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はてなキーワード: 合唱部とは

2024-04-17

カラオケ行こ

配信されてたので見た

とあるヤクザが組主催カラオケ大会で一番下手くそだと恥ずかしい刺青を掘られるので、なんとか一番下手にならないために合唱部中学生カラオケに誘って歌の指導してもらう話

コメディとしての面白さはもちろんあったし、コメディコメディなんですよって事なんだろうけど

指導してもらえるまでしつこく付きまとうヤクザ

指導してもらってもしつこく付きまとうヤクザ

カラオケ大会が終わってもカラオケ行こって誘うヤクザ

ヤクザ中学生の奇妙な友情みたいな絵もありほのぼのし雰囲気ではあるが、ヤクザに目を付けられたら一生逃げられないって裏のメッセージが読み取れて怖かった

舞台はもちろん大阪

大阪の人からしたら友達の友達っていったらヤクザの1人くらいいるのは当たり前なのだろうか

2024-01-19

anond:20240119153536

ブサイクが引きこもってるというより、ちょっとメイクしたらそこそこ見れるようになる女が多いんよ。

紅白中学生合唱部が大量に出てたけど、だいたいブスばっかだったじゃん。あれが高校になったらそこそこ垢抜けてくるんだよね。

ぶっちゃけ中学時代って女が一番ブサイク時代だと思う。校則高校より厳しいことが多いか髪型メイクカバーできないし。

2023-10-25

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

2023-05-21

YOASOBIの「アイドル」の良さがわからない老害

私は40代おっさんで、長いことDTMをやっていて、ボカロ初音ミク発売日に買って、オリジナル曲ニコ動で「殿堂入りしたことあるし(野尻抱介氏の「南極点ピアピア動画」でもタイトルをぼかして取り上げられた)、自主制作アルバムを作って即売会で売ったこともある。

さて、タイトルだ。

私も分からんのだ。分からんというかピンとこない。

でもめちゃくちゃバズってるのでモヤモヤするのだ。

日5chのDTM板のSynsisizer Vという合成音声のスレを見てたらこういう流れがあった。

Synthesizer V Part5

https://egg.5ch.net/test/read.cgi/dtm/1678885927/

625 05/17(水) 04:49:24.81

推しの子主題歌のYOASOBI『アイドル』のテトSVカバー100万再生超えてるんだが…

もしかしてSynthVの楽曲100万再生超えたの初めてじゃね?

https://youtu.be/qObmE2YRA7s

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634 05/18(木) 15:29:34.31

1億再生っていうから聴いてみたけどここのと同じようなゴミゴミ歌だった

なんであんなのがウケてんの?

今のJ-POPって低質すぎだろ

音楽的じゃなくゲームのやつみたい

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636 05/18(木) 15:32:33.79

>>634

じいちゃんあんたの時代は遠に終わっとる

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637 05/18(木) 15:39:54.92

>>634

悲しいけどこういう感覚になったら音楽なんてやめた方がいいんだろうな

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639 05/18(木) 15:56:29.05

>>634

反面教師

こうなったら音楽人生本格的に終わりやね

5chの専門板なんて私含めて全員老害だと思うんだけど老害老害老害だと罵倒する非常によく見る光景・・・それはおいておいて、私はこの634ではないしゴミ曲とまでは思わないが、なんでウケてるのかは本当にわからない。

からいか理由しりたい。

その後こういうレスがあった。

656 05/20(土) 11:01:10.86

オリコンストリーミングランキングでは先日既に1億回を超えていたYOASOBI「アイドル」がYouTubeでも1億再生を超えた

この曲のどこがいいかからない、なぜこれほどまでにウケているのか理解出来ないと言ってる人がいたけど

自分が見た範囲ではこの曲のヒットを裏付けるように作曲家ライターはこの楽曲の作りに驚嘆してるよ

そのうちの一つを紹介

https://popnroll.tv/articles/32989



上記リンク記事より抜粋

これほどまでに世界中で恐ろしいほど聴かれている「アイドル」の何がすごいのか。このコラムをずっと読んでいただいている熱心な読者様ならおわかりだろう。“イントロと間奏らしいものがない”、“中低音ブラス”、“語尾をキュッと締める歌唱”……といった、“ポピュラーミュージック世界トレンド”や“K-POPの魅力”として取り上げてきたものが数多く入っているのである。いわば、ポピュラーミュージックダンスミュージックアイドルポップス、アニソン……、J-POPセオリー海外ポップトレンド要素がすべて詰まっているという、掘れば掘るほどよくできている怪曲なのだ

BLACKPINK的なアラビアン雰囲気メロディと、『カルミナ・ブラーナ』的な、いや、Linked Horizon的と言った方がわかりやすいか。迫り来るのはアラビックスケール使用した不穏かつ荘厳な合唱パートリズムと音が緻密に練られたAメロからの、REAL AKIBA BOYZによるPPPHを入れたBメロからの転調サビ。ダブステップ的なダウナーラップパート。落ちサビを挟んで、半音下げに転調するという暴挙。と思えばそこから一気に1音上がってラスト昇天。ようやく現れた後奏はそのままハッピーにと思ったら、冒頭の不穏な合唱パートクロスしていくという最後まで息つく暇ない展開。これだけの情報量があるのに3分ジャストというコンパクトにまとめた恐ろしい手腕。最初はあまりの性急な展開についていけず、ついついリピートしてしまうのも現代トレンドだ。

世界流行に乗った構成歌唱

・不穏かつ荘厳な合唱パートを最新の手法アニソンに取り入れるセンス

暴挙に近い転調を繰り返す

この辺がポイントらしい。

なるほどな。

合唱部分(後述)含めてアレンジメロディが斬新か、と言われるそうでもないように思うのだけど

「繰り返される転調」

どうもここがキモじゃないかと思うのだ。

米津玄師の「KICK BACK」でも突然3度上に転調したり戻ったりを繰り返すんだけど、若い人がそういう転調の箇所ですげーみたいな反応する動画結構たことあるし、効果は抜群ぽい。

この転調の多様、2010年以降のボカロP中心に流行りだした手法なんだよな。

ふつう転調はきっかけを綿密に作るんだよ。

AからBに転調するときは両方の調に共通するコードを挟み込んだりII-Vという安定したコード進行の「型」を使って転調したりする。ガチガチお約束を駆使して繰り出すのが「あるべき転調」だった。

でもそういうお約束を一切しない転調を突然繰り出して、しかも何度も繰り返すのが最近流行り。

この脈絡ない転調は実は小室哲哉がヒット連発してたころにもやっていて、作りためたストックコピペでつぎはぎしただけ、みたいな言い方されてたこともあり、音楽をやってる人からはウケがとても悪かった。特にテクニック知識がいらない手法なのでプロっぽくなかったのだ。

