はてなキーワード: 生存報告とは
「会ったこともないお方をどうして信じられるのか」「信じるとはどういう行為か」という記事を連続して書いてみたところ、多くの人から助言や批判を頂いて大変有り難く思っている。信仰のことについて考え続けると、しだいに筆が重くなってしまい、なかなか書けないかもしれない。けれどもある親切な方が私の要求を丁寧に汲みとっていただいて回答記事を書いてくださったので、これに応えたいと思う。
まず、上の2本の記事を読んでありがたかったのは、信じるという言葉を「信用」「信頼」「信仰」などの用語を用いて適切に整理してくださったことである。確かに考えてみれば現実の「信じる」行為はだいたい信用であって、キリスト教における「信じる」行為(=信仰)とは別物なのだ。今後は、信仰に絞って話を進めていきたい。
id:kash06 氏のおっしゃる通り、私が先の記事で本当に尋ねたかったのは、キリスト教徒それぞれの信仰にいたる過程であった。信仰とは究極的には神と一人の人間の関係なのであるから、そこで一般論よりもひとつひとつのケースをつぶさに見ていくことこそが大事なのではないかと考えていたからだ。ついでにいえば、なぜそれを教会で尋ねるのではなく、はてな匿名ダイアリーで訊いたのかといえば、神を信じる人の話だけではなく神を信じない人なりの理屈もまた併せて聞きたかったからという理由が半分である。もう半分はただの臆病からである。
私が最初に思ったのは「自分が罪深い考えを持っているのは、きっと本当だ」という出発点でした。そしてターニングポイントになったのは「自分はまだ神を信じる心境がわからないし、当然、そこに到っていないけれど、自分の罪を持ち続けるより預けられるというのなら、それをしてしまいたいなぁ」と考え、そこからある程度時間が経った頃にふと表明した事でした。
「信じている心境に到っている」かどうかより、「これからその方向で行きたい」という頭の方で考えた選択から始まったのだと思います。
id:kash06 氏が信仰にいたる過程の話から私が意外に思ったのは、信仰がゴールとしてではなく入り口として語られている点であった。よく考えて見ればそれは当たり前なのかもしれないけれども、とにかく私にとっての信仰とは神の僕としての完成を意味していた。その自分自身がむやみに高くしたハードルゆえに著しく困難な行為に見えたのだと思う。
ただ、では私が id:kash06 氏のような信仰にすぐに到れるのかといえば、それは難しいのかもしれない。まず私の中の何が罪であるのかが分かっていないからだ。私にとっては私の全てが罪のように思える。私から罪を分離して、神に預ける、つまりイエスをキリストとして信じて自らの罪が贖われ、私が救済される姿が到底想像できないという気持ちがする。もし神が光ならば、このように救済を想像できない今の私は暗闇の中にいるのだろうと思う。ちょうど夜の中に居すぎて、恐れと慄きのなかで自分自身の身体の境界が把握できなくなりはどこまでが自分かも分かっていない状態のようなものなのかもしれない。
つまり私に必要なのは罪を明晰に自覚するという、本当に初歩の段階から躓いているのだろうと思う。なぜそのような状態にあるのかといえば、答えはただひとつで、私がきちんと聖書に向き合えていないことなのだと思う。私は信仰を正しく考えるための言葉に出会えていないのだろうと思う。こうやって自分の言葉だけで信仰のことを考えるよりも、いまいちど聖書を読むことに向き合うべきだ。それこそ、聖書の中でこそイエスに出会えるのだから。
一体何を言いたいのか分からない記事を書いてしまったけれども、私のピントが外れた疑問に対して様々な言葉を投げかけてくれた人々に感謝したい。聖書を読んでまた疑問が湧いたらまた書き込むかもしれないけれども、とりあえずは増田に書くことをやめようと思う。
長文を書いて下さった id:kash06 さん、id:finalvent さん、どうもありがとうございました。
