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2024-03-14

住民反対運動で街が発展した話すき

これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638

 

池袋サンシャイン地下道

巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。

一番反対したのは洋菓子店タカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。

これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン

地下道都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。

しか地下道入口東急ハンズオープンすると付近カメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル映画館誕生し、池袋東口東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。

 

池袋馬券売り場

90年代JRA女性ターゲットとしたCMを打つなど競馬イメージアップに努めてはいた。

だが池袋東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージ悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRA土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロン飲食室などを設ける大規模な計画だった。

この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在LABIとなり、池袋家電激戦区っぷりに火を注いだ。

 

立川飛行場

米軍接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地家屋に収用が掛かった。

これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地侵入などの事件が起こり大騒動になった。

憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件

この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町横田基地に集約する事を決定。立川飛行場日本返還される事になった。

箱根ヶ崎付近八高線国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である

 

返還された立川飛行場学校研究所法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。

真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。

 

なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7

(よく見ると滑走路アプローチ>>>>のペイントがうっすら残る)

 

埼京線大宮交通

東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音振動問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線ゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。

そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民利益にもなるスキームにした。

この為に赤羽大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。

なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。

 

神楽坂

空襲失地区の戦後復興東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。

そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的方法を試す事にした。

しか優越資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。

その為に神楽坂は失敗のモデルケースとされていた。

しか建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。

 

歌舞伎町

戦後歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。

しか高田馬場を始発駅とする西武新宿線新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町付近に仮駅を設置された。

当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地勝手占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しか権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。

その為に歌舞伎町地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。

そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。

 

鉄道忌避説は後世の作り話が多い

ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638

 

流山

流山常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。

田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦牛久沼手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。

問題北千住から柏で、今の南回り松戸ルート八潮三郷流山の北回りルートTXコース)がある。

でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウン南側田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮市街出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。

から日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ

 

鳩ケ谷

日光御成街道宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし

これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。

 

日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。

 

海食崖

上野駅を出た京浜東北線大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。

地球の海面は氷河期には氷河南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。

縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)

海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである

すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである

まり上野赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。

 

波蝕台

波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。

上野赤羽では小規模な波蝕台が連続京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。

この波蝕台跡は他の低地より少し高いか田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。

 

砂嘴

陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である北海道標津の野付半島京都天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。

赤羽台地の角なので波蝕台に繋がる形で砂嘴が出来た。

この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴江戸時代荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。

 

荒川川口町

当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。

 

川口町から熊谷まではほぼ真っすぐ

川口町からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。

特に芸術的とさえ見えるのは南浦和北浦和間だ。

https://maps.gsi.go.jp/#15/35.859927/139.661572/&base=std&ls=std%7Canaglyphmap_color%2C0.79&blend=0&disp=11&lcd=anaglyphmap_color&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。

浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である

 

大宮から先も小さいカーブ芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体芸術点高いルートを通っているのでこの区間コピー忍者って感じだ。

 

このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。

 

当時の日本が高度な測量でルートを決められたワケ

文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?

お雇い外国人英国人の力だけではない。江戸時代新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ

台地上に水田を作る場合もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。

 

やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。

更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側からセンチ下/上がっているかが判る。

これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。

 