でも実はそれこそ、プロ敬遠するからこそ新しいサウンドだった。

2010年以降のボカロムーブメント若いアマチュアクリエイターが牽引したこともありその新しいサウンドに気づいためざとい若手がこぞって使い始め爆発的に流行る。

それがYOASOBI「アイドル」でも多用されている。

他の要素、例えば不穏なコーラスだってアニソンレジェンドの「残酷な天使のテーゼ」でもやってたし斬新かと言われると?だ。斬新であるとするとこの転調手法しかないと思う。

ちなみに「残酷な天使のテーゼ」のこのコーラスアニメ中の「使徒が敵」ということからグレゴリオ聖歌風というか、宗教風のモチーフを借用してきたんだと思う。この曲はどうもあんまりアニメの内容しらされない中作ったぽいので数少ない与えられたモチーフだったんだろう。

一方、「アイドル」のほうは、この不穏のコーラス作品脈絡がなくちぐはぐに感じる。

この曲は【推しの子】という作品を深く理解して合致した内容がウケてる理由でもあり、歌詞原作を読み込んだ上で作り込んだと思わせるものなんだけど、このコーラス作品とさほど脈絡がない。

サスペンス展開の不穏さあるし、一応曲中でこのコーラスの声でヲタ芸っぽい合いの手を打ち出す箇所もあるので繋がりは出来てはいるけど、この合唱コーラス必要性はあまり感じない。あきらかに浮いている。

じゃあなぜこんなコーラスを?と思うんだけど、Ayaseは今回どうも本当に狙ってアニソントップを取りに来てる野心があるっぽいのだ。

からこそトップ・オブ・ジ・アニソンの「残酷な天使のテーゼ」をモチーフにして、あえて取り込んだんじゃないかと思われる。

ここまで自分流にアナライズしてようやく腑に落ちた。

まあ今更そんな転調なんて当たり前ですよ、と言われるんだろうけど。

そういう老害おっさんが見逃してる、ちょっとした「新しいこと」の膨大な積み重ねが「斬新さ」を生み出しているんだ。

他に私が気づいていなさそうなこの曲の新しさを指摘してもらえればありがたいです。

2023-04-13

努力必要なのか?

深夜テンションで、ふと思い出したことがある。

中学校合唱コンクール練習で、私の前で歌っていた合唱部の子に一部分、音が外れてるから直せと何回も注意をされたことがあった。最初は直そうとしてみたのだけど何回やっても上手くいかず、たしか最後は声を小さくするか、口パクで歌っていたと思う。

その時に、音楽先生に、注意されている事を話したら、CDを貸すから家で練習をしてこいと言われた。でも、その時に私は正直、学校合唱コンクールでなぜわざわざ家にまで持ち帰って練習しなくてはならないのかと思った。もちろん、音楽先生練習してこいしか言うことはないだろうなと今なら分かる。

他にも、中学生の体育のリレー授業で、私の足の遅さが原因でペア陸上部の子を怒らせてしまたことがある。

の子別に怒っていた自覚も無いのだろう。ただ3年生の時期だったか内申点に響くのが不安ヒステリックに私にあたったのだと思う。中学生から仕方ないと今は思う。

の子は仲間の陸上部友達と3人で、リレーが終わる度、集まって、なんであの子ペアなの?なんで出来ないの?とか、私のことをこそこそ陰口を言っていた。プリントにはタイムを記入しなくてはいけないけれどタイムも見せてもらえなかった。3対1の圧で、当時の私は怖さと劣等感と恥ずかしさで、授業終わりまで涙を堪えることができず、リレーが終わり次第、授業終わりののチャイムが鳴るのを待たずに、体調が悪いと言って保健室に行き、泣いた。保険室の方が同級生に見られない、次の授業に遅れても大目に見てもらえると思ったからだ。

保険室の先生は優しかったけれど、そんなに泣くなら足を速くする努力をしたら?と言われた。でも、やっぱり私は、なんでそんなことに時間を使わないといけないんだろうと思った。相手が劣っていたらぞんざいな扱いをしていいのだろうか。

ここまでの話だと私は全く努力しない人間に見えるだろう。いや、実際私の努力なんて他の人から見たらゴミみたいなもの可能だって大いにある。

こんな私でも運動が苦手なのに、結構ガチ運動部で毎日練習していたし、毎朝走る練習をしていた時もあった。水泳も泳げなくて授業で晒し者にされて、自分プール練習しに行った。(下手くそすぎて友人や知らないおじさんに馬鹿にされまくったけど)

進学後は絵が上手くなりたくて苦手なデッサン勉強し、毎日授業後も残って描いていた。

苦手な接客がうまくなろうと、人と関わるバイトをしたり、発表のときに大きい声が出せるようにとカラオケ練習したり。

他の人の努力に比べたら些細なものだけど。(複雑で文章に出来なかったけどもちろんチームワークのために努力したこともあったよ。寧ろ、お節介から、そっちの方が多いよ…)

何が言いたいのかというと、努力できることは人によって違うということだ。

私も、一応、苦手なものに立ち向かう意識はある。けれども、あまりにも苦手なことが多い人や、過去トラウマで頑張る気持ちが潰されている人は、努力できない分類のものもあるのだと思う。

もちろん、なにもかも頑張ることができたらそれはそれでいいし、運動勉強リーダーシップもなんでもできる子はたくさんいた。その子達は努力していた。でもみんながみんなそうではない。一位がいたら最下位がいる。

社会に出たら、運動神経なんか必要なかった。なんでもできる子だけが輝いているわけじゃなかった。

今でも怒られたあの時私は、走るのを早くする練習をしなくてはならなかったのか?と考える。自分が選んだ道なら、ある程度のレベルまで引き上げる努力必要なのかもしれないけれど、選んでもいない体育の授業、ましてや昔からからかわれて嫌な思い出しかない体育で、そこまで頑張ることはできないなと。私に強くあたったその子美術の授業で足を引っ張っていたとしても(そんなグループワークはほぼないけれど)その子改善する努力をするのだろうか。

結局は分からないけれど、

ただ私は逆上がりができない子がいても、絵が上手く描けない子がいても、勉強ができない子がいても、それを馬鹿にして揶揄う、ぞんざいに扱うような人が一番良くないと思っている。

自分努力していたら尚更それが大事なのではないか

できないことがあっても、無駄劣等感を感じず、前向きに取り組める教育になっているといいなと思う。

追記

こんなに反応を頂けると思っていませんでした。なのでタイトルが大雑把ですいません。皆さんの意見、興味深いです。

体育は苦手でしたが、スポーツは好きで楽しめました。苦手なくせに、なぜか好奇心部活をしていたか運動の楽しさを味わえたけれど、していなかったら味わえなくてもっと体育が嫌いだったのかなぁ。

最近の体育はタブレット動画を撮って教え合うって聞いたことがあります。できないを揶揄するのではなく、できるように互いに教え合うって、最近の子は出来ないことがあっても対等の関係性を築けるのか。すごいなぁ、大人だなぁと。

