はてなキーワード: ハンロンの剃刀とは
ハンロンの剃刀(ハンロンのかみそり、英: Hanlon's razor)とは、次の文で表現される考え方のことである。
Never attribute to malice that which is adequately explained by stupidity.
例えば、ある製品に欠陥が見つかった場合、(大抵の場合、一般論としては)それは製造した企業が無能であるか愚かである
ということを示しているのであって、消費者を困らせるために企業が悪意を持って欠陥を忍ばせたわけではない、という考え方を
示すのに用いられる。
上記の文言それ自体は、20世紀のペンシルベニア州に住むロバート・J・ハンロン (Robert J. Hanlon) という人の発言に
由来するもの、とその友人などによって主張されたが、こうした考え方や類似の警句は、それよりはるか以前から
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%89%83%E5%88%80
という主張を見かけた。
確かに人の名前を間違えるのは失礼なことだし、出版物だったら編集や校閲はきちんと仕事しろとクレームを言っていいことだと思う。
だが、人種的偏見に基づく嫌らがせと言いきってしまっていいのだろうか?
これが、「太郎」を「郎太」と間違えていたら、「ろうた」で変換されないし、嫌がらせの可能性も出てくる。
しかし「明秀(あきひで)」も「秀明(ひであき)」も日本人の名前として普通にある名前で、デフォルトで変換される。
ミスとしては十分ありうるだろう。
ハンロンの剃刀「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」と考えるのが妥当だと思う。
むしろ、単なる無能にまでヘイトのレッテルを張ってしまっては、ヘイトの重みが軽くなってしまう。
それは本当にヘイトで苦しんでいる人たちの問題の解決を遠ざけてしまうだろう。
もう一度言おう「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」。
ところで上のパラグラフの中に一か所、文字を入れ替えたところがあるけど気付いただろうか?
もし気づかなかったら、あなたも「ヘイトを行っている!」と糾弾されてしまうミスを犯してしまうかもしれない。
そんな世の中は嫌だ。
追記
今回の佐々木氏とか川上氏とかが言う「叩きすぎ」論に「馬鹿を擁護するのか」って言ってる奴らの大半は、その馬鹿者を更生させてよりよい社会にしていこうとかどうすればこういうことが起きなくなるのかってことはまったく考えてなくて、単に無条件に叩ける奴を複数人でボコボコにしたいだけ。
これはおそらく、すこしちがう。虚空に悪意を見過ぎてるだけだよ。
ある瓶(コミュニティ)の中に赤と青のゼリービーンズがはいってるとするでしょ。その瓶の中から、青のゼリービーンズをとりだしていく。そうすると赤のゼリービーンズの割合が高まっていくでしょ? どんどん青のゼリービーンズを取り出していけば、赤のゼリービーンズだけがはいってる瓶になるでしょ。彼らは、社会を「そういうもの」だと考えてる(=モデル化して理解している)んだよ。
このゼリービーンズ瓶のモデルは、本当にゼリービーンズの瓶なら正しい。それにコミュニティが十分に小さくて外部が存在すれば、モデル化としてもさほど間違ってる訳じゃない。コミュニティが二十人程度ならだいたい正しいし、想像通りに結果が出るんだ。村民二十四名の村からDQNを追放すれば村は平和になりますね、くらいの話で言えば結果平和になる可能性はかなり高い。
それに対して、そんなこと行ったって日本という国(巨大コミュニティ)はそういう風にはうごかねえでしょ、だってでかいし。取り除いたゼリービーンズだってその大きな瓶の中にはおかなきゃいけないんだし。っていう指摘は正しい。それが「その馬鹿者を更生させてよりよい社会にして」いかなきゃいけない理由だ。
でも大多数の一般人は、そんな大きなコミュニティを実感のあるモデルとして想像できないんだよ。自分のすでに持ってるコミュニティ理解を拡大したものとしてしか、把握できない。つまり、でかい村だ。そこからは青いゼリービーンズを取り除き続ける事ができる。青いゼリービーンズはどこへ行く? 村の外のどこかだよ。村民はそんな事考えない。
そこにあるのは「単に無条件に叩ける奴を複数人でボコボコにしたいだけ。」みたいな悪意ではなくて、どっちかっていうと巨大な社会を想像できないという能力の欠如なんだよ。
ハンロンの剃刀でこの件は終了できると思うよ。
私は「誰かを嫌いになること・嫌悪を表明すること」がどうしても好きになれない。
そして真っ向から矛盾するが、そういう嫌悪を臆せず表明する人が、どうしてもどうしても好きになれない。
この気持ちを持つ自分がやりきれなくて仕方がない。
どんな悪党だって心がある。過去がある。それを踏みにじって「アイツはダメだ、ヒトデナシだ」と蔑視する声に、どうにも情けない気持ちになってしまう。
話は変わるが先の参議院選挙の山本太郎氏。氏の当選をお祝いしたい。心から、お祝いしたい。
一人の人間の声が多くの人に支持され、国会にまで行ってしまったのだからこれは大変凄いことだと思う。
しかし非常に恐縮なのだが、私はどうしても彼のことが好きになれない。
ややもすると思いがけず憎んでしまいそうになる。
そして同時に、そう思ってしまう自分をこそ、何よりも憎く、情けなく思ってしまう。
私の立場から見ると、彼の言葉にずいぶんと多くの人が傷ついているように思う。
私は彼のことが好きになれないが、同時に、彼を大声を上げて非難することも決してできない。彼には彼の信念があり、それに救われる人もいると思っている。
傷ついている人と救われている人、
どちらがどれだけいるかなんてわからないし、好きや嫌いは立場の問題に過ぎないのかもしれない。自分も東北地方に住んでいなければ彼を熱狂的に支持していたかもわからない。
単純に、傷ついた人数や程度の多少で、どちらが正しい意見かなどと、天秤にかけることはできないだろう。
そもそも人間の行動なんて、どんなに気を遣ってもすべての人から肯定されることなんてありえないというのも理解している。
誰かが言っていた。
”世界中の2割の人はあなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。
6割は行動によって好き嫌いが分かれる。
世界はそういう比率でできてる”
そのことはわかっているつもりだった。
彼を好きになれない私自身の考えも、ネットで彼を非難する、どこまでホントか分からないツイートやブログの意見に感化されて生まれたに他ならない。
何かを信じることは何かを信じないことだし、何かを主張することは何かを否定することだ。
そもそも政治家は部分の代表にすぎないという考え方だってある。
(案外、若者の投票率が低いのは、この辺りに真意があるのではないかとさえ思っている。それほど選挙戦は見ていてやるせなく、情けなくなる。)
他者を否定する姿勢は氏に限らない。
「日本を取り戻す」というコピーを打った自民党にも、強い悲しみとやるせなさを感じる。「ワタシ」と「オマエ」を区別し「オマエ」を否定する姿は見ていて泣きそうになる。
他の党も同じだ。選挙だけでなく国会運営も、本当に国を運営する同士だと思っているのだろうかと疑ってしまう。情けない否定し合いに見えてしまう。
国の運営が目的ならその撮るべき手段は否定ではなく融和ではないか。
相手に協調することなんかしなくて構わない。しかし、相手を尊重することは何にもおいてすべきことなのではないか。
本当に世の中に「悪党」なんているのか?その決めつけは本当に人々を幸せにするのか?
私のこの考えはおそらく「何かを強く訴える人間がそんなバカなわけないだろう」という考えにもとづいている。
あなたの立場からは見えにくい&素直に受け入れがたいだろうが、考えに考え抜いた政策、発言なのは当然だろうと。
このある種ハンロンの剃刀のような議論の姿勢が、生産的な対立を生み出す唯一無二の条件なのではないか。
それでもどうしても、あなたが意見を否定せざるを得ないのであれば、
その時は悩みながら、自分を疑いながら否定するのが筋なのではないか。
自分はほんとうに正しいのか、相手だって馬鹿じゃない。悩みに悩んでこの決断を下したはずだ。
それを否定しようというのだから、本当にそれでいいのか、自分を疑いながら、相手の人格を尊重しながら
自分の考えを悩みに悩んで絞り出すのが筋だろう。
そして、たとえ相手を意見が食い違っていれも、それがそのまま存在の否定であってはいかんだろう。
私がなんと言おうと、氏の当選は大きな意味を持つ歴史的な当選だったのだと思う。心から祝福したい。
同時に、氏の不断の努力と、決して納得することのない自己を疑い続ける姿勢を願ってやまない。
お願いだから、今まで以上に「悩んで」くれ。
あなたが良い政治家足らんとすれば、救われる国民はもっともっと多くなる。
以上。
補記:私をやるせなくなるものとして、マスコミの方々とネットに書き込みをする方々の「まっすぐな」意見があるがこれを書くときりがないのでまた別の機会にでも。