という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。

2024-02-06

吉原は苦界十年と言われたくらい当時から女にとって地獄であったけど、口減らし対象はもっぱら男児なんだぞ

吉原女郎宿場町飯盛女平均寿命24前後だけど、それ以前に殺される男児が沢山いたのだ

女が恵まれていたと言いたいわけじゃないぞ

2024-02-01

anond:20240201200137

逆に言えば、近代になって新しく要所として確立することに成功した街は全然無いということなのかもなあ。残念ながら…。

明治維新後でよければ、北海道札幌横浜市中心部は該当するかなと思う

北海道札幌明治政府によって開発されたかドンピシャ

横浜中心部外国人日本人の交わりを避けるために辺鄙横浜村を敢えて港にしたという経緯があって、そこからインフラが何かと整っていったか中心部が栄えたという話がある

今となっては外れの場所の方が東海道宿場町があったりして栄えてたので、横浜市全体というと違うかなというところだけど

後はやっぱ異例の発展を遂げたのは千葉市と思う

かにある程度は交通の要所だったけど、関東ローカルレベルだったのが政令指定都市になった感はある

anond:20240201173618

浜松が栄えてるのは、東海道の大きな宿場町だった、ってことも結構大きそうに思うわ

岡崎三河だと大きな街だけど、あれは完全に宿場町の名残と思う

気になったので、豊田刈谷についても調べてみたんだけど、この二つは大きな宿場町はないことが判明した

一方、厚木はどうだったか調べたら、交通の要所で大きな宿場だったらしい

答えは、古くから栄えた街がそのまま現代でも栄えたってことだったっぽいね

なるほど。古くから栄えてる街が現代でもそのままというのは知ってたけど、厚木浜松もそうだったのは知らなかった。

西日本も栄えてるのはだいたい元城下町なんだよな。

そりゃ明治以降近代化していく際に、どこに道路を通したり駅作ったりするかって考えたらその時栄えてるところにするに決まってるから、当然の結果でそうなったんだろうな。

逆に言えば、近代になって新しく要所として確立することに成功した街は全然無いということなのかもなあ。残念ながら…。

千葉の人が郊外型というのは同意

本来駅前商店街が栄えるポテンシャルはあるんだけどね

なぜかというと道路がクソすぎて渋滞がひどいか

俺はあまりの酷さに耐えられず車手放した

かに千葉道路はクソすぎる。

というか千葉、全体的にやる気が感じられないんだよな。

成田空港総武線沿線の一部があるからそれで十分ですわ。あとは千葉ニュータウンとか幕張とか流山とかを東京ベッドタウンにしてやっていきますわ。

くらいで満足してる感じがビンビンする。最初から諦めてるので試合終了ですって感じ。

anond:20240201171055

豊田市は割と栄えてると思うけど、デンソーアイシンがある刈谷市はショボショボ。まあそれこそ名古屋に吸収されてるという気はするけど。

言われてみると、豊田市駅も42万人都市玄関駅の割にしょぼいな

でも、愛知場合電車社会じゃなくて、車社会からっていうのがいちばんしっくり来る

名古屋から豊田でも電車使わずに車で行く連中はかなりいるだろう

一方で浜松とかかなり栄えてると思うんだよね。でもヤマハ程度のパワーでそこまでいくか?と思う。

浜松が栄えてるのは、東海道の大きな宿場町だった、ってことも結構大きそうに思うわ

岡崎三河だと大きな街だけど、あれは完全に宿場町の名残と思う

気になったので、豊田刈谷についても調べてみたんだけど、この二つは大きな宿場町はないことが判明した

豊田の端に足助という宿場町があるが、合併豊田市になったような端なので、ちょっと例外かな

一方、厚木はどうだったか調べたら、交通の要所で大きな宿場だったらしい

答えは、古くから栄えた街がそのまま現代でも栄えたってことだったっぽいね

千葉生活のための細々とした街道があったくらいだもんな

明治まで市川湘南のような避暑地別荘地だったみたいだから、栄えてなかったんだよね

千葉人間生活スタイルとして完全に郊外型なので、田舎と同じで駅前商店街が廃れてイオン的なモールに全て吸収される傾向はあるかも。

千葉の人が郊外型というのは同意

本来駅前商店街が栄えるポテンシャルはあるんだけどね

なぜかというと道路がクソすぎて渋滞がひどいか

俺はあまりの酷さに耐えられず車手放した

なんか答えが出た気がするわ、ありがとう

2023-10-06

田舎観光に行くとどこも同じでつまらない

産直市場

→どこも同じ。野菜の種は共通から当然か。


郷土資料館

→似たような展示ばかり驚く。昔の田舎暮らしって同じだよな。


宿場町街道など

→全く同じでびっくりする。北海道から沖縄までそこまで代わり映えしないよな。


美術館博物館

10か所も回ればパターンが同じなのが見えてくる。都会のように金かけられないから仕方ないね


道路

舗装って全国同じだから全く同じ景色に見える。ガードレールカーブミラー白線、全部同じ。


・お城、神社仏閣

観光の目玉にしてるけどそこまで変わらないよなあ。教科書でやったとこだ程度。