タイトルは、努力必要か?にしてしまいましたが、人に合わせて無闇矢鱈に努力することは必要か?できないからといってぞんざいに人を扱うことは仕方がないのか?ということが言いたかったのだと思います結論を出すというよりは考えたくて、書いていました。

出来ないことがあるからってぞんざいに扱ってはいけないとか言ったけれど、私自身、相手に、なんでこんなことが出来ないんだろう?なぜ努力しないんだろう?と思い、腹を立ててしまうこともあります。でも、その人にとってそれは努力するべきことじゃないのかもしれない。実はそれでも努力しているのかもしれない。努力できる環境や、状態じゃないのかもしれない。自分価値観で人の努力を測ってはいけないなと思ってはいます

それでも、授業だと評価基準努力点を入れるから何を見て評価すべきか難しいし、社会だと、もうちょっとなんとかならない?って人もいるし、努力してない人の支援気持ちが進まないところも正直あるし…(でもそーいう支援はとても大事だとは思っている)なかなかハッキリと線引きはできず…

不安を煽られ、努力するのではなく、ポジティブ自分理想のために努力できたら1番だなぁということをよく考えていたのでこんな古い昔の話を書きました。

あと、話は少し逸れますが、コメント欄にもあったように、私も努力のことについて考える時に障がいを持つ方を思い出すことがあります

障がい支援にほんの少し携わったことがあるのですが、本当にその多用さに考えさせられました。良い場所だとそれぞれにあった支援をしていて、努力するための支えがしっかりしていて、そのような環境は、もっと他の場所でも成されるといいと思っています

身内に障がいがある人がいたのですが、環境次第で大きく良くも悪くも変わったことがあったので…

長々とすいません。

2023-03-14

漠然とした。多分私の人生の話。

急に昔の話をしたくなったので衝動ではてぶに登録した。

多分春だからだと思う。これは花粉症の症状の一つ。

そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。

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漠然とした。多分私の人生の話。

5歳の頃、家族旅行アメリカへ行った。国外旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験

私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。

幼稚園キリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。

先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たち理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。

でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。

先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。

前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意正義真実とが生じるのです」

小学校の頃は全く覚えてない。

中学時代勉強はできるような、できないような子供だった。

英語音楽国語だけできた。でも国語担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。

英語は楽しかった。小さい頃漠然定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。

音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノソロパート担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽先生卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。

お嬢さん音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。

周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメ情報を共有してみたかった。

ある日、一緒にピアノを習っていた友人から楽譜を借りた。

彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。

家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。

正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜没収された。

ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。

少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。

私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日友達とお出かけをしたい。バレンタイン友達チョコレートの交換をしたい。

ことごとく跳ね除けられた。

おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校お菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノ練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ。

そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。

ちなみに上記言葉を言われた後で私は一度だけ地域お祭りに友人と行ったことがある。

一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノ練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。

…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。

高校私立女子校入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。

周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。

街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。

ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけがいである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。

その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである

英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。

音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノ先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノ技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。

必死勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったか絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望希望通りの学科

高校生の頃(というか小学校中学から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。

何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。

大学は色々な地域から色んな人たちが入学していた。

同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。

でもこれだけは断言したいが「明日屋根心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。

大学講義は遅くて6時に終わっていた。母は言った。

「7時半には返って来れるでしょ」

まり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。

あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。

遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。

少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールたかったのだ。

大学2年生の時、母に内緒彼氏を作った。

その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。

あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。

私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。

その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。

少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。

当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。

さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。

母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。

そしてその友人は彼氏になった。

から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。

しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。

きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白同意した。

まりにも、身勝手


彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。

その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。

私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。

彼の名前学歴を言わされた。ひどく侮辱された。

母は私から家の鍵と財布の金、銀行カード没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行カード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)

母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。

彼は「気にしてないよ」と言った。

私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。

彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。

その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。

「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識傲慢だった。

「救いたい」と言った彼は、きっと人間人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者立場人間他人を救えるのなら、今頃イエスキリスト聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典聖典も要らない。でも世界にはそういうもの存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。

私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。

彼氏母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。

「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」

…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉一種ネタとして消費されたらしい。

私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。

追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。

結局、私は彼と別れた。

彼は普通の家で育った普通人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまたことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。

それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。

どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。

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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。

感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。

指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。

ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)

家族はまるでお手本のような否定言葉をぶつけてきた。

仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証現金没収した。よって私は途中で治療が止まっている。


正直、大学3年4年をどう過ごしたか記憶がない。

ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲーム自分スマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)





うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。

衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)

さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。

翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。

「関節炎の湿布


この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。

手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。

そもそもコンビニアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。

それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。

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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。

出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たち電車で行ったと思っているが。

私は彼が運転する車に乗って遠出した。





帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。

私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。

その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。

まだ私が早朝6時のバイトシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。

ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。

そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。

変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。

「よく、怪我しませんでしたね。危ないでしょう、色々と」





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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。

家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。


幸せになりたいな、と思う。

でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい

そもそもはいまだに感情の生成についての問題解決していない。

たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。

でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分自分母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分未来だと思う。

それはそれとして、もし誰かが私の幸運をほんの少しでも願ってくれているのなら、多分、私はまだ幸せだ。

2023-03-09

anond:20230307151009

はしっこアンサンブル工業高校合唱部の話で

ぼっちざろっくやBlueGiantが当たってる今、是非アニメ化頑張って欲しいけど

これは本当に声優に力が無いと成立しないアニメ

昭和元禄落語心中アニメ化並に難易度が高い

連載おわっちゃっただけに本当もう難しいだろうなあ

2022-07-22

ミックスボイスには体の成熟必要なのではないかという話

20半ばの男性ですが、3か月前ぐらい前に行ったカラオケで今まで全然高い声が出なかったのにいきなり出るようになった。

学生時代はいくら練習しても出なかったのに、社会人になって行った久しぶりのカラオケで高い声が出た。偶然かと思ってそのあとひとりでカラオケ行っても普通に出た。

その経験から、「結局高い声なんて体の成熟問題なんじゃないか」という話をつらつらと書く。過去自分と同じように悩んでいる人に対しての「あまり深刻に考えんでもいいんじゃないかな」という提案でもある。

ミックスボイスとは

調べればいろんな定義が出てくるけど、ここでは「高い声で地声に聞こえる声」とする。

今のJPOPだとどんな男性歌手も使っているんじゃないかな。

半年前まではどんなことしてたのか。

中3ぐらいかミックスボイスという存在は知ってて、暇があったら実家で歌っていた。

高校は3年間合唱軽音みたいな部活動はなく、歌が歌えるのが合唱部だけだったから。

大学軽音バンドボーカル半年くらいやって喉がいかれて、回復後1年くらいボーカルスクール通った。

呼吸法とか喉の筋肉名称や動き、様々な練習方法などの知識はついたが、いかんせんミックスボイスは出なかった。出る気もしないほど。高い音域の声はだいたいなさけない裏声になってしまう。