はあ。
今回の件では投稿の削除も行われたようです。
なので、私の「生存報告」を受けて「弁えるということ」(http://anond.hatelabo.jp/20140721234430)その他の記事が削除されていないことを確認していただければ、それで「弁えるということ」を書いた増田の「生存」が確認できると思いますが。
ちなみに、今回の削除の事例がはてなから報告された後に、Lhankor_Mhyさんのブコメ削除・謝罪に伴い若干の文章の追記等を行っているので、それによっても「生存」は確認できると思います。
「生存報告」を書いた増田が「弁えるということ」を書いた増田と同一人物であることの証明は、私にとって意味がありません(結論としてはもちろん同一人物なわけですが)。
大学生の間に私の表現能力は成長したのだろうか。 私は表現するのがとても下手だった。そしてどうにかできたらいいな、と思っていた。 最近、大戦略WEBというのをやっていた。 そして参加している鯖の中で、1位連合の連合長という立場でゲームをしていました。(私ごときが。) そのような中でいろいろと思うことがあったので、ハンゲームでブログをよく書いた。 内容はいろいろで、個人的にはそれなりの力を込めて文章を書いていた。 http://blog.hangame.co.jp/logout/list/ 私の長所と短所は、自覚しているところは自覚をしておりまして 表現は下手。それゆえに、匿名掲示板で誹謗中傷を受けたり。(何度目だっていうね) "数人の心ない人の存在にばかりダメージを受けていないで、物言わぬ支持者の存在を忘れずに感謝し、期待に応えていきたい。 私にも当然欠点はありますが、それ以上の美点を評価してくれる人もたくさんいます。ありがたいです。" (見かけたことのある表現だったりしますでしょうか) (意図が伝わるのであれば、と思いまして参考にしました。) そういうわけで、私と信頼関係のある連合員はきちんと存在したのです。(それだけ)(生存報告) さて現実の方ですが、まだ籍は学部にあります。 私が小学生の頃には私も表現の意味が分からなかったのですが、 卒業するためには、それなりの「環境」が必要だったのですよね。 私にはその環境を維持できるだけの環境がありませんでした。 私の環境というものは、愛のある家庭に生まれた人にとっては想像できないと思うし、想像する必要もないと思っていますし、 そんな社会の闇なんぞ、見えない世界で暮らしてほしいなと思います。 (ですのであまり表面化せずに、観測されにくい現実もあるように思います) 一方で、私と境遇が共通するような人も世の中にはいるはずで、 増田を書いてみた。 http://anond.hatelabo.jp/20140616194130 http://anond.hatelabo.jp/20140617174318 http://anond.hatelabo.jp/20140618130300 たぶん小学生の時と表現力変わらない気もするけど、進歩したかしら。 朝食を食べる子供は成績優秀? 正しくないです。 朝食を食べるような家庭は、良好な家庭の割合が多い、であり、朝食だけの要素を変化させるのは意味が違って、他の要素の方が莫大に大きい。 (子供時代が存在する人っていうのは物事をこのように感じる人であって、過去が存在しない状態っていうのは、朝食だけ与えればいいんだって思うような状態です) (私は、感じるものの存在を信じたい。そう言えるためだけに生きたい) 信頼してる相手とは話が通じて、信頼していない相手とは意思疎通できない。 ゲームに関して言えば、対潜相手の努力には感謝を感じるときは感じるものなのです。 しかし「ゲーム内で間違っている論理を認めないこと」を目的として「対潜相手に感謝しろ」という言葉だけで盾にしてしまうのは、純粋に残念な気持ちになります。 人間の能力を信じる難しさです。 人間の能力は信じていきていきたいし、人間の能力を信じていきてほしいと、願い続けることしか、私にはできない。
