はてなキーワード: 教育政策とは
…なんてタイトルを付けておけば、嫌韓・嫌中の人も、関心はあるけどそこまで嫌いじゃないよみたいな人も食いつくだろうと思って。
で、表題の件ですが。
端的に言って、中国人・韓国人という人種が生まれついての悪人であるわけはない。
彼らの民度が低いのも、彼らが日本を憎むのも、彼らが幸福を妬むのも、全ては政府とその教育政策に起因しています。
なので、戦時の社会は非常に結束力が固くなり、一見安定した社会が形成されます。
もちろん、みなさん知ってのとおり、これは見せかけの安定です。ひとたび戦争に疑問を抱くようなことがあれば、あっという間に社会からハミ出して、下手をすれば私刑に問われるでしょう。一度タガが外れると、あとは崖を真っ逆さま。安定は失われ、内部崩壊しかねません。
一方平時はというと、どうしても敵が必要なあまり、無理やり作り出してしまいます。
それは同胞の犯罪者であったり、諸外国であったり、はてはエコだの原発だの、答えの無い問題に対する意見の食い違う人だったり。無理やり作り出した敵ですから、不毛なことこの上ありません。
彼らは自身が生きていくために、私たちを敵に仕立て上げています。
流れから行けば、彼らの敵は日本ではなくアメリカであって然るべきです。
が、アメリカは強大になりすぎた。とても楯突くことができません。
そこで、時代をちょっと遡ってW2Wをネタとして仕込んできました。
これらの事実があった、なかったという話は、ここでは問題ではありません。
実害を被っている方もいらっしゃいます。
これは、(少なくともその方面に関してだけで言えば)日本の教育が悪くなかったということでしょう。教育問題に関しては他にも問題が山積みですので、一概に全て良しとは言えないのが残念ですが。
つまり、今私たちが目標とすべきは、中国人・韓国人を根絶やしにすることではありません。
それではチベットやウィグルに対して中国人が行った蛮行と同じです。
そうではなく、彼らを良い中国人、善良な韓国人として育てあげることだと思います。
そのためにどうするか。
まーこれは正直言ってわかりません。
もしかしたら本当に、まず一度大人世代を根絶やしにしてからやり直すしかないのかもしれませんが。実際問題として、教育が悪いのであれば、すでにその教育を受けて育ってしまった世代はどうしようもありません。日本でも、団塊世代のマナーの悪さは筆舌に尽くしがたいほどです。あれも教育のタマモノですよね。
まず出来る事として、朝鮮学校みたいな施設でしっかりした日本教育を受けさせてあげるというのはどうでしょう。挑戦学校の設立目的は、いずれ本国に帰化する際に困らないようなハングル教育を受けさせることだそうです。これでは意味が無い。
中国・韓国に日本文科省管轄の学舎を作り、より事実に近い歴史を教え、世界に通用する人材を育てるのです。
どうせODAで学校施設に対しても多額の援助をしているのなら、初めから日本が管轄した方が有益です。
中国に駐在している友人によると、徹底した反日教育がありながら尚、日本への憧れというものは根強いそうです。であるならば、日本教育が受け入れられる余地も充分にあるのではないでしょうか。
こんな時期にこんな事を書いてもなかなか実現はしないでしょうが…ちょっとした思いつきですので、さらりと読んでいただければ。
※敢えて上から目線の発言になっているのは、右寄りな方たちの耳に入りやすくするためです。彼らの耳の穴は処女のようにとても頑なで、とても小さいのです。ご了承ください。
暴論だと仰るのは最もだし、世間的にその意見が大勢だろうとも思いますが、私はオーバースペックというのが本当に生理的にダメで、そういう背景を以って「歌にする必要は無い」と考えているので、この点については謝罪も撤回もしません。他人の自己承認欲求を満たす、あるいは自身のそれを満たすためのプラットフォームに、音楽は明らかにオーバースペックだと思います。
さらに、話を私の最初の投稿で述べたミクロマクロの話に戻すのですが、私自身(当然)日本は変わらないし(てゆーか変えられないように歴史上できてるし)、もっと言えば日本は暫くの内に高度経済成長を成し遂げた歴々の偉人様方々の為に倒れると思ってます。現代型厭世観が少し具体像を持った感じです。マニュアルに沿ってれば自分の人生は問題なく円滑に進むんだと学校で教えられました。実際に生活実感としてその通りだったし、あるいは今教育政策を策定しているのはそれが大事だと思っている人々だから、義務教育を修了している身としては当然の思想を持っていると思っています。だから、今ボカロで流行りの曲を作る人々は、公教育上大変優秀な産物だと思います。それがミクロな私の偽りない意見です。