温泉街

→同じすぎて恥ずかしくないの?ってレベル


古墳古代集落

→展示内容が全国ほとんど同じで驚く。わかったことだけ書くしかいかしょうがいね


戦国武将偉人歴史上の人物

→だいたい同じ。時代が同じだと違う人物なのに書いてあることが似通ってたりする。


古戦場事件現場

→昔の交通要衝って今は何もない、同じような場所だよな。立札に書いてあることもだいたい同じ。


絶景

→山、海、街、だいたい同じパターンだよなあ。役場観光課が作ってるような展望台に行くと落胆するのも同じ。

2023-10-04

港区女子ってさ……

品川駅あたりでブイブイ遊んでいるわけでしょ。

まり昔の宿場町でいうたら、日本橋からひとつめの品川宿あたりで遊んでいるって考えてもいいわけだ。

京都でいえば、滋賀県大津とか、伏見とかでブイブイ遊んでいるのと同じ距離感だよね。

ずいぶん都から離れた遠いところで、元気に遊ばれてはるんですなぁ……そんな遠いところ、エエ人なんて、たまにしか行きはりませんでしょ?ガッつくのも無理ありまへんなぁ。

2023-09-21

anond:20230921154943

今の日本駅前シャッター商店街だって江戸明治時代まで栄えていた旧街道沿いの宿場町を「シャッター商店街」化させていたからね。

信越本線の開通によって、沿線北国街道宿場町機能が壊滅したように。

約80~100年の月日を経て、宿場町を壊滅させた駅前商店街が同じ目に遭っているだけだと思う。

街道沿いの宿場町駅前商店街→国道沿いのロードサイドネットショッピング(今ココ)。

ロードサイド店舗群も、そのうちシャッター化すると思う。

2023-09-13

相対的位置で表される地名が恥ずかしくて改名された例

元増田みたいなのが居るから地名変えちゃったってケースを出すよ。

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230912103559

 

 

志茂

地下鉄南北線志茂駅というのがあるが、ここは昭和初期まで「下村」だった。上村は近くにないので、岩淵宿から見て下の村という意味かと思われる。

関東大震災後に人口流入して町になる時、「下町」じゃあれなのでちょっとこじゃれて「志茂町」とした。

後に町が取れて志茂となり、駅も出来て有名になったが、住んでる人も元は「下」のこじゃれた書き方だったとは知らないことが多い。

 

西川口

西川口駅の西口周辺はかつては横曽根村だった。

関東大震災後に東京近郊は下町から移住人口が増え始め、川口町合併して川口市になる横曽根人口が増える前に区画整理をする事になった。

新しく升目に近くされた区画町名を付ける必要がある。

横曽根の中心の北には「北」、南に「南」というおざなり小字があり、西側は「新田」という小字があったので、「北」を「北町」、「南」を「南町」、真ん中を「仲町」とし、西側新田は「仁志町」とした。

仲は中を、仁志は西をこじゃれた風にしたものだ。

だが西川口駅が出来て人口がどっと増えると、駅西側は全部西川口にしちゃえという事になって北町も仁志町も全部西川口になってしまった。

「仁志」とかせっかく付けたのに結局に「西」で上塗りされちゃっというケースである

 

余談だが、南町は残ったのだが、ここは市境に近く、川口市南町から歩いて5分に蕨市南町があるので混乱の元だ。この命名法はよくない。

 

上板橋中板橋

先の事を考えない鉄道会社に振り回されたケース。

東上線中板橋駅の西側に711の弥生町店があるが、実はこの辺りは川越街道上板橋宿跡である

大正初めに東上鉄道(現東武東上線)が開通すると、始発駅の池袋の次は板橋下宿に近く貨物扱いで重要下板橋駅が設置されたが、その次は4km先に設置する事になった。当時は蒸気機関車単線運転から交換用の駅で距離もその程度が適当だった。

だが駅の周りがマジで何もない。だから駅名に適当地名も無い。

そこで3km程離れているが著名な宿場上板橋を駅名にした。

だが昭和初期に電化されて加速性能がいいので駅を沢山作る事になり、下板橋上板橋の真ん中にも駅を作る事になった。だがこの近くの地名は、上板橋宿に因んで全域が上板橋になっていた。

でも下と上の中間板橋から中でしょと「中板橋」駅としてしまった。

すると上板橋上板橋付近になくての隣の駅の周辺にある、しかもその駅名は中板橋というおかしなことになってしまった。

地名変更できるようになると上板橋は古い名前を捨てて「弥生」というこの地に特に縁のない名前にしてしまった。

全部先の事も考えないで行動する鉄道会社のせいである。

 

池袋

元々池袋村は今の下板橋駅付近が村の中心で(現池袋本町)、池袋駅が設置された当初は池袋村の村の外れの村境ぎりぎりの場所だった。

今の西口付近はその名も「上」という小字場所だった。その他にもこの周辺は「原」とか「下上」とか「西山」とかおざなりの超てきとうな小字ばかりであった。さすがは人もろくに住まず雑木林のままの村はずれだ。

だが鉄道がどんどん集まってきて人口も増えるとそんなてきとう地名は「池袋」で消されて無くなってしまった。

そもそも下上って何なのか?

