP15の直後ということもあり、実はこういう高機能住宅が日本にも根を下ろしつつあると言う番組がテレビでちょくちょくやっていたようだ。YouTubeではその頃の動画をいくつか見ることができる。
でも2011年以降、原発事故の影響でそういうムーブメントが広がっていくかと思いきや、実際にはどんどん尻すぼみになっていった。
電力会社の陰謀だ、なんて短絡的なことは言わないが、何かここを境に、日本人は未来を見なくなったのかなという気はする。
原発が必要だ電力が必要だと叫ぶ人たちは、こんな世界情勢の中にあってまだ、これから電力消費量を増やしていくつもりのようだ。
消費電力を減らせるという技術的可能性をほとんど無視して、昔ながらの大量発電大量消費を保守していくことが「科学的態度」だと何故か思っている。
世界は8年前の約束を守って、消費エネルギーをバンバン減らしていく計画を着実に進めていっている。
日本だけが、この動きにまったくついて行けず、2009年以前の世界に立ち止まっている。
時は過ぎて行く。未来は容赦なく訪れる。いつまでも昔の気分にとらわれていたら、本当に取り返しのつかないことになりそうだ。
いや、もうなっているのか。
http://anond.hatelabo.jp/20140311140955
宮台 「抽象的に言えば、都市からスキマや余剰を消去する動きが、1996年に完成したんですね。
こうした、スキマや余剰を消去する動き、共同体自治の中で是々非々で対処する代わりに、何かというと警察を含めた行政権力の呼出線を使うという、
学問的な言い方をすると「法化社会」の展開が、全国化したわけですよ。法化社会の出発点は、1983年頃です。
1977年に鈴鹿市で、子供を隣人に預けている間に建築現場の池で溺死したことで隣人と自治体と建築業者を訴えた「隣人訴訟」がありました。
1983年の判決では一部を除いて原告敗訴でしたが、それよりも、判決が報じられると同時に原告夫婦に非難の手紙や電話が殺到し、上告取下げに追い込まれたことが重要です。当時はまだそういう時代でした。
ところが、これ以降、判決とは裏腹に、何かというと管理者責任や設置者責任を問う訴訟が相次ぐようになります。
これに恐れをなした行政は、屋上や放課後の校庭をロックアウトし、小川などは暗渠化したり柵を設けたりし、公園からは箱ブランコなどの遊具を撤去する動きが進み、
90年代に入ると監視カメラまでが入ってくる。法化が進むわけです。こうして空間から、危険な場所の除去という名目で、スキマや余剰が消去されます。これは妥当な動きでしょうか。 そうは思えません。
小さい頃に用水路で一緒にザリガニ捕りをしていた弟がマムシに噛まれたことがありました。僕の父が設置者を訴えたか。いいえ。「だから危ないって言っていただろう!」と弟を叱責した。それが当たり前でした。
おととしの暮れにCOP15があってコペンハーゲンに行きました。昼間でも零下10度以下で、道がアイスバーン化している。
自動車レーンの脇には自転車レーンがあって、その向こう側に歩道があるんですが、どこにもガードレールがない。
「危なくないのか」と尋ねると、「だから気をつけるようにしている」と言うわけです。ザッツ・オールです。
コペンハーゲンの人々は美観を問題にしていました。でも美観に限らず、空間からあらゆるスキマや余剰を消去してフラット化することで、子供たちは幸せになるのか。
何もかもを行政に「依存」することで、僕たちは幸せになるのか。違うでしょう。自分たちで自分たちをハンドリングする「自立」なくして、強度はなく、幸せもあり得ません。
ノイズやリスクを消去した環境こそが子供には良い、といった思い込みの延長線上に、東京都の条例改正にみられるような有害メディア規制があります。
子供をノイズレスな環境におきさえすればスクスク良い子に育つ、といった馬鹿みたいな発想に多くの人がはまっているのが現状です。どうしてこうした考え方が蔓延してしまったのでしょうか。
(中略)
まとめると、「便利」と「快適」があれば大丈夫というのは短見で、実はそんなことでは人は「幸せ」も「尊厳」も得られません。
似た話で、「絶対安全」な堤防や原発を作れば大丈夫というのは短見で、実はそんなことでは人は自分も社会も守ることはできません。