当然、夢のなかの彼女はあの時のままだ。
僕は、彼女を好きになった覚えはない。好きな人は、別にいた。結果付き合わなかったけど。
最近の学生はお盛んらしいが、僕の通う中学は大して恋愛なんてなかった。付き合うと、すぐバレるからだ。ムラ、ではないが、一地方都市の恋愛事情なんてそんなもんだ。
箸が転んでもおかしいと言うように、そんな恋愛なんぞしなくとも、みな和気藹々としていて、しかし恥ずかしいモノは恥ずかしいとして、楽しかった。
思うに、人間が恋愛するにしても、生涯の伴侶()を求めるにしても、結局はこういう青春時代の延長線上にあるのではないか。言ってしまえば、憧憬。
話がそれた。
そう、夢のなかに彼女が出てきたんだ。後輩の。
僕と彼女は吹奏楽部の同じ楽器、同じパートを担当する関係だった。椅子も隣だ。
顧問が合奏中に話を脱線する度に向きあってニヤ付く程度には、すぐに打ち明けていたし、その程度のユルさを持った部活だった。当然コンクールでは大した成績が出るわけでもなく(といっても僕が最終学年のときは創部以来二番目にいい成績を収めたので、個人的にはハッピーエンドだ。終わってから、みんな笑顔だった。笑い泣き。)一般的な吹奏楽のイメージ―――文化系のなかの体育会系で、毎日夜遅くまで楽器を吹き鳴らして近所からクレームがくる―――なんていうところとは、違っていた。強かったのは、合唱部の方だ。こちらは、全国常連。気合の入り方が違う。文化祭の合唱コンクールでは、ひとりふたり増えたところで大した違いが出るわけでもないのに、合唱部の人数の多さが勝敗を決める、なんて技術教諭の担任が喧伝したものだ(もちろんそんなので勝敗は決まらなかったわけだ)
また話がそれた。
そう、彼女とはそういう間柄だ。
そういう間柄でしかなく、高校は親が転勤族で、僕が引っ越した都合もあって、それ以来連絡をとっていない。もう、彼女が名前を思い出すことはないだろう。事実、僕も、今朝その夢を見て目が覚めた後、名前が思い出せず、お別れ会でもらった色紙の名前を見て、彼女をはっきりと思い出した。彼女には、先輩からのメッセージをと、後輩に一通ずつ渡した手紙がある。彼女はそれを大事にとってあるだろうか?憶測の域をでないが、彼女なら、とっていてくれるはずだ。ちなみに、僕が中学生の頃は携帯電話というイロモノは高価過ぎてまだ学生が持つには早かった時期だ。とはいえ、じゃあポケベルかというと、それは遅すぎる。過渡期だった。ゆえに、中学時代の同窓とは今もほとんど連絡手段がない。連絡網はまだ家にあるが、繋がる期待よりも、「オメー誰だよ」というような至極もっともな反応が帰って来るだろう期待のほうが高い。すべきではない。ラグビー部の男の子が何年ぶりに電話をかけてお付き合いが始まるなどというのは、幻想でしかないのだ。生存バイアスである。
せいぜい庶民に許された道は、母校の技術教諭と体育教諭が結婚してヒューヒュー言われる程度が関の山。あれから10年経つが、今も結婚生活は順風満帆なのだろうか。新婚さんいらっしゃいに出るからとか言ってたが、ついぞ見なかった。うそつきめ。
またも話がそれた。これは宿痾なので、許して欲しい。
そう、彼女とは連絡が取れないのだ。取りようもない。
しかし、そんな彼女と10年ぶりに再開した。夢の中で。意味が分からない。もとより意味などないのかもしれないが。
ちなみにこれだけの情報をありありと書いているとバレるかもしれないけど、バレても構わない。僕としては、彼女の名前が後輩といえど、10年経っていたにしても忘れていたということに軽くショックを受けており、彼女とのあれこれを書きだしておきたかったのだ。