 

墨田隅田

葛飾区足立区区界を見ると綾瀬駅付近で絡まったコードのようにやたらグネグネしている。これは古隅田川の流路で、中世では住田河と呼ばれていた。

荒川放水路が出来るまでは堀切駅付近で今の隅田川に合流していたので、その上流までが荒川、その下が隅田川と呼ばれていた。

この隅田川の東に隅田村というのがあった。

一方、江戸時代水墨画流行すると、「墨」という字とそれを「ボク」と読むのが粋でブランド価値を持つようになった。

隅田川がカーブしながら先述の古墨田川と合流する場所の外側にあるのが隅田村で、洪水が頻発するので幕府隅田堤という陸の堤防を築造、桜を植えた。桜を植えるのは花見客が大挙して訪れて踏み固められるからである。今も川べりに桜が植樹されるのはこの幕府の知恵に由来する。

するといい景色なので山水画浮世絵が多く作られたが、何しろ「隅」より「墨/ボク」の方がカッコいいもんで、隅田堤じゃなくて「墨堤/ボクテイ」と題されたりした。

その他にも隅田村/隅田川関連のものが「墨田」と呼称されたので、隅田村→隅田町となっていたが住んでる人らは勝手に隅っこよりもイキな方がいいと「墨田町」と書くのが流行し、本所区と向嶋区が合併した際には墨田区となった。

隅田町が町名変更できるようになるとこれもやはり墨田となった。

 

仲宿

中仙道板橋宿は超巨大宿場町で、JR板橋から都営地下鉄板橋本町駅の2.5kmくらいもあり、北から上宿、中宿、下宿下板橋宿/平尾宿)と分かれていた。

鉄道道路時代になると宿場町の記憶は無くなって何が中なんだという事で、仲宿と改称された。

 

台東区

浅草区下谷区合併したのが台東区

下谷はいかにも下に見られてるみたいなので、台地の東、と台頭を兼ねた造語を区名にした。

吉原遊郭とか上野周辺とか山野とか実際にスラムが幾つかあったのが余計にコンプレックスを刺激した。

 

十条上十条

十条と呼ばれる地区には北側上十条村、南側に下十条村という二つの村があった。尚、この当時の上、下というのは京都に近い方が上である江戸北側には中仙道があるので京都に近い方の北が上であって、東海道周辺なら西が上になる。

両村を縦貫する形で日光御成道(別名 岩槻街道)があり、下十条宿という幕府非公認の小さな宿場町があった。今の東十条駅から坂上がったあたりの塾や郵便局があるあたりである

明治になりその十条の西の方に現赤羽線埼京線。開通当時は日本鉄道品川線)の十条駅が出来た。

次に東北本線京浜東北線)にも駅が出来る事になったが、当然、一番栄えている下十条宿に近い場所に設置された。また駅に来れる道もある。だから当然駅名も下十条駅だった。

ところが昭和住居表示町名が変えられるという事になると、下十条が「今は東京駅に近い方が上だからこっちが上十条だ」とか言い出す。

それで町名を押し出された元の上十条は、下はヤダってことで中十条となってしまう。何でだ。

駅の東側の元は十条じゃなかった辺りは東十条となった。

こうして下十条が無くなったのに駅だけ下十条を名乗ってる状態になったので、十条の東だし、東十条に隣接してるってことで改称されて東十条駅になった。

そりゃ下扱いは誰でもイヤなもんだが、下剋上的というか身勝手というか。

 

田園調布

田園調布がある場所はかつて荏原郡調布村だった。

ここを東急電鉄後藤慶太デベロッパが買い上げ高級住宅地田園調布」の分譲を開始、鉄道も開通し、調布駅が設置され、直ぐに田園調布駅に改称される。

「田園」の文字の由来は、ロンドンに視察に行った後藤田舎に住んで都会に鉄道通勤するというゆとりがある生活スタイルに触れて感銘を受けたため。当時のロンドン児童含む超絶ブラック搾取労働や、一晩で数百人が死ぬほどの超絶大気汚染ゴミや糞便に混じって死体流れるテームズ川の超絶河川汚染、多発するスリ強盗殺人林立する売春婦など、文字通りに死ぬほど環境が悪かったために富裕層にこのような生活スタイル流行した。

