両親と兄に愛されて育った。地方に持ち家を持った両親のもとに生まれて、父は会社員、母はパートというごく平凡な家庭。両親の仲がそれほど円満だったとは言わないけど、家族としては普通に仲が良く、毎年旅行にも行った。裕福ではなかったけれど、やりくり上手な母のもと、ほしいものは大抵手に入った。したいことは尊重してくれたし、習い事もさせてもらったし、わたしに理想を押し付けたりもしなかった。五つ上の兄はわたしをとても可愛がってくれ、地元の国立大に進んだ後地元の優良企業に就職して、よく東京に遊びにきてわたしに奢ってくれる。
それほどひどくない容姿を持って生まれたわたしは、地元で何不自由なくすくすくと育ち、友人とオタク的趣味を共有して、おしゃれを適度に楽しみ、恋愛を楽しみ、友人や教師にも恵まれ、勉強もそつなくこなし、都内の国立大学に進学して一人暮らしを始めた。そして今に至る。
自分でも何が欠けているのかわからない程度には幸福な人生を送ってきたけど、でももし今この記憶を持ったまま生まれる前に戻れたとして、生まれるか生まれないかを自分で決めることができたら、絶対に生まれない方を選ぶと思う。生まれてしまった今、楽しかったこともまぁあるし、幸せにはなりたい。けど、生まれてきてよかったな、と思うような決定的な出来事はこの20余年、一度もなかった。生まれてきてしまったからには幸せになりたいし、これから先も自ら死ぬことはないだろうけど、でも本当に、生まれたくなかったなぁと心底思う。ほとんど毎日、起きたら世界が終わってたらいいなって思うし、ふとしたときにこのまま消えたいなって思う。愛されて育ったのに自分が好きじゃないし、不幸じゃないのに毎日生きてることが苦しくて辛い。刺激がなくてつまらないとかではなく、ただただ生きてるのが苦しい。もう何年も、覚えてる限りだと中学生の頃からずーっとそんな感じ。
周りと話していても、こんな人間はほとんどいない。少なくともわたしの周りの人間は皆、人生の辛い部分と幸福な部分のどちらも心から楽しんでいるみたいだった。わたしはどこで間違ってしまったんだろう。最近はとくに本当に辛くて、心療内科を探しているところ。
恵まれた環境で育った人はポジティブで幸せな人間になるみたいな話を聞くたびにもやもやしてたから吐き出してみた。こういう人間もいるということで。親不孝でごめんなさい。できるだけ早くしねますように。
表現すんのは自由だから、自分が個人的に大好きな思想や政治活動の宣伝は税金使わずやってなってだけ
もし、私費でやって警察や政治家が出てきて取りやめさせようとしてきたなら、立場は違えど表現の自由の侵害として抗議するけども
じゃあ変えるべきところってどこ
しばき隊にも同じこと言ってな
「してやる」と「した」は圧倒的に違うし大抵の人は言うだけで実行まではしない。
表に出ないだけで言うだけの奴は結構いるし、そんな奴らに毎回怒ってたらそれこそキリがない
京アニ襲撃事件の犯人に対して、あんなにみんな怒り狂って許せない、という態度を示していたのに、
なぜ今回「ガソリン携行缶持ってくる」という脅迫の仕方をした人に対して、同じ批判が盛り上がらないのか。
同じことをしてやる、という脅しなのに、同じ熱量で許せない、となるのが筋じゃないのか?
脅迫されるような事をしているから仕方ない、という感情があるからだろうか。
表現の自由を守りたいなら、このような脅迫自体を許すべきではないと思う。
少なくとも、批判したいなら、人権侵害や物理的暴力以外の方法でなければ許されない。
ここが徹底されないと繰り返すだけじゃないのか。
他を批判する事に一生懸命なのもいいけど、これは京アニの時に辛かった人ほど考えないといけないし、