節子、それただの作文や
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まずスポーツの定義を、「ルールの伴う身体活動」、そしてこの世を「人間社会」として私見を以下に述べます。
基本的に人間は「競争を本能的に求める生き物であり、それを見届けることを求める生き物」だと考えます。それは人類史において狩猟採取時代が長かったこと、そして人間が社会的な生物であること、その2点が原因として考えられます。
まず、人が集団で生活する中では必ず序列が生まれます。有能な個体が集団を率いることで、その集団の生存が有利になることは現代と変わりません。その有能さを何で測るのか、資格や競技会での成績といった指標がない以上それは個々の狩猟の腕、つまり技術や身体能力で測ることになります。そして集団の中の腕利き達が己の腕を競い合い集団の中で順位を決定します。
競い合うには一定のルールが必要となります。そしてその勝負には名前をつけることが意思統一において便利です。そして名付けられたら勝負を定期的に行い都度トップを決めます。そのサイクルを繰り返すことで個々の技術を磨かれ、より高い技術が生まれます。そして周囲はそれらを見届け自身の集団から最も優れた人間を見つけます。私はこれらがスポーツの始まりであり、本質であると考えます。
では、スポーツがなくなったらこの世はどうなるか。冒頭に述べたように「人は競うことを本能的に求める生き物で、それを見届けることを求める生き物」であると述べました。いくら法整備でそれを規制しても、ただの身体活動では物足りない個体は必ずいます、そしてそれを見届けたい個体も必ずいます。もちろん現代では身体活動を伴わない勝負事はいくらでもあります。しかしながら、身体活動で他者と競うという歴史は他と比較になりません。人類は身体活動を伴う勝負、それを見届ける活動に身を投じている歴史が圧倒的に長いのです。よって、明日スポーツという概念が人類から失われても、その本能が失われることはなく、自然発生的にスポーツは必ず生まれます。
以上の結論から、この世からスポーツがなくなっても、人類は自然発生的にスポーツを始めると結論付けます。人が社会的な生物である限り、本質的にスポーツがなくなることはないでしょう。
「結婚できないのを社会のせいにする無能が問題なんだと思っていた」ってのはわりと確信をついていて。
日本で少子化対策が後手後手に回った理由は、「結婚」「出産」ということが社会問題とは切り離された、個人の問題だと思われ続けてきたためとも言われるよな。
実際には、色々な統計や指標が示すとおり、個人の問題と言うよりも社会の変化によって少子高齢化は発生していると言うことが明らかだと言われ始めたのが2000年ぐらいからで、
地方の衰退自治体で結婚相談に予算をつけても、地方議会で否決されることがほぼなくなるようになったのは、ようやくここ最近。
議会というのは、身近な地方議会ほど切実で現実的な問題が扱われて、国会など大きな単位の議会は理念などで動くと言われているから、国会が後手後手なのはまだ社会全体は「結婚」は個人の資質の問題というものが染みついていてとれないのかも。
😾「フとミじゃ韻フミフミできてないニャ」
物語は、話の展開を楽しませる方法、感情を描く方法があると聞いた。
(どちらかといえば、男性は前者を好む傾向、女性は後者を好む傾向があると聞いたが、そこは個人差も大きそうだ。)
勇者、冒険といった舞台設定だと、話の展開がメインかと思わせて、感情を描く部分がメインというギャップが新鮮てうけてるのかなと思ったけどね。
でもセックスはしたくない
親の遺産が僅かばかりあるので私が死んだら国に取り上げられるよりは信頼できる人に渡したいなぁとかぼんやり考えてて、友人の兄弟で独身のあの人私と書類上結婚してくれないかなぁとか思ってる
でもそんなこと迂闊に言って友人に縁切られると困るので、チラ裏に吐き出し
「ぶためん」からのブーイング凄そう
おじはんだぞ
たぶん信じてもらえんやろうけど阪大卒やで
ワイは常にシラフやで。