ではマクロな私の偽りない意見は何かというと、それじゃマズいでしょ、というものです。一国が過去の人間の為に滅びるなんてマジでやってられないし、そんな歴史上の汚点を以って自分の国が滅びるなんてことになれば、全国に神社が建つぐらいの怨霊になる自信があります。大事なのは今現状が改善されて何か変わることじゃなくて(そんなことありえないし)、今まさにその過去の人間に現代の人間が飼い慣らされて下を向いてることで、どーせ倒れるんなら誇りの中で上を向いて倒れたいなーというものです。
それは当然ミクロな自分にも反映されてて、厭世的で近々日本は滅ぶと思ってるけど、別に日本が滅んでも自分は滅びないし、生きていたいと思うから、厭世的で前向きな曲が好きだし、マクロな自分としては、日本が生きにくいことと自分が生きていることは別の問題で、もっといろいろ無視して生きてほしいなぁと思います。
結局、死んだら元も子もないし、それを歌にして発するってのは、どっちかってーと日本という国から美味い汁吸い続けて今まさに日本を枯れ木にしようとしている人々による印象操作ではないかとさえ思えます。
あんまり文中にうまく表現できなかったので付言するしかないんですけど、この前向きに生きるってのは、従来のロックパンクのような「(よくない社会に対して)相対的に反発する」のではなくて「(社会が良くないのは最早仕方ない問題だけど、それでも自分自身は、自分のやりたいことに対して)絶対的に前向きである」といった意味合いで、結局’00年代辺りのロックポップなんかそうですけど、スキマスイッチ「ゴールデンタイムラバー」とかちょうどピンポイントでそんな感じじゃないかと思うんです。
こういうのがあまり供給されないのは、文脈の上では公教育批判とか作曲者の手抜きの指摘とかいう形で行われているとおりで、それが供給されて消費者が消費しないのは、現代型厭世観の問題で、私や元増田は、それがミクロではなくマクロになっていることに問題意識を持っています。
「パパやママは私のことなんかちっともわかってくれない!」
自分が政治を少しでも理解できるようになってから、まだ数えるほどの年しか経っていないけど、日本では常に「政治家は国民の声をもっと聞くべきだ」と意見は常にあったと思う。政治家が何がしかの少子化対策や教育政策を打ち出したら、「きちんと調査をしたらこんな政策にはならなかった」「世論とのずれがある」と、コメンテーターが主婦感覚で好き勝手言う。実際、確実に国民の声と違った政策が取られることはあるし、政治化は国民の声をもっと良く聴くだけど、自分たちは本当に声を発したのだろうか?国民の99%はこれまで一度も声を発したことなどないと思う。この国では会社では働いたり、結婚をすれば大人とみなされる傾向があるけど、実は「もっと僕を理解してよ!」「パパやママは私のことなんかちっともわかってくれない!」と、国に対しておんぶに抱っこの、恥ずかしい20歳過ぎた子供しかが多数を占めている。
誰一人として傍観者はいない
日本にも「声を上げる人」はいる。横浜市には「○○の会(例、9条を守る会)」というのがたくさんある。でも、誰にも気にしない。「自分との関係性」を感じないから。あるいは、単なる傍観者気取りの人もいるでしょうが、こと政治問題においては誰一人として傍観者はいません。有権者全員が当事者です。日本では、働いてさえいれば「社会人」と呼ばれますが、本当に社会に関わっている社会人は、恐らく10%もいないのでしょう。
【09衆院選】教育激変、文科省“解体”? 民主の政策「教科書検定」触れず
高校は無償化、文部科学省は「中央教育委員会」に縮小、現行の学習指導要領は廃止? 民主党が政権交代後に描く教育政策は、25日に明らかになった「教員免許更新制廃止」以外にも、マニフェスト(政権公約)のベースとなる「民主党政策集INDEX2009」(23日公表)で数多くの“激変”が示されている。昨年の政策集にはあった「教科書検定制度維持」も姿を消しており、学校教育の根幹が揺さぶられ、事実上の文科省解体を盛り込む内容だ。