ここらで感じた「ミックスボイスには才能が必要で、それが自分にはない」という絶望感のおかげでこのあと練習モチベーションは下がっていく。

大学3年から留学就活もろもろで、そもそも歌が練習できず。社会人になったらコロナで歌う機会はゼロになった。

・3か月前、なぜミックスボイスが出たのか。

まん延防止等重点措置が解除されるやいなや、会社を中心に周りでびっくりするほど飲み会が増え、参加することも多くなった。僕以外にも覚えのある人は多いんじゃないだろうか。

会社比較若い人ばかりで行く飲み会があり、3次会でカラオケに行くことになった。

同期の男がメジャーの心絵という曲を入れて、みんなでマイクを回しながら歌っていてた。「なみだー」で高いドとかド♯くらいが出るところがあるのだが、そこで自分に回ってきたときスカーンと高い声が、地声みたいに大きい響きで出た。

いろんなウェブサイトで乗っていた「声が頭の上から抜けていく感覚」とか軽音ときうまい先輩がいっていた「後頭部からひねり出ていく感じ」という感覚体感できた。

周りもおぉーとか言っていたのだけど、自分が一番驚いていた。ただ思い込みや偶然の可能性もあるから、1週間後にヒトカラに行った。

このとき女性ボーカルの歌(主にスキャンダルの曲)ばかり入れた。レコーダーも久々に持って行って録音し、帰って聞いた。

安定して高音が出せていることが確認できた。と同時に「え?なんで3次会のカラオケなんかであこがれ続けたミックスボイスのきっかけつかんでんの?」という疑問とも苛立ちともとれない感想が出てきたのだけど。

・なぜ体の成熟ミックスボイスに必要なんじゃないかと考えているのか。

そのあと、中学友達高校合唱部の男友達カラオケに行く機会があった。ここで皆こぞって(俺と同じように)高音が出るようになっていたってことだけが理由

みんな昔はキーが高くて歌えなかったバックナンバーやらユニゾンやらウーバーやら平気で歌ってるし、サウシードッグとか優里とかの最新の高音曲Adoとかの女性ボーカルの歌も原キーで歌っていた。

同級生が久々のカラオケでみんなミックスボイス出るようになっているなんて偶然あるか?と思ったときに、体の問題なんじゃないかと思った。

中学高校大学ときでさえも、体やその使い方が未成熟なために、高い声は出なかったのではないだろうか。

それ以外に学生時代同級生と、声や音楽に関する共通点は見つからない。

よくスポーツだと筋力やパフォーマンスピークは20代半ばから後半とかいう話もある。学生時代うまい先輩は思い返してみると背も高いし、体が成熟しきっていたんじゃないだろうか。

他には、「しばらく歌声を出さずにいて悪い癖が取れたおかげで、高い声が出た」という可能性もあるが、歌をそこそこ練習していた俺はまだしも、同級生みんなが声の悪い癖が

ついていたとは考えにくい。

ということで、自分なりの結論で、ミックスボイスに不可欠な要素は体の成熟なんじゃないかと思った次第。

最後

ここまでの駄文は正直、どれだけ努力しても結果が出ずに悩んでいた過去自分への慰みである

と同時に、冒頭書いたように自分と同じような苦悩をいただいている人が何かのきっかけで見てくれて、声で悩まずにすめばよいなという思いもある。

歌手を目指すとかそういう気はもう起きないけど、長年の悩み・コンプレックス自分なりの答えが与えられて、それなりに満足しています

2022-06-30

吹奏楽部系しっかり者自認長女と相性が合わない

クラスに一人はいたじゃん、吹奏楽部(か合唱部オーケストラ部かまあなんかみんなでやる系の音楽部活)で長女ではきはきもの喋って行事にも真面目にも取り組む女の子

自分がしっかり者だって自覚あるからクラスもめごとの大半に首突っ込んでくる感じの

責任感が強いあまり感情が先走って怒ったり笑ったり泣いたり人一倍忙しい感じの

教師大人から評価はもちろんたいていのクラスメイトとも上手くやってる感じの

そりゃまあ一部の女にうざがられてたりはするんだろうけど全体でみればそこそこ人望がある感じの

そういう女がさあ、そのまま社会に出るとマジで手に負えないんだわ

「私がいないと会社は回らない」くらいの勘違い新人の頃から平気でしてるし自分空気読めてないことも気付けてない

もちろん他よりはるか気遣いできるタイプなのは間違いないんだけど、とにかく高すぎる意識に本人の能力と周囲の期待がかみ合ってなくて社内の士気が本人以外落ちまくる

こういうタイプには何て言えばいいのか教えてほしい

2022-06-06

日本吹奏楽競技人口(あえてこう書くが)は大きく演奏水準も高い。

日本吹奏楽人口は、500万人ともいわれますプロオーケストラ管楽器奏者にも、吹奏楽出身者がずらり。当然、全日本吹奏楽コンの出場経験を持つ人も多くいます


あの聖地雲の上の存在」 日本有数オケ奏者語る吹奏楽  朝日新聞

https://www.asahi.com/articles/ASM841SQ5M49ULPI008.html

朝日新聞社は吹奏楽コンクールの主催である。ちなみにこれは2019年記事であるから、昨今の事情を考えれば幾分人口は減少しているだろう。

人口の多さは大事だ。

豊かな音楽社会を支えるのは演奏家だけではない。楽器を修理するリペアマンや、楽器店の店頭に立つ販売員なども、音楽が好きでなくては続かない仕事だろう。作曲家吹奏楽ルーツに持つ人は(プロフィールに書かない人も含めて)意外にも多い。

とにもかくにも、日本音楽社会を広く支える人間を育成しているのは全国の吹奏楽であることは間違いない。無論合唱部軽音楽部なども音楽シーンを支える担い手であることは言うまでもない。


2021-07-27

anond:20210727095856

ロッキンジャパン中止って散々話題になったと思ってたけど。

他にも夏祭り系は多くが中止に追い込まれている。

学生吹奏楽部合唱部活動縮小や大会中止などで大ダメージ受けているしな。

甲子園も無観客開催。

2021-07-01

anond:20210701183639

そこまでプロみたいなのは想定してない。中学の頃の合唱部のやつらが野太くて声がでかいだけだったなって思い出だけで書いてる。

2021-06-22

NieR:Automata 2周目(Bルート

https://anond.hatelabo.jp/20210622175415

NieR:Automata 2周目(Bルート

2周目(Bルート?)終わった。いややっぱ最後さあ!???????いやまずはシステムから行こう。2週目は基本的ストーリーは変わらないが9S視点で進むので1週目とは少し違った目線で楽しめる。ここでこうなっていたのか!と2B視点ではわからなかったことがわかるのは楽しい