昭和3年に人口が増えて町制施行されることになったが、調布町とすると京王線沿線調布と被ってしまうので「東調布町」と呼称

だがその僅か五年後には荏原郡自体東京市に編入されて東調布町も消滅。短い命であった。

初めは東急の子会社デベ)が開発した駅前の高級宅地けが田園調布だったが、住居表記施行町名変更が可能になると、元の田園調布の周りの○○沼とかの町も「沼とかヤダ田園調布にしたい」という事になって、全域が田園調布となった。

この為に駅の裏側とか川べりの低地とかあんま高級じゃない田園調布が沢山ある。

2023-06-24

日本宿場町ってマジで全部おなじだよな。コピーアンドペーストたかのように同じ。」

東海道五十三次ロードサイドを『コピーアンドペーストたかのように同じ』にしか見れない人間宿場町への解像度が不足しているか単に感性が足りないかのどちらかで、旅籠資本茶屋メニュー問屋場の馬など、よく観察すればその土地の特色が見えてくる」

2023-03-24

おいGPT-4、結構いい加減なんだな

ワイ

日本47都道府県それぞれの名産品を教えてください。

GPT-4

はい日本47都道府県それぞれの名産品を教えます。以下は、各都道府県名産品の一例です。

北海道海産物ズワイガニホタテウニなど)、ラベンダージンギスカン羊肉焼肉

青森県りんごねぶた祭りカツオのたたき

岩手県南部せんべいひもかわうどんわんこそば

宮城県牛タンずんだ餅ひとめぼれ

秋田県なまはげきりたんぽ稲庭うどん

山形県さくらんぼ、米(つや姫さがびよりなど)、芋煮会

福島県:桃、アサリ郡山ラーメン

茨城県水戸黄門まつり水戸納豆ひたちなか海浜公園

栃木県餃子、もち米、宇都宮焼きそば

群馬県草津温泉焼きまんじゅう、みそだんご

埼玉県川越祭り川越しょうゆ、浦和レッズ

千葉県幕張メッセ、房総の酒、佐原宿場町

東京都東京タワー浅草寺新宿歌舞伎町

神奈川県箱根温泉横浜中華街江ノ島

新潟県コシヒカリ越後魚沼産コシアブラ佐渡かに

富山県黒部峡谷高岡鍛冶屋町、白エビ

石川県兼六園輪島塗、加賀温泉郷

福井県越前そば若狭湾カニあわら温泉

山梨県富士山ほうとう甲州ワイン

長野県信州そば蓼科軽井沢

岐阜県郡上おどり岐阜城飛騨牛

静岡県富士山


(22番目の静岡で止まったのでリトライしたら、今度は17番目で止まった)

(Regenerate responseを実行)