政策集では、現行の教育制度は抜本的に再構築。文科省は教育の全国基準の設定や予算・教職員の確保、法整備などに役割を限定された中央教育委員会になる。
市町村では「教育行政の独立」の建前を覆し、首長を責任者に設定。学校は保護者や地域住民らによる「学校理事会」が運営し、将来は教科書採択も学校理事会単位で行うよう、段階的に移行するとしている。
中央教育委員会がつくる学習指導要領は、教科ごとの内容を細部まで示した現行のものを大綱化し、学習内容は地域や学校、学級で決められる。教育の地方分権からさらに“学校分権”まで突き進め、民主党の支持母体、日教組の主張とも合うものになっている。
太字部分、永住外国人参政権とセットでやるとおんもしれー事になりそうだなw
今「ゆとり教育」と言われるのって文部官僚の寺脇研が1980年代に打ち出した方針のことで、方向性は1984年から中曽根の諮問機関である臨教審で決められたものだけど、段階的に週休2日制が始まったのが1992年、いわゆる「授業内容3割減」の実施が始まったのは2002年。この「3割減」指導要領で教育を受けた世代が世間では「ゆとり世代」と呼ばれてる。
その1992年と2002年の間には日教組を支持団体に持つ社会党が非自民自社さ連立で政権与党にいたわけだから、日教組は90年代の教育政策まったくの無関係で、90年代の教育政策も全部中曽根が決めたってことにするのは強引じゃね?ゆとり教育が悪いことだったとして(個人的にはそうは思わないが)、何でそれ以降の政権はその方針変えなかったのかをスルーしてなかそねの諮問機関せいですってのはどうよと思う。
週休2日制については更に10年以上前から日教組が主張していたのも事実で、要するに労組らしく「休ませれ」って話なわけで、まあ段階的に土曜が休みになっていったことで授業時間が減った事実もあるのだけど、これを「ゆとり」の一部に含んでしまうと1992年当時中学生だった層=現在の30歳前後くらいまで「ゆとり世代」になってしまって一般的に「ゆとり世代」と認識される層よりも10年ほど上にずれてしまう。
今の20台をゆとり世代というのも一般的と思うけど、完全実施以降がゆとり世代ということなら10台でもずれはないと思うけど。
まあ日本の教育に日教組が色々悪影響を与えてきたという論については別に異論もないのだけど、ゆとり教育に関してだけはどうも酷いすり替えが発生している。
個人的にはゆとり教育は財界の陰謀というのがうんざり。ゆとり教育やめろという経営者なんかうじゃうじゃいるのに。日教組のせいにしろ財界のせいにしろ単なるネガティブキャンペーンで敵対勢力を悪くいえれば事実関係はどうでもいいってことなんだろうけど。現実の政治じゃ特定の組織の意向だけで政策を自由自在に決めれるわけなんかないのに。
マスコミとか政治家は寺脇をスケープゴートにしておけば、自分たちの責任から目をそらせられるから都合がいいのかとかんぐってしまいたくなる。
子どもをじゃんじゃん塾に通わせたり家庭教師つけたりしてる高級住宅地の小学校と、親共働き学歴低め低所得者層向けアパートの建ち並ぶ地区の小学校では、前者に厚く後者に薄く予算配分すべきということですね。つまり公的予算を使って家庭の塾代など教育支出を更に煽るべきである、と。
でもって前者の学校の教師は良い教師で後者の学校の教師は悪い教師なのですね。後者の学校から逃げ出して前者の学校に行く教師は良い教師とみなされて、後者の学校にとどまり教育し続ける教師はダメ教師とレッテルを貼られるわけですね。
そして、試験の結果はじゃんじゃん公表して、後者の学校の子どもに「お前らは馬鹿だ」と言うのが高い教育効果をあげるというわけですね。
逆に何の評価も無く教育って物の達成度を調べる手法は無いって主張するなら
試験結果の悪かった大阪で、低いからこそ教師をもっと増やして手厚い教育をするべきと主張するのでなく低学力だからもっと教育予算を削るべきと主張するわけですね。
……
いや、あなたが変だと言いたいわけではありません。あなたが橋下さん本人なら別だけど。
あなたの言ってることは橋下さんと同じことなんですから。
ただ、あえてここはあなたに真剣に聞いてみたいんです。
あなた実際自分の言ってることのおかしさが本当に分からないんですか?
