昔から街の映画館としてドラえもんもジブリもポケモンも、たまにやってるつまんない邦画も観てきた映画館が、いつの間にかオタクの巣窟になってて「俺たちの聖地!」とか言われているとね、そうしないと映画館も生き残れなかったんだと思うけど、どこか追い出されたような気持ちになっちゃうんだよね。
安かっただけのことはあって、桜文鳥のなりそこねのような、黒と灰と白が絶妙に(美しくない配置でもって)まだらになっている文鳥を飼っている。すでに6、7年になるか。今もスマートフォンを持っている私の指につかまって、ちゅんちゅんと鳴いている。機嫌よくさえずっていたかと思えばいきなり威嚇して怒りだすような気まぐれな子だ。背中をなでると気持ちよさそうに目をつむり前傾姿勢になるときもあれば、噛んでくるときもある。その小さな頭で人間のことをどのように認識しているのか知らないが、基本的に家族のだれかにとまっている。
文鳥はかわいい。はじめて飼った鳥類がこの子なので「文鳥は」としか書けないのだけれど、たぶん、鳥類はかわいいのだと思う。どういうところがかわいいのかと言うと「自由に空を飛べる生き物が自分の身体にとまってくれる」ところ。この子を飼い始めた当時は感動したものだ。羽があるのだから逃げようと思えばいくらでも逃げられるのにわざわざ私のところにきてくれるなんて!と。外で見かける雀なんかはちょっとでも近寄ると逃げるから余計にそう思ったのだろう。文鳥はかわいい。そのことをだれかに伝えたかっただけの日記でした。
丁寧にどうも。ワイン会行ってみる!
ぬ~べ~は完全にアウトだったよな
そうなんだけど、それを指摘するとオタクがキレる
《かける数》と《かけられる数》の違いを意識して立式することが大事だって点については同意なんだけど、その上で。
「2つ入りのリンゴの袋が3袋あります。全部でリンゴはいくつあるでしょう?」
という質問に対して、
「3×2=6」
と答えた子供が、《かける数》と《かけられる数》の違いを理解できていないと断言するのは誤りだと思うんだよね。
これって、実は数え方の問題で「2個ワンセットのものが3つ」と数えるなら当然「2×3」になるんだけれど、例えば、袋からリンゴを取り出して数えるシーンをイメージして「A、B、C、3つの袋からリンゴを各1個ずつ取り出す動作を、何巡繰り返すとリンゴをすべて数え切れるか」をベースに考えると「3×2」が正解になるんだよ。
もちろん、大多数の人間は、自然と、元々出来上がっているセットが何セットあるかをイメージして数を考えるものだけど、その常識に囚われないリンゴの数え方だって問題なく成立する。
(余談だけど、こういう思考が普通にできる人は、ラテラル・シンキングに関して、天性の才能があると思う)
だから、確かに上記の問題で3×2=6という立式をした子供は、《かける数》と《かけられる数》の違いを理解できていない可能性もあるけれど、それを式だけから断定することはできないという話。
そして、100%の確度で誤答と断定できない以上、そもそも式の順序を採点基準にすること自体が無理筋だという結論になる訳だ。
どんなに頑張っても評価されないなら、頑張らないほうが得。
だからいじめも犯罪もなくならない、無くそうとするなら人類を全滅させる他無い。
そもそも、『感情を害する・害される』と言うことが起こること自体、何故そんな機能が実装されてしまったのか
生存本能の延長として、他者を足蹴にしおとしめる気になってしまう。そうしないと生きていけないように作られているのだ。
なんかよくわからなくってきた
どうやって生きていけばいいのか
アトピーでこんなに困るとは思わなかった
流石に参ってきた
何をしても楽しくない
寝る前はなんで生きているんだろうと思いながら寝る