「下総国」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 下総国とは

2023-09-23

都道府県とか全部やめて、上野国とか下総国かに戻そう

国造かにしてさ。

荘園制度も取り入れよう。

墾田永年私財法も。

開梱したら俺の土地

素敵だ。

2022-06-17

anond:20220617112212

調べてもやっぱり結構あるな

東日本

八幡 (江別市)(やはた) - 北海道江別市

八幡 (石狩市)(はちまん) - 北海道石狩市

八幡 (倶知安町)(やはた) - 北海道虻田郡倶知安町

八幡 (八戸市)(やはた) - 青森県八戸市にある大字

八幡 (弘前市)(やわた) - 青森県弘前市にある大字

八幡 (三沢市)(やわた) - 青森県三沢市

八幡 (中泊町)(はちまん) - 青森県北津軽郡中泊町にある大字

八幡 (三沢市)(やわた) - 岩手県奥州市前沢区

八幡 (仙台市)(はちまん)- 宮城県仙台市青葉区。

八幡 (多賀城市)(やわた) - 宮城県多賀城市

八幡 (横手市)(やわた) - 秋田県横手市

八幡 (大館市)(はちまん) - 秋田県大館市

八幡 (湯沢市)(やわた) - 秋田県湯沢市

八幡 (猪苗代町)(やはた) - 福島県耶麻郡猪苗代町にある大字

八幡 (筑西市)(やはた) - 茨城県筑西市

八幡 (坂戸市)(やはた) - 埼玉県坂戸市

八幡 (川島町)(はちまん) - 埼玉県比企郡川島町

八幡 (市川市)(やわた) - 千葉県市川市にある町。 JR東日本都営地下鉄本八幡駅京成電鉄京成八幡駅がある。

八幡宿 (下総国) - 佐倉街道 / 成田街道宿場町現在千葉県市川市八幡)。

八幡 (君津市)(やわた) - 千葉県君津市にある大字

八幡 (館山市)(やわた) - 千葉県館山市

八幡 (市原市)(やわた) - 千葉県市原市

八幡 (富津市)(やわた) - 千葉県富津市

八幡 (平塚市)(やわた) - 神奈川県平塚市

八幡 (新発田市)(やわた) - 新潟県新発田市

八幡 (加茂市)(やわた) - 新潟県加茂市

八幡 (佐渡市)(やはた) - 新潟県佐渡市

八幡 (南魚沼市)(やわた) - 新潟県南魚沼市

八幡 (胎内市)(はちまん) - 新潟県胎内市

八幡 (佐久市)(やわた) - 長野県佐久市

八幡宿 - 中山道宿場町

八幡 (千曲市)(やわた) - 長野県千曲市にある大字

八幡 (静岡市)(やはた) - 静岡県静岡市駿河区

八幡 (浜松市)(やわた) - 静岡県浜松市浜北区

八幡 (藤枝市)(やわた) - 静岡県藤枝市

八幡 (伊豆市)(はつま) - 静岡県伊豆市伊豆地区にある地名

八幡 (静岡県清水町)(やはた) - 静岡県駿東郡清水町

西日本

八幡 (富山市)(やはた) - 富山県富山市

八幡 (南砺市)(はちまん) - 富山県南砺市

八幡 (入善町)(やはた) - 富山県下新川郡入善町

八幡 (小松市)(やわた) - 石川県小松市

八幡 (志賀町)(やわた) - 石川県羽咋郡志賀町

八幡 (越前市)(はちまん) - 福井県越前市

八幡 (岐阜県池田町)(やわた) - 岐阜県揖斐郡池田町

八幡 (一宮市)(はちまん) - 愛知県一宮市

八幡 (新城市)(はちまん) - 愛知県新城市

八幡 (知多市)(やわた) - 愛知県知多市

八幡 (蟹江町)(はちまん) - 愛知県海部郡蟹江町

八幡 (名張市)(やばた) - 三重県名張市

八幡 (近江八幡市)(はちまん) - 近江八幡市にある地区で、同市の旧市街地

近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区(おうみはちまんしはちまんでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく) - 上記にある重要伝統的建造物群保存地区