一番違うのが戦闘システム9S2Bとは違って戦闘型ではないので基本的に「ハッキング」を使う。これは簡単にいうと相手思考が読めるようになるので、2周目ではヨルハ部隊の敵である機械生命体の考えやストーリーフォーカスされる。序盤の遊園地での歌姫は、好きな人に振り向いてほしいがゆえに美しさを追求し続けた成れの果てであるというストーリー。ありきたりっちゃありきたりだけどこういう純粋な望みが報われない、というのに俺は弱い。普通に泣きそうになっちゃった人類の敵が異星人でありその尖兵であるアンドロイド機械生命体はある意味鏡写しでどちらも使われる存在なんだよね。2周目ではサブクエストをかなり埋めたけど出会機械生命体はどれも最後に多くのアンドロイドを殺した罪の意識機械生命体というものの虚しさに絶望して自らの命を断っていった。2B9Sはそうした機械生命体に自分たちの将来を重ねたんじゃないかな。

ストーリー的には特に分岐とかはなく普通に1周目で描かれていない視点が補完されているだけだったな。同じボスと戦うときに「ハッキング」のおかげでかなり時間と手間が短縮されているのはありがたかった。ただ、結局森の国編では何がやりたいのかわからなかった。明らかに今回のアダムイヴ関係の話からは外れているし、A2に関しても少ししか掘り下げられなかった。

9S視点ストーリー的に重要なのは人類がもう存在しないという事実が判明したこと。じゃあもうアダムイヴぶっ殺してパスカルを筆頭とする機械生命体とアンドロイドが仲良く過ごせばええやん…とか思ったけどどうもそう簡単には行かない様子。

で、最後。やっぱりまじで2B最後あそこまで取り乱す理由がわからなかったし、9Sへの2B介錯が相変わらずキモすぎた。普通機械とかの破壊ってなんかコア的なものがあってそれを勢い良く粉砕する、とかが定番じゃん。実際機械生命体の多くは爆破によって破壊するし。ただ例外があって人型の機械生命体のアダムイヴは腹や顔に刀を突き刺して殺していた。それはまあ…最後爆発してるからよしとするんだけど。問題9Sの殺し方ですよ。みた???首締めだってアンドロイドの殺し方、首締めだって。そりゃないでしょ。しかも1周目に書いた通り完全にヤッてんのよ。騎乗位で首締めで殺すわけ。本当に気持ち悪いと思った。アンドロイド首締めで殺さないだろ。もう殺し方が完全にセックスから来てんだよね。セックスありきの殺害方法でほんとにスクエニのちんぽ汁ダラダラデザイナーがまじでキモいと思った。しかもその後秒で9S生きてるのわかるのな。なに!?!?!?!?!?なぜ!?!?!?おまえ(2B)が流した涙もわからんし、あんだけ泣かれておいてしれっと生き返る9Sわからん。もう俺以外のすべての登場人物が急にサイコパスに思えてきちゃった。俺だけ合唱部に紛れ込んじゃったみたいな(全然思考体系が違って分かり合えないから怖い、みたいなことを言いたい)。

で、エンドロール9Sからなにかもらって2Bの自室に戻るところで終わるんだけど、ここはまじでヒヤヒヤした。敵の脅威が消えた今、2Bのような戦闘アンドロイド必要いから薬的なもの飲んで自殺するのかと思った。だってほら、機械生命体たちが自害してたからさ。で、そわそわしながら画面見てたら急にエヴァみたいな画面がとともに「予告」の二文字。急に次回作みたいなムービー始まっちゃった。なに?????もうだめだ。スクエニサイコパスなっちゃった。のっぺらぼうから逃げてきたら目の前にいるやつものっぺらぼう。2B9Sサイコパスから逃げてきたらスクエニサイコパス

いや2作目って普通1作目が好評でつくるもんじゃん。2作目ありきの1作目ってなに????1周目終わった時点でめちゃくちゃ消化不良だったから、「このゲームは周回前提です」みたいなこと聞いたとき安心したのよ。ああちゃんとやりきれば全部分かるのか。納得させてくれるのか。と。大野智主演のドラマ「魔王」最終回で続きはDVD!!!みたいなことやったんだけど十数年越しにその気持ち思い出した。続き確定してんならハリーポッターみたいにNieR:Automata(上)とか書いとけ!!!!!!

・・・いや違うみたいじゃん。ちゃんとNieR:Automataに全部入ってるみたいじゃん。まだまだルートあるんだね?今ちょろって調べたときにいくつも何ルートみたいな記載見えたから信用していいんだよね???

よし、3周目 いきます。(ここまでプレイ時間33時間

2021-05-31

anond:20210531110017

まあこれだよね。思春期身体の成長とスポーツって題材で、女キャラクターなら「身長が伸びなくなった」「生理がきて身体が変わる」は共感度高い。

これの男Verだと合唱部声変わりとかありそうだけど、あんまり少年漫画テーマで見ないのはなんでだろ。(少女漫画BL分野でギムナジウムモノでは見る)

成人してからも定期的にある生理とちがって、声変わり一時的から

2021-04-02

ひんやり冷たくてほよほよでたゆんたゆんのおっぱいの話

成人式で、乳を揉ませてくれた同級生地元に戻ってくるらしい。

トイレで書いてたら興奮のあまり長くなりすぎた。全部読んでも大したことは書いてない、すまない。

彼女同級生の中でも結構金持ちの家の子で、長い髪をお嬢様むすび?(アイマス橘ありすみたいな髪型)にして、授業中はメガネをかけていた。学区は近かったけど俺は野球をやってた上に、彼女はたいていデカ外車に乗ったお母さんが送り迎えをしていたからあまり学校帰りに一緒になることはなかった。

彼女とはただの同級生しかなかったから、思い出が特にたくさんあるわけではない。俺が外で遊んでいる時、彼女教室で本を読んでいた。あんまり、関わりはなかったように思う。

4,5年生の時だ。宿題が終わらないで居残りさせられていたら、見かねた彼女が手伝ってくれたことがあった。それから漢字の書き取りが多すぎると愚痴っている俺に「送り仮名が長い言葉を選べば少し楽じゃない?」と言って、例に挙げられていた「原因」ではなく「因みに」と書けばよいと教えてくれた。「ちなみに」という読み方を、この時知ったのを覚えている。

彼女はいから年賀状をくれるようになった。母ちゃんに「あんたにくれるなんて律儀な子だね〜」とからかわれるのが嫌だったけど、流行ってた丸文字じゃなくて大人っぽい字で、俺の名前と何らかのひとことを添えてくれていた年賀状は未だに捨てられない。

中学生になると、男女の溝がくっきりするようになった。彼女優等生の真面目な女子に、俺は野球部のイジラレ役になって、接点はまた少なくなった。たまに話す機会もあったけど、そのうち俺は彼女敬語を使うようになった。彼女は授業中も眼鏡をかけるようになって、髪型ポニーテールになっていた。彼女は県外の進学校に進み、俺は地元工業高校に行った。大学は知らないけど、多分有名なところだと思う。俺は、地元会社就職した。