教育に競争原理はなじまない、教育にはもっとお金をかけるべきだという主張の意義が本当に分からないんですか?
そこを説明して貰えたら初めて、うるさいくらい「学力低下」を言いOECD学力調査の結果をヒステリックに報道するこの国で、同じOECDの調査で「対GDP比で見れば日本は教育に世界一金を出さない国」と言われ、文部科学省の教員増員計画を蹴って40年前に定められた「発展途上国的クラス生徒数」(=平均約30人はOECD諸国最低レベル。ほとんどの国の平均は約20人。データは下のリンク参照)を頑なに守り続け、人件費のみならず先進国の多くが教育予算を日々増額している流れの中であえて全体としての教育予算を減額し続け、そんな状況の中で真面目な顔で「学力向上のためにどうしたら……」「そうだ、祖国と郷土を愛する心が足りないのでは!」とか言う人々が教育政策を決めているという現状がどうして起こるのか分かる気がするので。
確かに、少子化で大学全入時代になれば大学生のレベルが下がるのは当たり前なので、教育政策を云々しても意味無いとは思うんですけどね。
ちなみに、確かに『一定水準以下の大学はおしなべて高卒扱いをするという事で社会の方が対応しつつある』というのは仰る通りで、就職する生徒が多い学校にいた頃、これまで高卒採用のあった仕事(三交代制の工場とか)の採用市場に次々と大学生が参入してくるようになりました。何のために大学四年通ったのか。
それでもそこに社会的意味を見出すとすれば、大学がより広い意味での「教養教育」を行うことによる社会の知的レベル向上という道だと思うんですが、実際はどうも逆の方向(教育内容の専門化、資格予備校化)に進んでいるようで、それならますます大学進学率なんて下げればいいのにと思う今日この頃です。
当然ながらもっと金をつぎ込むべきということでもない。この話題でよくGDP比教育予算とか出すけど、ほぼプロパガンダと見ていい。
たいていの場合子供の比率が違うのに単純比較しちゃってるんだよな。子供一人当たりで見れば初頭中東の義務教育はほかの先進国と大差ないレベル。学力だって低いわけでもない。
もっと賢いやり方があると思うし、それを模索するべきだ。
完璧な制度なんかないし、教育をどの程度受けるべきかどういう教育を受けるべきかすら各自の価値観はばらばら。
どれだけ賢い人が制度設計しようが叩かれると思うよ。
学力の上昇を示すもの、低下を示すもの、ともにあるのが現状である。
例えば、ゆとり教育見直しの機運が高まるきっかけとなった国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003 2003年にIEA(国際教育到達度評価学会)が実施)[1]では、中学2年生の数学は前回のTIMSS1999年よりも9点、前々回のTIMSS1995よりも11点、いずれも有意に低くなっており(順位は5位のまま)、数学が楽しいと思う者の割合も減少している。
一方で、平成15年度 小・中学校教育課程実施状況調査(2003年に国立教育政策研究所が実施)では、多くの学年、教科で前回調査と同一の問題については、正答率が有意に上昇した設問が、正答率が有意に下降した問題よりも多かった。特に、小学生と中学3年生の学力向上が顕著で、理科では前回より正答率が上昇し、アンケートで「勉強が好き」「どちらかというと好きだ」と答えた子の割合は増加傾向にある。
でもゆとりをやめろという世論が盛り上がったからそうなったわけでしょ?
本当に得したのだろうか? 少なくとも、反ゆとり世論が、教育政策に対する大局的な視点から結論されたものとはとても思えないのですよ。「円周率が3」に脊髄反射した人間がどれほど多いことか。そもそも、全国民一律でお上が決めたカリキュラムに一言一句従ってやる、という前提が前時代的だというのに。
それに授業内容まで監視されてるわけじゃないから教科書検定の有無なんか教育内容にさほど影響ない気がする。授業では教科書は余り使わないで参考書や問題集使う教員が多かったし。
その通りのはずなんだけど、「独自のカリキュラムでやります」と打ち出すと怖気ずく教師や教育委員会は多いんですよ、実際。そういう時は決まって、「勝手なことをしたら予算が削られるかもしれない」とか言い訳するんだけどね。