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はてなキーワード: 四日市ぜんそくとは

2024-03-23

そもそも地元名産品って、地元民が消費するんだろうか。

赤福を好む人も、伊勢うどんを好む人も見たことないし、

そもそも赤福に至っては近鉄の駅売店名古屋から奈良大阪まで、

どこでも買えるので、近鉄お土産品としての印象の方が強い。

志摩スペイン村鳥羽水族館遠足以外で行く人は知らない。

大阪粉もん文化にあこがれるけど関西にはなれず、

東京直通の交通機関夜行バスしかいから、

ディズニーへのあこがれを押し殺してUSJ妥協し、

教科書に乗っている有名なことと言えば四日市ぜんそくしか無い。

日本一短い名前県庁所在地を持つことがたまにネタにされるけど、

その津だって県内そこそこの進学校がある以外、何の特徴もない。

バスは1日1度来るを地で行く限界衰退集落、それがMIE

2024-02-15

味の素は(とっくに)化学調味料じゃないよ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/45027695e530e051763275a72d54d44c1509526a

昆布自然?)と味の素化学?)が対立概念である、という図式をスンナリ受け入れている人々が多いようだけれど、そういう人々はいまだに味の素石油化学合成食品だと考えているのだろうか。

 

味の素化学合成を中止して発酵製法に切り替えたのは1973年のことだ。

味の素グループの100年史 第7章 第2節

1973年5月14日にMSGの最終晶析、23日に最終分割を行い、試運転開始以来1010カ月にわたり続けてきた合成法によるMSG生産に終止符を打った。

(※MSG = グルタミン酸ナトリウム

 

60年代70年代日本では公害が大きな社会問題となっていて、石油化学工業全体に対する消費者からの風当たりは非常に強かった。四大公害病水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市ぜんそく)を小学校で習った人も多いだろう。

味の素の基幹工場は、ほかならぬ四日市市にある。上の資料でも、石油化学製品を過剰に警戒する消費者忌避感に逆らえなかった苦衷が(かなりあけすけに)綴られている。

1960年代前半には高い評価を得ていた技術が、わず10年余りのうちに一転して受容されにくい技術になった。その背景には、化学に対する消費者の劇的な意識変化があった。化学合成技術最先端技術としてもてはやす時代から公害元凶として排撃する時代に変わったのであれば、食品化学合成で作るというコンセプトは受け入れられない。

 

化学調味料得体の知れない身体に悪いモノ」という風評マイナスイメージ70年代にはすでに一般的だったのだ。時代PCB水銀カドミウムが重大な食害事件を起こしている真っ最中である化合物食品食品添加物に対する不信感は、現代オーガニック信仰などとはまったく次元の違う切実さがあったはずだ。

味の素の失敗は、せっかく製法を切り替えたのに商品名を変えなかったこに尽きると思う。すでにブランド確立していて手放しがたかったのだろうが、味も成分も商品名も同じままだったら、誰も作り方が変わったなんて思わない。新・味の素とか味の素ネオとか、あるいは全然違う名前をつけた化学じゃない方の旨味調味料を売り出して、オリジナル味の素は静かにフェードアウトさせるべきだったろう。令和の今に至っても味の素を「化学調味料」「化調」と呼ぶ人がたくさんいることが失敗をよく物語っている。

味の素系のブクマコメントを見ていると「親が味の素を嫌いだったか自分にも使う習慣がない」という2世アンチ散見される。事実を知らないまま「味の素悪者」というイメージけがから子へ、子から孫へと語り継がれてしまった結果である

古いイメージアップデートできていないだけならまだいい。それは無知なだけだ。

美味しんぼ』には、露骨に旨味調味料貶めるエピソードがある。山岡たちは(現在味の素発酵食品だと知りながら)わざと「化学調味料」という言葉を使い、味の素化学合成していた時代のままの主張を展開する。まるで電気自動車排気ガスが汚いと言っているようなものだ。

 

味の素の味が嫌いなら使わなければいいし、昆布の味が好きならば昆布を使えばいいし、「身体に悪いって言ってる人がちょいちょいいるから」くらいのよくわからん理由で使わないのもその人の自由だと思う。

追記

私は基本的増田追記ってしないんだけど、スカタンブコメひとつだけ晒し上げときます

安全とわかっているのだけど、遠慮したいのだね。味の素を愛好していた歌手タレントの方が「がん」で亡くなった。生前に特製ソースと謳って、味の素を大量に投入していたのテレビで観ていた。

2022-06-30

anond:20220629234522

汚染負荷量賦課金」って知ってっか?

大気汚染物質特に硫黄酸化物排出量に応じて金を支払わにゃならんシステム

4大公訴訟のうち四日市ぜんそく等の健康被害に対する賠償金の後払いだな

今もこれ支払ってる事業者は確かにいるから、元増田理論の成り立ちはする。

だが設立昭和49年1974年)。当時の人間も相当に支払ってるから

2022-06-22

anond:20220622095809

日本だってすごい発展してた時期あったけど、やれ鷲尾鉱山鉱毒事件だ、水俣病だ、カネミ油症だ、四日市ぜんそくだと、被害まくりだったよ

命に支障が出る程度に利益優先なわけ

中国で同じことが無いわけないでしょ

飲み水が汚染されてても、ミネラルウォーター買えない層はそれを飲むしかないなんてざらだよ中国

2021-09-16

日本公害歴史

バズってる「日本薬害歴史」の公害バージョン作ってみたよ。

 薬害歴史はてブhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/chou_kaorinn/status/1437974388062654468