夢の中身は、あまりに意味不明すぎて、書きだす気にもなれない。若干甘美なときもあった。しかしその甘美なとき、周囲は津波に飲み込まれたビルの屋上に位置するマクドナルドの禁煙席であり、周囲には避難してきた人でごった返しているのだから、わけがわからない。夢の中なれど、友人が何人も飲み込まれた。というか知り合いで助かったのは彼女だけだ。まったくもってわけがわからない。これを見せる僕の脳みそは何を欲しているのだろう。目覚めたとき、僕のペニスは固くなっていた。しかし、悦楽に浸るような気分にもなれず、固くなったまま引き出しを漁って彼女の記憶を取り戻し、今こうして文を書いている。もう萎れた。
ちなみに、この情報で僕が誰かというのを特定するには難しすぎると思いますが、もし誰かわかった場合、生存報告の一種として受け止めてくれれば幸いです。
3.11、僕は生き延びました。みなさんはどうですか。同窓会に誘われる手段も残していませんが、みなさんが生きているなら、十分な果報です。
ののしりあいというほどでもなく、意見の相違からちょっとした言い争いになった。
初めてなのでちょっと自分でびっくりするほどへこんでいる。
ネット歴はそれなり。
2000年から始めたから、ちょうど9年だ。最初はISDNだったのを覚えている。
HPも作ったしWeb日記も書いた。ブログも作ったしMixiのIDも持っている。
いままでうまく人間関係やってきたんじゃなくて、初めてネット上の誰かと交流したんだということに気付いた。
サイトには一応掲示板を付けたが、書き込みがあるのが苦痛だった。
「うわーい、コメントもらっちゃった★」ではなく、「げ、書かれちゃった。返事どうしよ」だった。
検索サイトには登録したが、ほかのサイトに書き込むこともなかった。
ブログだって書くだけで、ほかの人のブログにコメントもトラバもしなかった。
もちろん宣伝書き込みなんかしない。ごく少数の友人に生存報告としてアドレスを教えるだけ。
だからヒット数は伸びなかったし、コメントなんかつかなかった。
すごく気楽でよかったけど、知り合いに見つかってからは放置。
Mixiは一応どんなもんだか気になって、2ちゃんで招待してもらった。
足跡機能の気持ち悪さ、「××さんは×分前にログインしました」と表示される気持ち悪さ。
どーしてもなじめずに、友達の日記をたまにのぞくためだけにIDを残している。
あんまりいかないもんだから、MixiかMixyかスペルわかんなかったくらい。
Yahooアバターなんか使うわけない。ログイン中かどうかなんて告知したくない。
そもそもネットしてるかどうか知られたくて、メッセンジャーも入れてない。
会社で最低限必要なIPメッセンジャーも、表示名をわざとわかりにくくしている。
2ちゃんはたまに発言してたけど、コテハンなんか入れるわけもない。
なれ合いがすごく嫌いなんだ。若年層中心のネットに多い「読み逃げ禁止」文化がすごくいや。
挨拶しなきゃいけない、ほめなきゃいけない、感想言わなきゃいけないとかホント気持ち悪い。
ついったーの繋がりは非常に弱くて、フォローもリムーブも断りなしに勝手にやって、という空気がある。
それがよくて、結構ハマってる。
好き勝手につぶやいたり人のを読んだりしているうちにいつの間にかふぉろわーも50人を超えた。
何がよくて私をフォローしているのか分からない。
そのうちの数人と、コメントやり取りするような仲にいつの間にかなった。
そんで、独り言に突っ込まれて軽い言い争いになった。
ツイッターは誰かに発信しているのと、自分の独り言として呟いているのとの区別がすごく曖昧だ。
もちろんWebに公開している以上、すべてが情報発信であるべきだ。
でも、そんなわけにはいかないじゃないか。
ついったのTLにあるのはほとんど独り言だよ。
でもたいていの場合、独り言ってつっこみどこ多くて読んでて不愉快。
もう少しわきまえるべきだと思った。
なんか散漫な文章になったな。
ディスプレイの向こう側の人と交流している、というのをはじめて感じたんだという話。