八幡中山長浜市)(やわたなかやま) - 滋賀県長浜市

八幡東(長浜市)(やわたひがし) - 滋賀県長浜市

八幡 (米子市)(やわた) - 鳥取県米子市

八幡 (琴浦町)(やわた) - 鳥取県東伯郡琴浦町にある大字

八幡 (岡山市)(やはた) - 岡山県岡山市中区。

八幡 (広島市)(やはた) - 広島県広島市佐伯区

八幡 (府中町)(やはた) - 広島県安芸郡府中町

市場町八幡(やわた) - 徳島県阿波市

井川町八幡はちまん) - 徳島県三好市

八幡 (新居浜市)(はちまん) - 愛媛県新居浜市

八幡 (熊本市)(やはた) - 熊本県熊本市南区。

八幡 (芦北町)(やはた) - 熊本県葦北郡芦北町にある大字

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1

2019-11-28

anond:20191127131352

つい先日、何かの本を読んでいて下総国範囲ぼんやりと知った。

房総だけではなく広い地域に渡っていたこと。

鎌倉から房総に上陸してきた関係で、上総国下総国命名されたらしいこと等々。

元増田みたいな人が居て良かったね。

2019-11-27

中学入試エラーチェックにて

むかし私立中学に勤めていた時

入試問題茨城県旧国名および東京都旧国名を問う問題が出された

正解は当然、常陸国および武蔵国なのだ

千葉に住んでる受験生だったのだろうか、両方とも下総国かいてあった解答用紙があり両方当然のようにバツがついていた

チェックしていた僕も当然やり過ごそうかと思ったのだが「まてよ」とおもい次の休憩時間図書室の歴史地図をみにいった

そう東京現在葛飾区墨田区茨城古河取手など県西地区全体は下総国なのだ

これをすぐ社会科教師に言うとすぐに教科会が招集され、1時間ほど議論されたが結局正解とすることになり、以後こういう曖昧な回答を許す入試問題はなるべく出さないことになった

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-08-20

anond:20180820112834

そもそも東京の区の名前

大田区」→「大森区」と「蒲田区」が合併するときに1文字ずつとった、

葛飾区」→本来の「葛飾」は下総国葛飾郡であって千葉東葛とか葛南とかも含めたもっと広い地域を指すのでアレが葛飾僭称するのはおかしい、

とかわりとガバガバだしな。

2017-12-31

新章突入直前 FGO 考察 脚本の人そこまで考えてないと思うよスペシャル

1.5章終了までのありとあらゆるネタバレ注意!!!!!!

====

匿名ダイアリーでの続きを読むの効き目が不明なので空行入れておきます



















3行でおk

魔術王が残した愛すべき残り物

未だに明かされていないのは「ホームズは誰が召喚したのか」であるカルデアではありえない。

ことから、おそらくゲーティア陣営なのだろう。

それではなぜホームズは霊基を削ってまでゲーティア打倒に協力するのか。それでいてなぜロマニを警戒するのか。

ところで、ソロモンは自らを犠牲ゲーティアを倒し、座から消滅してしまった。

しかし彼の千里眼は過去未来を見通す。ゲーティアが暴走する可能性を考えていなかったとは考えにくい。

そこで考えられるのが、「ホームズソロモン(ロマニになる前)がゲーティアに仕込んだ安全装置によって召喚された」という可能性だ。

彼はゲーティアが暴走し始めた際に召喚されて、それを止める役割を与えられていたのだろう。

そしてバベッジもおそらく安全装置の1つで、「ロンドンホームズ役割を伝える」のが役割だったのだろう。

これで「なぜバベッジは魔霧計画の主導役として召喚されたのにホームズに人理焼却の捜査を依頼していたのか」という謎も同時に説明できる。

また、ホームズ召喚される場所としてロンドン以上にふさわしいものはなく、元々ホームズ召喚されたのは4章なのではないか、とも考えられる。 (( なお、ソロモン(ゲーティア)の初登場は4章である ))

また、おそらくホームズロマニに抱いていた疑いは「ロマニはソロモン(ゲーティア)なのではないか?」なのだろう。

ゲーティアの一部からまれながらその計画を挫こうとするホームズ。万が一ゲーティアに漏れたら即座に消されてしまうはずだ。

事実ゲーティアがホームズ言及している描写は一切ない(はず……)。ホームズの慎重さは功を成していた。

また、バベッジはロボなのにキャスターで、ホームズは元々キャスターだが、この仮定ならば「作ったソロモングランドキャスターだったから」と簡単理由説明することができる。

あと、英霊の身代わりになって消滅した魔神柱は覗覚星、その能力は「結果推論」。奇妙な一致。

EoRホームズソロモン

ソロモン王の逸話との関連は他の方の考察 https://fusetter.com/tw/7Jgej に詳しい。この考察がなければここまで考えられなかったはずだ。

しかし数多いソロモン物語・偉業のなかで、「なぜこれら4つが選ばれたのか」についての根拠が弱い。

ところがここにホームズキャラ設定を当てはめると途端にピタリと合わさる。

新宿

ホームズ本人が6章で希望していた通りのロンドンに並び立つ大都市探偵活躍する場として最適。彼の「舞台

アガルタ

語り部によって作られたおとぎ話世界ホームズ実在人物ではなく本来物語の中の存在。彼の「出自

下総国

剣豪が鍔迫り合いする世界ホームズが使う「バリツ」は「武術」もしくは「バーティツ」(柔術ステッキと殴り蹴りを組み合わせた護身術)の誤字だというのが定説で、どちらも日本との関連が深い。彼の「戦法」

セイレム

クトゥルフ神話都市アーカム」のモデルで、ストーリー中でもクトゥルフ存在が登場する。ヨグ=ソトースは「門にして鍵」、時空を超越しておりあらゆる時代世界存在できる。これとホームズ関係は……?