以下に、日本47都道府県のそれぞれの名産品を紹介します。

北海道ジンギスカン海鮮牛乳バタークリームスイートコーン

青森県りんごねぶたとろろ汁きりたんぽ海産物

岩手県南部せんべいわんこそば盛岡冷麺イカさんま

宮城県牛タン、かき、煮しめずんだ餅伊達巻

秋田県きりたんぽ鍋、稲庭うどんなまはげ秋田杉、きんかん

山形県さくらんぼ温泉卵、はまぐり汁、山形牛、出羽三山

福島県:ふくしま和牛、ふくしまもも会津蕎麦猪苗代湖大内宿

茨城県水戸黄門、もつ煮餃子、ひもの笠間焼

栃木県とちおとめうつぼやき宇都宮餃子塩釜あんかけ焼そば日光東照宮

群馬県赤城そば焼きまんじゅう草津温泉おはぎみそ漬け

埼玉県川越だんご、とんかつ草加せんべい熊谷うどん秩父神社

千葉県アンコウ鍋、佐原の町並み、烏賊塩辛あんぱん、餃子

東京都寿司天ぷらうなぎもんじゃ焼き東京タワー

神奈川県横浜ラーメンしらすサザエ湘南海岸鎌倉大仏

新潟県越後ぶらぶら茶、胎内の滝、いわしなめろう、笹団子、上越地鶏

富山県:白エビブリ富山ブラックラーメンジャイアント発電、高岡大仏

石川県金沢カレー加賀野菜、能登牛、兼六園金沢21世

2022-06-17

anond:20220617112212

調べてもやっぱり結構あるな

東日本

八幡 (江別市)(やはた) - 北海道江別市

八幡 (石狩市)(はちまん) - 北海道石狩市

八幡 (倶知安町)(やはた) - 北海道虻田郡倶知安町

八幡 (八戸市)(やはた) - 青森県八戸市にある大字

八幡 (弘前市)(やわた) - 青森県弘前市にある大字

八幡 (三沢市)(やわた) - 青森県三沢市

八幡 (中泊町)(はちまん) - 青森県北津軽郡中泊町にある大字

八幡 (三沢市)(やわた) - 岩手県奥州市前沢区

八幡 (仙台市)(はちまん)- 宮城県仙台市青葉区。

八幡 (多賀城市)(やわた) - 宮城県多賀城市

八幡 (横手市)(やわた) - 秋田県横手市

八幡 (大館市)(はちまん) - 秋田県大館市

八幡 (湯沢市)(やわた) - 秋田県湯沢市

八幡 (猪苗代町)(やはた) - 福島県耶麻郡猪苗代町にある大字

八幡 (筑西市)(やはた) - 茨城県筑西市

八幡 (坂戸市)(やはた) - 埼玉県坂戸市

八幡 (川島町)(はちまん) - 埼玉県比企郡川島町

八幡 (市川市)(やわた) - 千葉県市川市にある町。 JR東日本都営地下鉄本八幡駅京成電鉄京成八幡駅がある。

八幡宿 (下総国) - 佐倉街道 / 成田街道宿場町現在千葉県市川市八幡)。

八幡 (君津市)(やわた) - 千葉県君津市にある大字

八幡 (館山市)(やわた) - 千葉県館山市

八幡 (市原市)(やわた) - 千葉県市原市

八幡 (富津市)(やわた) - 千葉県富津市

八幡 (平塚市)(やわた) - 神奈川県平塚市

八幡 (新発田市)(やわた) - 新潟県新発田市

八幡 (加茂市)(やわた) - 新潟県加茂市

八幡 (佐渡市)(やはた) - 新潟県佐渡市

八幡 (南魚沼市)(やわた) - 新潟県南魚沼市

八幡 (胎内市)(はちまん) - 新潟県胎内市

八幡 (佐久市)(やわた) - 長野県佐久市

八幡宿 - 中山道宿場町

八幡 (千曲市)(やわた) - 長野県千曲市にある大字

八幡 (静岡市)(やはた) - 静岡県静岡市駿河区

八幡 (浜松市)(やわた) - 静岡県浜松市浜北区

八幡 (藤枝市)(やわた) - 静岡県藤枝市

八幡 (伊豆市)(はつま) - 静岡県伊豆市伊豆地区にある地名

八幡 (静岡県清水町)(やはた) - 静岡県駿東郡清水町

西日本

八幡 (富山市)(やはた) - 富山県富山市

八幡 (南砺市)(はちまん) - 富山県南砺市

八幡 (入善町)(やはた) - 富山県下新川郡入善町

八幡 (小松市)(やわた) - 石川県小松市

八幡 (志賀町)(やわた) - 石川県羽咋郡志賀町

八幡 (越前市)(はちまん) - 福井県越前市

八幡 (岐阜県池田町)(やわた) - 岐阜県揖斐郡池田町

八幡 (一宮市)(はちまん) - 愛知県一宮市

八幡 (新城市)(はちまん) - 愛知県新城市

八幡 (知多市)(やわた) - 愛知県知多市

八幡 (蟹江町)(はちまん) - 愛知県海部郡蟹江町

八幡 (名張市)(やばた) - 三重県名張市

八幡 (近江八幡市)(はちまん) - 近江八幡市にある地区で、同市の旧市街地

近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区(おうみはちまんしはちまんでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく) - 上記にある重要伝統的建造物群保存地区