成人式の日、着物彼女は遠目にしか見られなかった。黒っぽい高そうな着物を着ていたことだけはわかる。乳を揉ませてくれたのはその日の夜だ。俺の地元では、成人式の日の夜に中学校ごとの二次会が開かれる。

彼女ピンク色のドレスみたいなひらひらの服を着てやってきた。小さなブランドバッグを持っていて、やっぱり金持ちは違うな〜といじられていた。俺は誕生日3月から先生がいる2次会で酒は飲ませてもらえない。もう眼鏡をかけてはいない彼女ビールを美味しそうに流し込んでいて、大人になったんだなあと妙な感想を抱いたりした。

先生達が帰って、三次会居酒屋に移動したあと、彼女と話す機会が訪れた。「久しぶり、変わらないね」という彼女いかにも育ちが良さそうな喋り方は変わっていなかったし、俺は相変わらず「うっす」くらいしか言えなかった。隣に座った彼女は顔色1つ変えずお酒を飲んでは笑い、俺にお代わりをねだってコップを差し出してくる。こき使われているような状況もちょっと心地よかったのだが、彼女高校から付き合っているという恋人の話もしていて、ああ、彼女はもう俺の知っている眼鏡女の子ではないんだなと悲しくなったりした。

そうしているうち、不意に彼女がこう言った。「小学校の時、熱出した私にジャンバー貸してくれたでしょ。あれはときめいた」口ではそう言えばそっすね、なんて言ったけど、彼女が俺との思い出を残していることに驚いた。そう言えばどころではない。俺は、早退する彼女が返してくれた上着を着ずに持ち帰って、抜いた。首にあたっていたあたりからほんのり甘いような、新品の教科書のような匂いがしてしばらく置いておきたかったが、母ちゃんに洗われた。

「なあなあ、おっぱい超でかくなってね?」俺が甘酸っぱい思い出に浸っていたら、野球部のツレに耳打ちされた。

かに、昔から彼女巨乳だった。合唱部だった彼女は外で走ったりしないし、学年いちの巨乳だった陸上部女子ランニングする時ゆさゆさ揺れていたのでゆさパイと呼ばれていた)に隠れていたけど、多分学年で2,3番目にでかかったと思う。

ドレス姿の彼女の胸はだいぶ破壊的で、谷間は見えない清楚な感じのデザインにもかかわらず、その大きさは十分わかった。

「ひと揉みさせてやってよ!こいつ、こんなでっかいおっぱい触る機会なんてないと思うからさ」ツレが彼女にそんなことを言ったから、顔がボッと熱くなった。真面目な彼女から無視するか、不潔!とか言われるだろうと思った。なのに、彼女は笑って「こんなのでよかったらどうぞ?」と言って、胸を差し出してぴったりしたドレスの胸元をぺろんと開けた。

俺は取り敢えずいいっすと断ったけど、耐えきれず触ってしまった。酒に酔ってるはずなのに、彼女の胸はひんやり冷たくて、この世で一番柔らかかったと思う。三次会からは酒を飲んでたし、おっぱいの衝撃でその後の記憶ほとんどないけど、ツレの話だと他の男には揉ませていなかったという。女子は数人もんでいたらしい。

彼女は「明日普通に大学なの、辛い」なんていって、明け方まで飲んでそのまま電車に乗って帰って行った。それっきり、もう10年近く会っていない。そんな彼女が、地元に帰ってくるらしい。在宅勤務が増えたから、骨折してリハビリ中のおばあさんのために月の半分はこっちで暮らすのだとおばあさん本人が言っていた、と母ちゃんづてに聞いた。

俺は、ふうん、そうなん、と言ったけど、ほんの少し浮き足立った。別に、好きとか嫌いとかではない。連絡先も知らないんだし、どうということもない。でも、あのひんやりしてほよんと柔らかいあの乳が、俺の地元にあるということが嬉しくなってしまっただけで。反芻しすぎて食傷気味だったあの柔らかさが、また息を吹き返したみたいだ。今夜は思い出して抜こうと思う。

2021-03-28

fff -フォルティッシッシモ-』〜歓喜に歌え!〜 第13-14場

anond:20210314223160

ネタバレ

第13場実況

A 雪原〜雪のシンフォニー

雪組だけに?

これ一幕ものでよかった、と思う。

雪原?ロシアロシアナポレオンが敗北したロシア。でもサクサク動いてみんなを助けて、いい人なんだなあナポレオンさん。

ここは少し気持ちがダレた。もうちょっと演者側でやりようがあったように感じる。ワンスマックスやこのナポレオン、月城かなと氏だったらどう演じたかなと考える。city hunterは楽しみにしている。

ベートーヴェン「おれたちは何のために生きてるんだ」

ナポレオン「苦しむためだ」「苦しむためじゃなかったら、おまえは何のために生きてきた」

人間はあらゆるもの発明することができる。ただ幸福になる術を除いては」不可能あるやん、ていう。

ベートーヴェン平和の、敵、ブオナパルテ」

出生名

ナポレオン「そ!こ!そ!こ!」

わらった。

ナポレオンヨーロッパの国々を、ひとつ連合にする」

!!ナポレオンEU構想持ってたの⁈つながった!第九、the European Anthem。なるほど、ヤバ!

ナポレオン世界が豊かになる方法は、人と、モノと、情報自由に遠くまで運ばれ、優れたものが交換されることだ」

おやリカード比較優位論、貿易大原理。1817年か。

音楽数学だし、昔は世界を解き明かす学問として必修科目だったしね。

再び勝利

ナポレオン勉強は好きか」

「愚人は才人にまさる大いなる利得を有する。彼は常に自らに満足している」

ベートーヴェン所蔵のカント『実践理性批判』

ナポレオン「生きることは、不幸だ。不幸に敗北するか、それとも不幸に戦いを挑むか、それとも」

ナポレオンって銃弾に倒れたわけではないやんな。

B 彼女名前

ナポレオンが死んだのは1821年。ウィーン会議から6年経ってる。第11ウィーン会議ロッシーニいたことを考えると、あそこで1822年ぐらいまで描いていたと考えてもいいのかもしれない(『セビリアの理髪師』1816、『どろぼうかささぎ』1817、ロッシーニウィーン訪問1822)。

