行ったところないところに行きてえな、広島?仙台?新幹線でン万、じゃ飛行機乗っか!今なら割引?じゃあ札幌行くか!なにするんだ?この日は野球ないのか。じゃあ福岡にするか!西武?まあいいや。ついでだし海外行っちゃお!香港行こ!帰りは…エチオピア航空?おもろいやんけ!→成田…
成田に21時?もう帰れる電車も高速バスもないやんけ!一泊しちゃお!
これが計画の立てられない無い内定で卒業後3年目に入った職歴なし工場派遣のゴールデンウィークです。
普通はもっといい計画に組みなおしますよね?仮にこれに乗るとして、あ、これだとここが無駄っぽいなとかバカみたいだなつって。
最初は飛行機乗りてえなってだけの話だったんだよね。福岡行って帰ってくるだけでもよかったよ。海外行くにしてもまずセントレアやら羽田まで行ってから海外でよかったよ。
でもバカだからまず福岡までの飛行機取って、次に香港までの飛行機取って、福岡ドームのチケット取って、福岡のホテル取って、香港から成田の飛行機取って、成田のホテル取って、香港の宿取って、成田というか東京から帰ってくる電車を取ったんですね。
去年は行きの格安高速バスと神宮のナイターとホテル1泊だけ取っていきました。
2日目はなにもすることがないし帰りの便取ってないのでバスターミナルやらチケットショップ行ってアレした結果バスは席ないしお得な切符はゴールデンウィーク使えませんってことになりました。
んで東京ドームの巨人阪神戦のデイゲームのチケットがあったんで買って、東京ドーム行って、よく見えないから寝ちゃって、なんだかわかんねえやって感じて正規料金の新幹線つうか特急つうか、とりあえず電車乗って帰りました、
ゼブラ上人は大脳の壊れたメンヘルの巣窟にあらわれ説法してくださる慈悲ぶかいお方。今日も教えに従って運動と瞑想を行おう。ありがたいありがたい
それをお題目のように唱えていると何かが起こるんですかね?
13回「ルーティン」と書きました。
それは間違い。
あのおたくっぽい見た目の宮崎勤も幼女を誘拐するときに成功率を高める巧妙なテクニックを使っていたということがその後の調査でわかっている。
○朝食:なし
○夕食:納豆ご飯
○調子
お仕事行かないといけないのに、起きれず、お休みしてしまった。
よくないんだけど、前みたいに、無理して会社行って、倒れたりとか、自傷行為しちゃうとかよりはマシだと思っておこう。
頑張るぞいや、頑張るぞいや。
うう、正直シンドイ。
頑張るパワーが湧いてこない。
頑張るぞいや。
何かしらの訓練を積まないことには全てはどうしようもないのかなという気分に陥る。タイピングが自己流だからどうもタイプミスが多い。一日飲まず食わずで生きているがなんとかなりそうだ。だが水だけは一応飲んでおくか。賞味期限切れの水が心配なので普通に飲む。自炊が面倒くさい。自炊したくない。健康的なものが食べたいのだけれど、外食や内食は基本的に脂っこいものばかりだ。茶漬けとかそういう粗食もたまには食べたいものだ。何も食べたいものがないというのは一種の苦悩である。ミニマリストになりたい。様々な束縛から解放されたい。自分はもともと物欲の薄い方ではあるが、それでもものを切り詰めたい。でも、人というのは様々な雑多なものに束縛、或いは依存して生きているわけで、それをなんとかしようとしても無理だ。自分にできるのは、その束縛や依存の対象をコントロールすることぐらいである。ああ、タイピング能力がほしい、思いついたものを思いついたスピードで書けるだけの能力が。話は戻るけど、その束縛をどの対象に持って行くべきか、ということがさっぱり定まらない。なんというか、人としてよく生きるためには、多くの人がしている生き方に準ずることが、最適解ではないとはいえ、まあまあの解であるということは確かだと最近思う。自分がはぐれものでないかぎりは。ただ、それを無根拠に受け入れるのも、どうなんだろう、危ういものだ。みんななんだかんだで、「普通」の人生を歩むのだろうけど、そこの受容の仕方には人によって差があるのではないか。そこで無批判に受け入れるような人は、いざ自分が危うい境地に立たされたときに、自分が被害者のように振る舞ってしまうのだろう。自分は恐らく意外と保守的な人間で、それなりの合理性の下にこの世界が回っているという確信がある。だからこそ、一見無駄なように思える要素も、ジェンガのブロックのように、抜いてしまうとバランスが崩れてしまうのではないかと思ったりもする。ただ、僕が住むその世界における、ジェンガのブロックの組まれ方というのを僕はよく知らない。勿論、完璧に把握することはままならないだろうけど、かといって、それを知らずに生きるのは少し危うすぎる。