足尾銅山鉱毒事件(1870年代)

政府古河鉱業「確かに鉱毒出したけど対策たからもうおしまい!」→谷中村農民「そうはいくか!ちゃん補償しろ!」→政府「お前らうるさいから消えろwww」→谷中村廃村村民強制退去

土呂砒素公害(1920年~)

宮崎県西臼杵郡高千穂町役人上級国民ヒ素粉塵災害なんて町の恥じゃ!隠蔽しろ!www」→50年後に住民西日本新聞被害告発してやっと被害が明るみに出る

イタイイタイ病(1955年~)

厚生省「過労か栄養失調じゃね?www」→「ごめん、鉱山から出たカドミウムが原因だった」

森永ヒ素ミルク中毒事件(1955年~)

厚生省「確かに森永ミルクが原因かもしれないが、明確な因果関係はないねwww」→森永(1970年)「ごめんなさい、やっぱりウチのせいでした」

水俣病(1956年~)

チッソ厚生省御用学者メチル水銀なんてない!そんなこと言い出す学者なんか日本に要らない!さっさと消えなwww」→「ごめんな、やっぱりチッソメチル水銀のせいだったわ」

四日市ぜんそく(1959年~)

三重県四日市市高度経済成長にはコンビナートがどうしても必要になるから我慢してくれwww喘息死ぬのは高齢者子供ほとんど死なないしwww」→「わりい、四日市乳児死亡率が全国1位、国内平均の2倍になってしまったwww」

カネミ油症事件(1968年~)

農水省「ダーク油(原因となった特殊な精製油)の提供なんか出来るかwwwおとといきやがれwww」→「ごめんな、あの時提供していれば・・・

2021-02-23

『えんとつ町のプぺル(1984年公開版)』

久々の休日、ふと思い立ってTSUTAYA映画を借りることにした

作品は、リマスター前の『えんとつ町のプペル』。最近リメイク版が公開されたらしいが、そちらはまだ見ていない。

ただ、ネット上の口コミを見る限り、今後も見ることはないだろう。

私にとってのプペルは、1984年地元映画館で見た、あのプペルで完成されているからだ。


えんとつ町のプペル』はその表題の通り、1960年代公害大気汚染テーマに描いた風刺作品だ。

主人公風太(ふうた・通称プー」)は三重県に住む高校生

中学までは野球部エースとして活躍していたが、練習試合中に激しい喘息症状を発症

四日市ぜんそく罹患者となり、甲子園への夢を絶たれることとなる。

無気力となり、私生活や授業でもぼんやりしがちな風太心配し、同級生も励ましてくれるが、効果はなし。

立ち並ぶ煙突からたなびく煙、紫雲の空。その下で生活しているため、激しい痛みや発作は時折風太を襲う。

そういった現状が、風太気持ちさら空虚にしていくのであった。


そんな彼に声をかけたのが、同級の久志山(くしやま)であった。

特に接点のない彼に乗せられるまま、流れで電話級アマチュア無線技士の講習に参加する。

「遠くに住む人と交流し、話せる。こんな楽しい趣味はない」と力説する久志山にお古の機材を押し付けられ、

家族や近隣の男性の(半ばおせっかいな)協力に巻き込まれる形で、

いまいち興味の湧かないアマチュア無線を渋々行う羽目になる。

一度目にCQ発信をするも、返信はなし。二度目は混線か、ノイズが返ってくる。

まあどうせそんなもんだ、と畳に身体を投げ出し、諦めかける風太

そこにか細い声が聞こえる。「……CQ,CQ、聞こえますか」

周波数の向こう側から声をかけたのは、富士市に住む照子(てるこ・通称『ペル』)だった。


偶然に近い出会いをもとに、彼らの交流は始まっていく。

四日市富士。二つの街に住む、元・野球少年と元・水泳少女

通信がつながるのは週に1度あれば良い方だったが、これをきっかけに風太無線にのめりこむことになる。

ひょんなことから、互いに公害による喘息持ちということが分かる風太と照子。

そして、挫折の末にアマチュア無線にたどり着いたことも。

境遇の近い立場ということもあり、交信中は話が弾む二人。

次第に性格野球を辞める前に戻り、久志山をはじめ学校の級友たちとも明るく話す風太

そう立ち直る彼のもとに一通の手紙が届く。

宛名は照子に教えた住所。しかし差出人は、照子の母・きみのものだった。

発作がひどく呼吸困難となり、照子が市の中央病院にしばらく入院すると知った風太

焦燥感を胸に一人、風太はヘドロと大気汚染の街・富士へと向かう――


そんなストーリーが、1984年のプペルだった。公害をもとにしたボーイ・ミーツ・ガール

『えんとつの煙の下で、僕らはつながっている』という捻りのないキャッチコピーが示す通り、

今となっては、いや当時からもありきたりな青春作品の一つ。

しかし、その背景舞台には工業至上主義への強い批判風刺が隠されている、という意味では真新しかったのかもしれない。

平凡な作品ながら、私の胸に残り続けていた作品、それがプペルなのだ

……散々探した末、邦画コーナーの隅にプペルはあった。いつの間にかDVD版になっていた。

ビデオのまま廃盤となっていた可能性もあるので、正直運が良かったと思う。


私も、この作品も、世間も。色々変わってしまったものはある。

しかし、あの頃にはいつでも帰れる。

不織布の借用袋を手に、私は心なしか明るい気持ちで、TSUTAYAを去ったのであった。

 
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