謎の女「かつて地上にあった人間のすべての苦しみ それがわたし

ベートーヴェン「おまえは、人類の、不幸」

謎の女「誰もがわたしを憎む もうひとりのあなたとも知らず 醜い不吉な女だと 憎んで恐れて逃げまどう 憎むほど自由奪われて ただ 死を 待つ」

ベートーヴェンも謎の女に失せろと言った。そして孤独期、曲も作れず、ただ…。

謎の女「死は、救いなの」

ベートーヴェン「哀しく強い、おまえの歌」

ベートーヴェン「強くてきれいな人類の不幸。おまえの名前がやっとわかった」「運命」

あーー。だから、曲、献呈。「やるならやってみろ、運命よ」は1816年の彼の日記のことば。

「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ。」

ベートーヴェン「生きることが苦しみでも、おれは、おまえという運命を、愛するよ」

上田氏の京大講演会経験の中で一番痛いもの、辛いことが不愉快ものなら、当然、それがなくなることはない」

第13場まとめ

第14場 最後シンフォニー 実況

智天使ケルブ「この世界に別れを告げる時間だ」

1827年

ベートーヴェン「どうすれば音にできるだろう、この祈りを」

運命「これはいつくしまれた不幸の、よろこびの歌」

ここは本当にありがとうと言いたい。望海真彩(あと非常に聞こえづらいけど多分望海の右手)でメロディを歌いながら、真彩の右手オーボエパート、望海の左手クラリネットパートかな、をなぞってきっちり3声の対位法をやってのけた。歴史に残るメロディ爆誕の瞬間。1822年。

ヘンデルあいつ、なんと…」

モーツァルト「不幸と一緒になって、よろこびをうたってる!」

シラーの『歓喜に寄せて』は、もともと『自由賛歌』で、ベートーヴェンが感動して曲をつけようとしたのは『自由賛歌』のほうであるが、当時の体制下で云々。…というのは都市伝説であると、英語版のWikipediaには書いてあるなあ。日本語版の出典のひとつURLの変更があったっぽく今はたぶんこっち。もうひとつ出典では『自由賛歌』がシラー作品だとは言っておらず。セイヤー氏の著作都市伝説の元なのかな。

東西ドイツ統一式典では「自由バージョンで歌われた。

ベートーヴェン「あー」(A4)

運命「あー」(A5)

爆笑超音波なの?すごすぎ。

ベートーヴェン「苦悩を突き抜け、歓喜に至れ!」

1815年の手紙から日本語訳がピッタリこないけどドイツ語からいから2つの英訳

"We finite ones with infinite souls are born only for sorrows and joy and it might almost be said that the best of us receive joy through sorrow."

"we mortals with immortal minds are only born for sorrows and joys, and one might almost say that the most excellent only receive their joys through sorrows."

智天使ケルブ「まあいいだ〜ろう♪」

よかったね天国行きだよ!

歓喜のその歌 ともに歌うとき あなたわたしも」ベートーヴェン父・メッテルニヒ「ゆるしーあーえーるーだろー」

あー、早霧さんが出てた世界ふしぎ発見でやってた話。

  • 舞台後方真ん中でひとり手を広げて立つケルブ様

und der Cherub 音楽は おれたちのものだー! steht vor Gott, フォルテー! steht vor Gott, フォルティッシモー! vor Gott, フォルティッシッシモー! vor Gott.

ここだけドイツ語詞で、ケルブ様出てきた。第九の中のここの歌詞解釈はなかなか大変なようで、まあなんとなく壁・障害天国/楽園行きを阻むもの自由を阻むもの、ぐらいで自分は捉えておこうかなあというところ。

今作においては、ベートーヴェンさんお亡くなりになりました、ってことかしら?

コーダ⁈やば。3人の強きものfたち。

そりゃalla marciaには入らないよね。音楽配信も始まってしまったわけだけど、これ音だけで聴いてると爽快にズッコケる、爽快。そのうち慣れるだろうけど。

リズム隊が醸す歌謡曲感。

ベートーヴェンアンコール!」

きたー

ベートーヴェン人生幸せだったー!」

諸君拍手を!喜劇は終わった」

キンキラキンのすごい背景ー笑、衣装は白いし。

ベートーヴェン葬儀には多くの市民が続々と駆けつけ参列者は2万人、異様な様相、大混乱だったと。

世界果てなく 祈り 響かせ

うたえ 生きとし生けるもののうた

なんかここのベートーヴェン推定54歳)と運命さん(年齢不詳)の振り付けかわいいな。

第14場まとめ

全体総括

ぴあの上田久美子インタビュー記事より(2020/3/16 コロナ前)

耳が聞こえなくなって絶望し、一度は死ぬことも考えたけれど、神から与えられた才能は自分だけの物ではないから、身体の中の音を外に出すまでは死ねない、どんなに不幸でも生きていようと思ったそうなんです。すごいですよね。そうやって作った最後交響曲が第九で、その合唱部分の『歓喜の歌』は、今で言ったら異常に盛り上がるロックみたいな感じだったと思うんです。それを、音楽のために一切の個人的幸福を諦めた人がどうして作れたのか、ぜひその物語を書きたいと思いました。

予習の段階で目を通したこの通りの内容。第九誕生物語

お見事。

配役を見て?が浮かんでいたところに次々とピースがきれいにはまっていく気持ちよさ。タイトル意味しかり。

重くなりがちなベートーヴェンの話をできうる限り軽快に描き、新しいベートーヴェン像を見せてくれた(そもそも楽聖ベートーヴェンイメージシントラーやロマン・ロランによって作られたもの)。

おまけ:ミュージカルシンフォニア

第14場がコーダっぽかったので、ソナタ形式に当てはめて考えてみた。

*一瞬だがベートーヴェン真ん中でナポレオンゲーテが左右におり、謎の女もいるので。


うーん、苦しいか?意外とうまくハマった気がしている。

2021-03-11

朝鮮民主主義人民共和国楽曲個人的ランキング

【1-5位】

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【6-10位】

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11-位】

2020-04-24

anond:20200423235336

高校に入るとき自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。

合唱から距離を置いた結果中学合唱時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。

中高一貫校だったってことか?

そうでもなきゃ高校なんてシランカップリング人間ほとんどで、みんなゼロから関係構築しはじめるんだから

中学の同期と疎遠になったって問題ねーと思うんだけど

よーはコミュ障いじめられたってこと?

別に同期と疎遠うんぬんは関係ないんじゃねーの

2020-04-23

合唱をやめた理由

前置き

ふと、社会人デビューする前にこれを吐露しておくと肩の荷が下りる気がしたので下ろしておくことにしました。推敲は一切しないので悪しからず。

本題

自分小学校の時、音楽の授業での合唱に何故か強いモチベーションを持っていた。確かあの時はパヴァロッティ演奏ビデオを見たり、ソプラノ歌手のものを見たりしたか記憶してる。それでもって家に帰るや否やソプラノ歌手の声真似をしようとしていた。声が変わるとそれは厳しくなって少し苦悩はしたが、声は大きかったことと中学に混声の合唱部があったこともあって真っ先に合唱部を選択した。

中学で3年テノール(バリトン寄り)を歌い続けたのは自分にとって一番長合唱経験になっている。

高校に入るとき自分は先行き不安定な歌で身を立てる訳にはいかないだろうから、と合唱から距離を置いて勉強に勤しもうとした。が、これにいくつかの失敗を伴った。

合唱から距離を置いた結果中学合唱時代の同期達と疎遠になった自分は荒れた自称進学校で格好のストレスのはけ口だったようだ。合唱に勤しみすぎたのか、自分には頼れる人間合唱部の同期の他にあまり多くはいなかった。それどころか一部の同期には大分冷たい目を向けられていたように今は思う。ただその一方人数合わせに先輩に呼ばれて一度だけステージに立ったこともあった。