よりよく生きる、ということは、より良く生きたことのない人間にはあまり良くわからない、ただ、自分の生きてきた短い期間の中で、幸福だなと感じた時間の条件を規定するならば、それは、ルーティンと、ランダムネスがちょうどいい割合で配合された生活というものだろう。どんなに恐ろしいことであれど、ルーティンとして繰り返されれば、人というのは順応する生き物なので、慣れきってしまう。宇宙飛行士が、「宇宙へ向かうというのは、死のリスクを大いにはらむ行為ですが、死の恐怖はなかったのですか」と問われたときに、「そういう訓練ばかりをやってきたので、馴れきってしまいました。それよりも早く宇宙に行きたかった」と返していたのが印象的だった。死というものですらルーティンのもとに恐怖は薄れてしまうもののようだ。つまりはそういうことなのだ。人はある種の冒険を常に冒し続けなければならない。人は退屈を嫌うからだ。もちろん、人によって、なにを退屈と感じ、なににドキドキするのかということは変わってくる。それどころか、それは一人の人生のなかでもどんどん変化していく。小さい頃は、ただそこに存在すること自体が冒険であった。そして、時間を経るにつれ、異性だったり友人だったり、様々な未知のものと対決していく。学校、仕事、結婚、出産、という現代の一つの模範的なライフスタイルは、冒険とルーティンのバランス、退屈とわくわくのバランスがうまく取れている、だからこそ多くの人が採用するのではないか。ただ、冒険というのは紙とペンだけでもできるものだし、勿論、世界を旅して回ることによってもできるのだし、人を愛することでもできるのだし、つまりは冒険は世界に転がっているのである。ここで重要なのは、どの冒険を自分は採用すべきかということである。自分にとってあまりに心理的負担が大きすぎる行為は辛い。かといって、楽すぎても退屈の渦のもとに自分が巻き取られてしまう。自分はどの冒険を選ぶべきなのか、どのルーティンの下に生き続けるのか。基本的にルーティンというのは人の心理的負担を減少させる効果がある。しかし、行き過ぎてしまうと、退屈に絡めとられてしまう。だからこそ、身をおくべきルーティンは、同時に冒険を生み出す構造でなければならない。ルーティンがルーティンであり続けてはならない。例えば、サラリーマンを例に取ってみても、新入時には様々なことになれないといけないし、それから時間を経ても、昇進だったり転勤だったり、ある程度のルーティンを破壊する構造ができている。というよりも、世の多くの仕事がそういうふうにできている。なんでもいい、世界を凝視し続けると、必ずそこには新たな世界が発見される。それは、今までルーティンであったものが、冒険へと変化した、まさにその瞬間だ。多くの人間にとって退屈な文章から、豊潤な世界を見出す大学教授のように、ルーティンは冒険へと変化し続ける。ならば、僕たちがよく生きるためにはどうすれば良いのだろうか、それは、世界に対して真剣に向かい合うという、その行為によってのみ可能である。生まれたての子供のように、与えられたものの全てを見つめ、全力で凝視するのだ。それが、ルーティンと冒険、退屈とワクワクをうまく共存させるための唯一の方法であるのだ。
これはすごいとか、こういう情報を待っていたとか、よくまとまってるとか、これだけいい情報が公開されているのだから、世の中良くなるもんじゃね?と軽率に思うのだけど、
殺人事件が増えてないけど、マスコミやヤフーニュースなどで知る機会が多いために統計上は良くなっているが体感として悪くなっている、というのと同じなのかもしれないが・・・。
All Dogs Go to Heaven (邦題:天国から来たわんちゃん)は、1989年11月17日公開のフルアニメ映画。
元ディズニーのアニメーター、ドン・ブルースにより製作された。アニメ内の舞台は1939年のアメリカニューオリンズになっている。
この映画はイギリスの投資家Goldcrest Filmsにより資金提供を受けアイルランドのSullivan_Bluth_Studiosにより製作された。
公開日がディズニー映画『リトル・マーメイド』と競合したこともあり『アメリカ物語』や『リトルフット』などの前作に続く
大ヒットには至らなかったが、その後のVHSでの家庭用メディアの好調な売り上げにより劇場作品の続編とテレビシリーズのリリースが
行われている。
1939年のアメリカルイジアナ州ニューオリンズで雑種のシェパード犬チャーリーとブルドッグのカーフェイスは犬用カジノを
経営していた。しかし儲けの半分を分けることに嫌気のさしたカーフェイスはチャーリーとその相棒であるダックスフンドの
その後チャーリーとイッチーは脱獄に成功しカジノに舞い戻るが、カーフェイスに嵌められたと気付いていないチャーリーは
あるあるじゃんか。俺にもあるよそんなの。
自分の行いで恥ずかしい思いをした、ということを読者に伝えただけで充分じゃないだろうか。