むしろ社会は、そこそこ不便、そこそこ不快、そこそこ危険なのが良いのです。人は、高い堤防さえ作れば大丈夫とか、丈夫なガードレールを作れば大丈夫とか、原発の安全装置にお金をかければ大丈夫とか思いがちです。
間違ってるんです。 社会が「そこそこ危険」であれば、僕らは自明性に「依存」せず、危険に対処する知恵を獲得し、「自立」できる。さもないと、僕らは「依存」した結果、「世界の手触り」を失うんですよ。 」
http://archive.eco-reso.jp/feature/love_checkenergy/20110714_5099.php
ttp://tameike.net/comments.htm#new20100119054234
○年が明けてから、中国に対する風当たりが急速に強くなってきた。当初は気のせいかと思っていたんだけど、グーグルの件が飛び出して、いよいよ決定的な流れになってきたと思う。Financial Timesのこの記事が面白い。
●Google is not alone in calling China’s bluff 中国政府に挑むグーグルは例外にあらず(1月14日付)
ttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2562 (ご安心ください、邦訳されてます)
○記事によれば、①グーグルの反乱のみならず、②鉄鉱石価格交渉が中国の頭越しに行なわれていること、③米国が台湾への武器輸出を決めたこと、という中国叩き3点セットがあるという。考えてみれば、昨年の中国は図に乗ってやり過ぎた感があり、特にコペンハーゲンのCOP15での態度は顰蹙ものだった。しかるに、「支援が必要な途上国の顔と、敬意を払うことを他国に求める新興大国の顔とを使い分けることは、ますます難しくなってきている」という。
○これまで「中国さまさま」ということで、何を言われても下手に出ていた先進国側、特に米国が、だんだんキレそうになってきた。今年は中間選挙もあるしね。一時は「G2」だとか「米中蜜月」などと言われておりましたが、政治の世界はやはり”Never say never.”が鉄則です。
やっぱり単なるパワーゲームの駒なのね。
簡単に振り返っておくと、
CO2削減っていうのは、「地球温暖化の原因だからCO2を減らそう」とまあ簡単に言えばそういうことだ。
これには暗黙の前提ってやつがいくつかあって
地球が暖かくなってるのは事実でも人間が主原因じゃなかったり、実は暖かくなってなかったり、暖かくなっても大したことなかったりと、反対派の主張は各々あるんだけれども、それはまた別の話。
でもちょっと考えれば、あれ?変じゃね?ってのはわかるはず。
なんでこんな「良くわからんし長期的な目標に向かって世界的な動きになってるの?」っていう。
これはばっくりといえば「アラブ」に対する牽制に他ならないわけだ。
オイルマネーだね。
つまり石油だね。
CO2とかメタンとか二酸化窒素とか、ようは石油燃やしてなんかするのが悪いって言ってるわけだ。
そしてもちろん発展のためには必要なエネルギー源であるわけだ。
だからこそオイルを握る中東に対して
「あんまり出し渋ったり言い値で買わせたりと無茶言ってると、こっちも考えがあるよ?」
「俺が言ってんだからおまえらやるよな?」というジャイアニズム大爆発の話なわけだ。
「俺がプレッシャーかけようぜって言ってんだから、おまえら従うだろ?ほら、地球にも優しいし」っていう。
で、母ちゃん(国内)から突き上げられて「おまえらだけでやっとけよ」っていう。
で、世界的な不況なのに付き合ってられっかよってのが最近の先進諸国の話。
日本が強力にプッシュするというのは、要はつまりはアメリカ様に従うわかりやすいポーズなわけですな。
でもそれは市場の拡大とか発展とか「需要の創出」つまりは「無駄に使わせよう」ってのとは相反するわけだ。
ETC1000円とか。給付金とか。エコカー減税とか。
でもさ、車に乗らず、ある物を使い、車は買わないってのが一番エコだよね。
閑話休題。
中東への牽制にもなったし(というか反動で愛国者法もできたし)、まあまあ力も誇示できたし、そろそろ良んじゃねって話。
だからもうCOP15とか気にしてるのは、乗り遅れちゃった人たちだけという。
「え、あ、確かに俺やっとけっていったな……うん偉い偉い。(でももうそれどうでも良いんだけどな)」
って感じ。なんか残念だね。