高校を出る頃から今まで、自分合唱から距離を置くべきだったかどうかについては結論が出ないままでいる。そしてこれからも出ないと思う(こういうことを吐露たかった。)

2年を経て上京して、大学に入った際、大学グリークラブ一曲入学式で歌っていた。ゆるそうな雰囲気を感じてここならやっていけるかと思ったが、ここで思いのほか高い壁に当たった。ミサの聖句の一つ一つが余りにも自分にとって重い物になっていた。かつて中学の頃は文章意味を追いかけて、恐らくは絵本程度の世界を思い浮かべることが限界だった。大学に入って、あまりにもミサの聖句は苦しいものだった。半年持たなかった。

それから翌年、中学の同期と後輩に呼び出されて歌った。これは昔ともに歌った人間も居て勝手も分かりよかったのだが、やはりミサの聖句は重かった。しかミサが一番ウケがよかったのも事実だった。結局、1年半ほどたったところで仲たがいしてしまい、それっきり今に至る。

ミサ

結局自分にとってミサは何だったんだろうか。家は浄土真宗本願寺派日蓮宗の両親の下に生まれ、それなりに二人とも経を唱える程度のことはし、自分もさせられた。そんな家で育った自分にとって、若いころはミサはもう一つ、どこか別のところで誰かが信じている神の姿を描こうとするものだったように思える。つまり、そこに神は、自分の中では居たように思う。

しかし、恐らくは不登校と化して自傷まがいなこともやっていた(出席日数もギリギリだった)高校時代辺りが節目だったかもしれない。

大学時代に歌うミサ自分にとって余りにどう歌えばいいかからない、そんな曲だった。旋律を美しく仕上げることは、特に死ぬほど練習した中学時代の勘が多少なり働いてくれる。でもそれだけだった。曲が自分たちを支えている。しかし支えられる自分が何も描くことが出来ないような空虚感があった。神はもう居なかったように思える。

それなりに人を信頼して生きていた中学時代、人を信頼しなくなった高校大学時代ではあまりにもミサに対してモチベーションが違った。

追記

1日経って、やはりある程度肩の荷が下りているのを感じているところです。

思いのほか拙文を人が見ていたので幾分かの追記をしておこうと思います

想像にお任せします(汗)

グリークラブ=聖歌隊なんだから今思えばバカをしたなと思っています

ではないんですがかなり出身校に偏りがあり、出身中学から90人程度、ほかの中学10~30人程度の塊で進学して来ている人が殆どで、既にその中でコミュニティ存在しているというのが実情でした。後東〇予備校に9割の生徒が通っていて、金銭事情でそういった所に所属しなかったのも大きいかもしれません。

今の自分思想無神論に寄っていて、神を熱心に信仰している他人不思議に思えてしまうのです。

それに、ミサはKyrieなどがそうですが、「私はあなた(神)を讃えます」みたいな内容、つまり信仰告白歌詞に含む曲が多い以上それを非キリスト教徒が歌うことに疑問符を隠せないでいます

  • 自分の興味関心が次第に浮かび上がり来る人生と感じた。歌や信仰について現在どういう距離に置いているのか解らないけど、人生の中で少しずつでもそれらに対し思考したり思考する様な材料のある環境にあってほしい。

言われてみると、合唱と神というスコープを通して興味関心が少しずつハッキリとしてきた人生かもしれません。少なくとも信仰無神論寄りになって、クラシック合唱からは足が遠のいているのが実情ですが、時には歌を歌う人、神を信じる人の気持ちを感じる機会を得られればと思います

ミサの項は特にデスノートですね

1年くらいたって見返したら椅子から転げ落ちているか

2020-02-11

anond:20200211012346

男でも声の高いやつが合唱部きもちよさそうにカラオケ状態でうたってたけど正直きけたもんじゃなかったぞ

上手さは性別声帯にかんけいねーわ

2019-11-15

やがて君になる舞台版)

円盤が届いたので、細かい演技まで見られる。ので、初見から気になっていたことの覚えがき。

なお、内容についていうべきことは特にない。本当によくできている。アニメ版原作舞台版としてそれぞれの終わり方が分かりやす提示されているからだ。

今回は演技について。敬称略とする。

メインキャスト小泉七海燈子)、河内(小糸侑)、磯部佐伯佐弥香)はそれぞれ違った履歴を経てこの舞台に立った。

小泉は中高合唱部→いわゆる現代中小劇団舞台に出演。最近はレヴュースタァライト活躍が目立つが、役者としての一面がつよい印象。

河内高校演劇経験者。その後、テレビドラマに出つつ、2.5次元舞台中心に活躍

磯部声優シャニマスに出ている声優なので歌も歌うし、サンドリオンというユニット声優アイドル活動もしている。演劇経験はほぼないのではないか

この三人、声の演技は磯部ダントツにうまく、舞台俳優としての総合力は小泉ダントツによく(何しろ彼女は声がよく通り、身長も高く、とにかく足が長い)、河内舞台慣れした様子が面白い

のだが、河内の演技について気になる点がある。

彼女の、高校演劇っぽい癖だ。見ているとすぐ気づくが、手元(握りこぶし人差し指を刺して動かす)の動きは、とても目立つ。

これは小泉やその他先生やその彼女にはほぼない仕草で、男性キャストはやっていない。河内に教わったという磯部は少しその癖がうつっている。

中小劇団で求められる所作と、高校演劇で求められる所作結構違いがある。なぜなら想定される舞台サイズが違うからだ。(小さい劇場体育館や講堂の違いをイメージしてもらえれば伝わるかもしれない)

高校演劇の演技というのは独特で、とにかく動きで形を出せと言われ、普通こんな動きしないのでは…という場面でも体を揺らす。

現在は便利なもので、Youtubeに上がっていたりするので、高校演劇 大会とでも検索すればすぐに見られるだろう。

まり河内はこの癖が抜けていない。これからどのような道を歩むかは彼女自身自由だが、なるべくこの癖は矯正した方がいい。

なぜなら彼女が求められる舞台の演技はそうではないからだ。

今後の彼女に期待しています

ところで最近匿名はてな、何か注意事項みたいな文言が付くようになったんですね。

匿名で描き散らかすのって、めんどくさいですね。

2019-07-09

[]2019年7月8日月曜日増田

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2019-07-08

anond:20190708132501

私は中学生の頃から10合唱やってたし、今も続けている。強豪校にも所属してたし上手い。それで思うんだけど、合唱部ってダサいよね。男はメガネ、女はすっぴんの奴が多すぎ。

洒落した方がいい歌が歌える。ダサいチームって弱いし。私はお洒落してるし、お洒落と人に言われてる。合唱は素敵だけど歌う側はダサいよね。私は違うけど。

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