ホームズクトゥルフ

ところでなぜホームズ複数特異点を移動できるのか。そしてなぜ移動の際霊基数値が消耗してしまうのか。さらに、なぜその見た目がフォーリナーに似ているのか。

おそらくホームズクトゥルフ神話の要素が付加されており、移動能力はヨグ=ソトースに由来する。英霊存在は「逸話信仰」によるもので、ホームズは「明かす者」である

そのためホームズが移動のためにヨグ=ソトースの権能を借りる際、 SAN 値チェックの影響を受けて霊基数値が下がってしまうのだろう。

その失われた霊基数値は EoR で彼にまつわる物語をなぞったことで、2章開始時にはほぼ回復しているのではないか。なぜなら、ホームズは第2章で仲間として活躍しそうだからだ。

FGOクトゥルフ

そもそも FGOクトゥルフ要素が出てきたのはセイレムが初めてではなく、プリズマコーズでナーサリーが降ろそうとしている。

そして代わりに出てきたのは魔神グラシャ=ラボラス。彼は「人を透明にする」能力があり、決戦後自ら結合を拒否している。

……ホームズに関わりがあるのでは?

正月礼装と序章

ただの状況証拠にすぎないが、「ホームズダヴィンチちゃんがマシュを交えて仲良くカルタで遊び、それを主人公が見守る」という礼装を出しておいて、2章でホームズが敵に回ったり、味方でもすぐ死んだりするとは少し考えにくい。

序章においてダヴィンチちゃんが唯一残した切り札ホームズであることから、味方であることはほぼ確定したと言っていい(ほんとか?)

また、ダヴィンチちゃんいわく「探偵なのに魔術にも詳しい」ということも、ホームズソロモン由来の存在仮定すれば不自然ではない。

彼がソロモン(ロマニ)由来の存在だとしたら、カルデアに味方するのは当然の流れと言えるだろう。

そして、ダヴィンチちゃんいわく「探偵の特技は鍵を開けること」、「門にして鍵」であるヨグ=ソトース、またアビーの額の鍵穴、これらの要素の一致も気になるポイント

ホームズ体験クエストで語られた内容、ホームズ目的

ソロモンゲーティアの暴走を見越していたとすれば、最終的にゲーティアを止めるためには自身存在犠牲にしなければならないことも予測していたはずだ。

そしてソロモン安全装置としてホームズを用意したのなら、ソロモンがいなくても大丈夫なように代わりを作る手段か、ソロモン自身を復活させる手段ホームズに組み込んでいてもおかしくない。

またセイレム以前にもクトゥルフ存在降臨させようとした ((しかも代わりに魔神柱が出た)) 例があった以上、FGO 世界クトゥルフ神話には何らかの繋がりがあり、ソロモン(ロマニになる前)がクトゥルフ存在契約・協力・利用などをした可能性は否定できない。

このことまで含めて考えると、以上の仮定の内容は、シャーロック・ホームズ体験クエストで語られた内容と奇妙な一致を見せる。

ホームズは夢の世界に介入できないからこの世界は夢ではない。しか空想キャラのはずのホームズがいる

ヨグ=ソトースの一面にウムル・アト=タウィルというものがいる。彼は「門の守護者」で「ふさわしき旅人を案内する」存在であり、「夢を現実にする」ことができる。またヨグ=ソトー本体と違い、彼がふさわしいと認めた人間に対しては友好的である

英霊ホームズの成立と能力付与は、ソロモンとヨグ=ソトース(の一側面)の能力があれば十分実現できる。

伝説の英雄伝説ほとんどは後世の創作で、ホームズとの差異実在証拠の有無でしかない。そういった英雄でさえ決定的な証拠はなく、ホームズとそこまで変わらない。

英霊召喚システム自体実在英雄だけでなく、人々の創作した物語の具現化を許している可能性がある。英霊ホームズ召喚ハードルはそこまで高くないかもしれない。

では EoRソロモンホームズと多かれ少なかれ関係している4つの物語」を辿っていった理由とは……?

また、アラフィフの「魔術の領域では証拠などいくらでもある」といった言葉に対して、「現実は薄皮一枚にすぎない」「人が知る必要はなく、知ってはいけない」と返しており、「クトゥルフ神話真実」の性質 ((人間の知る世界など宇宙的恐怖の前ではちっぽけなもの。それは狂って理性を失うことで初めて理解できる)) を彷彿とさせる。

ホームズカルデアの鯖になった際、抑止力ルーラーにされた。それは人類史を維持するため、彼が幻想と夢を明かしきらないようにするため。

まり、元々のホームズ抑止力のあり方とは全く違う存在だったことがわかる。

これと抑止力特異点に介入できないことより、本来ホームズ(キャスター)を召喚したのは抑止力ではないことはほぼ確実のように見える。

では誰が?それはこれまで一度も語られていない……

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん