私は「誰かを嫌いになること・嫌悪を表明すること」がどうしても好きになれない。
そして真っ向から矛盾するが、そういう嫌悪を臆せず表明する人が、どうしてもどうしても好きになれない。
この気持ちを持つ自分がやりきれなくて仕方がない。
どんな悪党だって心がある。過去がある。それを踏みにじって「アイツはダメだ、ヒトデナシだ」と蔑視する声に、どうにも情けない気持ちになってしまう。
話は変わるが先の参議院選挙の山本太郎氏。氏の当選をお祝いしたい。心から、お祝いしたい。
一人の人間の声が多くの人に支持され、国会にまで行ってしまったのだからこれは大変凄いことだと思う。
しかし非常に恐縮なのだが、私はどうしても彼のことが好きになれない。
ややもすると思いがけず憎んでしまいそうになる。
そして同時に、そう思ってしまう自分をこそ、何よりも憎く、情けなく思ってしまう。
私の立場から見ると、彼の言葉にずいぶんと多くの人が傷ついているように思う。
私は彼のことが好きになれないが、同時に、彼を大声を上げて非難することも決してできない。彼には彼の信念があり、それに救われる人もいると思っている。
傷ついている人と救われている人、
どちらがどれだけいるかなんてわからないし、好きや嫌いは立場の問題に過ぎないのかもしれない。自分も東北地方に住んでいなければ彼を熱狂的に支持していたかもわからない。
単純に、傷ついた人数や程度の多少で、どちらが正しい意見かなどと、天秤にかけることはできないだろう。
そもそも人間の行動なんて、どんなに気を遣ってもすべての人から肯定されることなんてありえないというのも理解している。
誰かが言っていた。
”世界中の2割の人はあなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。
6割は行動によって好き嫌いが分かれる。
世界はそういう比率でできてる”
そのことはわかっているつもりだった。
彼を好きになれない私自身の考えも、ネットで彼を非難する、どこまでホントか分からないツイートやブログの意見に感化されて生まれたに他ならない。
何かを信じることは何かを信じないことだし、何かを主張することは何かを否定することだ。
そもそも政治家は部分の代表にすぎないという考え方だってある。
(案外、若者の投票率が低いのは、この辺りに真意があるのではないかとさえ思っている。それほど選挙戦は見ていてやるせなく、情けなくなる。)
他者を否定する姿勢は氏に限らない。
「日本を取り戻す」というコピーを打った自民党にも、強い悲しみとやるせなさを感じる。「ワタシ」と「オマエ」を区別し「オマエ」を否定する姿は見ていて泣きそうになる。
他の党も同じだ。選挙だけでなく国会運営も、本当に国を運営する同士だと思っているのだろうかと疑ってしまう。情けない否定し合いに見えてしまう。
国の運営が目的ならその撮るべき手段は否定ではなく融和ではないか。
相手に協調することなんかしなくて構わない。しかし、相手を尊重することは何にもおいてすべきことなのではないか。
本当に世の中に「悪党」なんているのか?その決めつけは本当に人々を幸せにするのか?
私のこの考えはおそらく「何かを強く訴える人間がそんなバカなわけないだろう」という考えにもとづいている。
あなたの立場からは見えにくい&素直に受け入れがたいだろうが、考えに考え抜いた政策、発言なのは当然だろうと。
このある種ハンロンの剃刀のような議論の姿勢が、生産的な対立を生み出す唯一無二の条件なのではないか。
それでもどうしても、あなたが意見を否定せざるを得ないのであれば、
その時は悩みながら、自分を疑いながら否定するのが筋なのではないか。
自分はほんとうに正しいのか、相手だって馬鹿じゃない。悩みに悩んでこの決断を下したはずだ。
それを否定しようというのだから、本当にそれでいいのか、自分を疑いながら、相手の人格を尊重しながら
自分の考えを悩みに悩んで絞り出すのが筋だろう。
そして、たとえ相手を意見が食い違っていれも、それがそのまま存在の否定であってはいかんだろう。
私がなんと言おうと、氏の当選は大きな意味を持つ歴史的な当選だったのだと思う。心から祝福したい。
同時に、氏の不断の努力と、決して納得することのない自己を疑い続ける姿勢を願ってやまない。
お願いだから、今まで以上に「悩んで」くれ。
あなたが良い政治家足らんとすれば、救われる国民はもっともっと多くなる。
以上。
補記:私をやるせなくなるものとして、マスコミの方々とネットに書き込みをする方々の「まっすぐな」意見があるがこれを書くときりがないのでまた別の機会にでも。