幸福量のコストパフォーマンスか、うまいこと言う
これはけっこう納得できるかな
人生で割に合わない・賢くない選択、みたいに言われてることは
TwitterとかのSNSをやっていて思うんだけれど、どうでもいいことを気ままに言える人が羨ましい。
何かに対する感想とか意味のある内容ならまだしも、主語や目的語を欠いた当人以外には解読不可能であろう発言とか、「眠い」とか「寒い」とか、
情報としての価値なんかほぼないような「あ~」とか「うーん」みたいなやつ。
私は発言に何かしら意味や価値がないとダメだ!って強迫観念的に思い込んでいて、
何か言いたいことがあったときにも、ちょっと気を利かせた(つもりの)修辞とか、ギャグっぽくオチをつけたりとか、とにかく何かしら付加価値を与えようとしてしまう。
たまに☆とかもらえたりすると嬉しい。でも、それをやってる私がネタ職人的に徹底されていて抜群に面白い、ってわけでもなくて、素人がウケようと背伸びしてる感じになってるな、という自覚もある。
それに誰からも反応もらえないと「なんでお前はこんなつまらないことを言ってしまったんだ、死ね、つまらないことを言うお前は死んでしまえ」という自己嫌悪に陥る。
だからといって、肩の力を抜いた発言をしてみると、今度は「意味のないことを言うべきではない」という強迫観念、「つまらないことを言ってしまった!」という罪悪感で心が折れそうになる。
そうやって、必死に「ちょっと面白いことをいう人」みたいな立ち位置を守ろうとしてる自分にたまに気づいて、虚しいなぁって思う。
周りを見ていると、そういう強迫観念とか自己嫌悪とか承認欲求みたいなものとは縁がなさそうな、
肩肘貼らない発言をする人のほうが人とうまくやれている気がする。
いいなーって思う。
お門違いの嫉妬なんだろうけれど、何の葛藤もなく天真爛漫に自分の思うことを発言できている人が羨ましいと思ってしまう。
きっと彼ら彼女らは、自己嫌悪も自己愛も自分の中で適切に処理されていて、自分の価値を肯定された生き方をしているから、
あと夫婦の選択はそれはそれでいいけど
まわりの人が勧めるのはそれが(幸福量的に)コスパ良かったからかと
他人の幸せを味わって自分の幸せにするってのはすごくコスパがいい
うまくいってすぐ効用曲線の壁にぶつかるし、時間というリソースの絶対的有限性も苦しい
とはいえ他人の幸せを自分の幸せと捉えるってのは簡単ではなくて、
それがわりと誰でも実現できるのが子供
ブコメもトラバも、子供がいて幸せなはずの人達が形相変えてフルボッコにしてるの見ると、子供の有無と幸せな生活は関係無さそう。
若さしか価値のない貴方がいずれ捨てられるのが目に浮かびます。
ババ専以外に歳取ったババアに投資する酔狂な男なんていませんからね。
そこで子供です。
デカケツが日本では陽の目を浴びてない。スターウォーズで言うならエピソード3が終わった直後くらい。
筋肉も厚みもないゴボウみたいなマッチ棒系女子がスタイル良いことになっているからだ。
俺の彼女が腕足は細いのにケツだけでかいのが嫌って言ってる。バカじゃねーのか。デカケツが嫌いな男なんてゲイだけだっつーの。
30日スクワット19日目
今日は180回。18×10セット。思いついたときに数セットずつやる感じ。 膝の違和感が怖くてしょうがない。マズいなぁ。
30日プランク19日目
今日も映画を見た。ウォーリアー・陽なたのアオシグレ・複製された男。
三者三様で全部面白かったけど、陽なたのアオシグレがダントツで好き。映像の鮮やかさと子供のピュアさがマッチして、完全にやられてしまった。 ちゃんとできるようになったらレンタルじゃなくて買おう。
どうも俺を男性として意識してる感じがする。思い込みなのかもしれないが。
同じコップを使うのを嫌がったり、相合傘さえ嫌がられる。それでいて、最近痩せて体格が良いとか。微妙に褒めてくる。
良い兄ちゃんとして、扱ってやりたいのだが、今まで通りだと嫌がらせそうだし
この辺りの扱いが非常に難しい。