http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20160129#p1
こういう書評が出てくるのを見ると、今回の手記の出版は効果的な一手だったのだなあと思う。私は小保方氏と同じような分野の大学院生なのだけど、研究室の先輩にも、この本の出版を受けて「やはり若山先生が悪者だったのでは?」というようなことを言いだす人がいて驚いた。まあ、感情に流されやすいかどうかは、文系理系とか関係ないことなので仕方がない。
私は、件の手記は未読だが、上のブログで引用されている部分だけを読んでも腹が立った。
「しかし、なにより不安に思っていたことは、若山先生の実験にはコントロール実験と呼ばれる対比のための実験が行なわれていなかったことだった。」
勘弁してほしい。それを不安に思うのならば、自分の博論とか実験ノートとか、見ていて不安にならなかったのだろうか。私の記憶では、STAP論文にとどめを刺したのは、博論からの画像コピペだったはずである。そして、その博論も中身がめちゃくちゃだったということで、さらに騒ぎが大きくなった。その不正に関しては誰に責任があるかは明白である。未読ではあるが手記ではスルーされているのだろう。
それから、コントロール実験が行われていない件については、そもそも発端となったOct4-GFPマウスの細胞を使った最初の実験でも、野生型マウスのコントロールはとっていない。この実験を主体的に行ったのは小保方氏ではなかったのか。この実験にすら責任が無いならば、むしろ件の論文の中で一体どんなコントリビューションがあったのだという話でもある。
ただ、もちろんすべてを小保方氏の責任にして周りが逃げるのは許されないことだ。論文の中身だけの問題に関して言えば、責任はコレスポが負うべきである。その意味ではもちろん笹井先生、若山先生も事実を明らかにする責任がある。ただ、アーティクルとレターの両方でコレスポだった小保方氏の責任が一番重い(彼女がコレスポになるにあたっていろいろな政治的判断はあっただろうけど)。それから、今再燃している議論の中で、アーティクルの方のラストコレスポは存在を忘れられすぎではないだろうか。
じゃあ、今夜はお前をおかずにしてやるよ(はぁと
だけど実態はどうだろうか。
「面白い」という噂を手に入れるために素人までが奔走し、PV数こそが正義だとばかりにあちこちに火をつける馬鹿まで現れた。
どうしてこうなってしまったんだろうか。
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何故だ。
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長い 3行に要約して
今までの人生でずっと真剣に悩んでいることがある。わたしは、異性をすぐに好きになってしまうのだ。
誤解しないで欲しいが身体の関係を持ちたいという意味ではない。求められれば断るつもりもないが、はっきり言ってそんなことはどうでもよいのだ。
異性に対し何かいい点を見つけてしまうと、それをきっかけに好きで好きでしようがなくなってしまうのだ。
聞かれる前に答えておくが、ルックスなんていうのも全く関係ない。むしろ大げさに言えば、その人の魂に吸い寄せられてしまうような感覚だ。
とにかく、いい点を持っていると異性が愛おしくて愛おしくて仕方がなくなってしまうのだ。
ただいい点といっても世間一般に受け入れられるようなものではない。だから、いわゆるモテている人間に対しては興味がないどころか、むしろ嫌悪感すらある。
別に世間の評価なんて関係ないのだ。とにかく一点でいい。べつに自分だけが知っているとかも関係ない。いうなれば、その人に芯の強さがあればよいのだ。
ただ困ったことに、そういう人に出会うと誰も彼もが好きになってしまうのだ。誰が一番とかではなく、それぞれの、それぞれがもつ魅力がそれぞれに好きになってしまうのだ。
極端な例を挙げると、先日は一人の中学生を好きになった。
普段あまり車の通らない、誰も守らないような信号のある交差点がある。つまりは車両側にのみ事故の回避を促すような信号がある交差点だ。そこに一人の中学生が立っていた。
はじめはそれが信号を守っているとは思わなかった。かといってキョロキョロするでもなく、とにかくそこに立っていることに違和感がなかったのだ。
そうしてわたしが交差点に差し掛かる頃、信号がちょうど青になると、その中学生は何事もなかったかのように信号を渡り始めた。
最初は偶然かと思ったが、大体同時刻に一緒になるその中学生は、やはり赤であれば渡ることはせず別に何をするでもなく横断歩道の手前に立っているのだ。
そのことに気づいた瞬間に、わたしはその中学生が好きで好きでたまらなくなってしまった。
はじめに断った通り、肉体の関係をもちたいかどうかんなんて本当にどうでもよいのだ。わたしは、自分さえも中学生の気持ちになって、その中学生と価値観を分かち合いたい衝動が抑えられなくなってしまったのだ。
それは好奇心や興味といった類の次元ではない。魂の一部を交換したいと思えるような衝動といっていいだろう。
ただ純粋にその中学生の価値観をに触れ、それを大切にしているということに愛を持って応えたいだけなのだ。
ところが、困ったことにそうした価値観に触れてしまうと、同時に何人もの異性を好きになってしまうのだ。
例えば同じ価値観を目の当たりにしたのであれば優劣がつけられるかもしれない。
しかし、わたしが心から愛してしまいたいという衝動は、それぞれ異なる内容に対してそれぞれに生まれてしまうのだ。
先ほどの中学生であれば、信号をはじめとする世の中のルールを守ることに対する美学に惹かれたとするならば、例えば自らの芸術性に対して信じて疑わない人間の、作品を生み続けるバイタリティに同時に惹かれてしまったりすることがあるのだ。
そうは言っても、わたしは自分の肉体が一つしかないことを知っている。
だから、二人の異性を同時愛そうと思うのであれば、どうしたって向けることのできる愛情も半分になってしまう。
そのことに対して、当然相手が気分を害するであろうことも想像ができる。
でもわたしにはできない。
どちらかに優劣をつけて、どちらかしか選ぶことができない現実を受け入れることがだ。
世間的にはそれを浮気というかもしれないが、そもそも同時に沢山の魅力を持ち得る人間だなんて少数でしかないのだ。
それなのに、自分だけを見ろだなんて都合が良すぎるのではないか。
一体世の中の人間は、どうやってその気持ちに終止符を打っているのだろうか。わたしのこの考えは、本当にそれほどまでに特異なものなのだろうか。
みなだって本当はそうしたいと思っているはずなのに、どうして世の中がそういう方向に向かおうとはしないのかが甚だ疑問でしかないのだ。
わたしが本当に異常なのか、そのどちらかだけでもはっきりできると嬉しい。