八幡中山長浜市)(やわたなかやま) - 滋賀県長浜市

八幡東(長浜市)(やわたひがし) - 滋賀県長浜市

八幡 (米子市)(やわた) - 鳥取県米子市

八幡 (琴浦町)(やわた) - 鳥取県東伯郡琴浦町にある大字

八幡 (岡山市)(やはた) - 岡山県岡山市中区。

八幡 (広島市)(やはた) - 広島県広島市佐伯区

八幡 (府中町)(やはた) - 広島県安芸郡府中町

市場町八幡(やわた) - 徳島県阿波市

井川町八幡はちまん) - 徳島県三好市

八幡 (新居浜市)(はちまん) - 愛媛県新居浜市

八幡 (熊本市)(やはた) - 熊本県熊本市南区。

八幡 (芦北町)(やはた) - 熊本県葦北郡芦北町にある大字

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1

2022-04-21

anond:20220421110822

たまごふわふわ」は静岡県袋井市ご当地グルメ

袋井東海道五十三次のど真ん中の宿場町だった。

この「たまごふわふわ」も、実は袋井宿で朝食のお膳に出された料理なんです。

さらにいえば、将軍徳川家の祝宴料理として登場したこともあり、当時は名のある武士豪商が食したセレブ料理だったとか。

こう見えて、由緒正しい高級卵料理

江戸時代の文献『東海道中膝栗毛』や豪商旅行記に記録が残っていたため、

それを参考にして袋井市観光協会再現したんだと。

2021-02-13

anond:20210213085130

景勝地っていうと秩父とか三峰山おすすめ

秩父から山梨に抜けるトンネル冒険ぽい

あとはサイボクハム

タモリ倶楽部でやってた寄居の「川の博物館」の日本一の地形模型は行ってないけど面白そう

高崎線沿線は昔の中山道沿いで古墳とか宿場町とか寺とか神社とか結構あるけどどれも地味

荒川サイクリングロード自転車で走るのは気持ちいいよ

2020-12-18

anond:20201218091507

日本中どこでもそうだが

自営業、在宅勤務するわけじゃなきゃ、都心部じゃないと高給な仕事はないぞ

 

青梅市の平均所得年収

2019年平均所得317万4434円 

indeed青梅市求人の様子

https://jp.indeed.com/jobs?l=東京都+青梅市&radius=0

 

ちなみに

1位 港区 1217万218

2位 千代田区 1081万5822円

3位 渋谷区 872万9986円

ドベ 足立区 346万8869円 ← 元宿場町農村町工場現在に至っても大企業がない

2020-09-29

ーーーーーー

呉服(ごふく)は日本における織物呼称の一つで、特に絹織物を指したことから洋服が普及したのちにハレの衣装となった和服用反物の呼称[1][2]となり、そこから和服のもの呼称[3]ともなっている。中世日本では織機の意味から、呉織・呉服(くれはとり)と呼ばれ、後に「ごふく」と音読されるようになった。

ーーーーーー

さようなら場末宿場町から来た着物箪笥

私は呪いを壊しま

行ってきます

2020-05-12

anond:20200512172100

埼玉中山道日光街道を擁して、江戸時代から宿場町面影を残しており、地場の小規模旅館が多い印象。

東横インみたいなのも地場地主フランチャイジーになってるのが多いと思う。

千葉昭和期以前は鹿島香取成田山くらいしか旅客の往来はなかった。

千葉ホテル成田空港TDR周辺をはじめとして大規模資本によるホテル展開が多そう。

2019-12-03

ダンジョン

「突如現れたダンジョンにより活気付いている町」みたいな設定なのにダンジョンが町はずれにあったらまあおかしいじゃん ちょくちょく見かける気がするんだけど

でも実際ダンジョンを中核に発展した町ってどういう構造になるんだろ 入り口を真ん中に据える形になるのかな それとも危ないから町からは離すのか?どっちにしろ医療施設入り口のできるだけ近くに集中しそう

宿場町とか路村とかをみるに絶対類型化できると思うんだけど、なんかそういう考察をしてる人いないだろうか

2018-06-18

有馬高槻断層が動いたらしい

気象庁で詳細な情報を発表していて、震源地大阪府茨木市の南東側JR総持寺駅茨木駅市街地のある一帯。

当初の地震規模はマグニチュード5.9だったけど、6.1に修正された。

震度6弱範囲大阪市北区高槻市茨木市枚方市箕面市大阪市北区については、あそこは元々地盤の弱い埋立地なので、本来震度5強程度の揺れが6弱に増幅されたものと思われる。

今回地震のあった大阪北部は、1995年に起きた阪神大震災でも震度5強の強震に襲われた経験があるから地震に強い街づくりをやっていたおかげか、家屋の倒壊などの被害震度の割には大きくないのは幸いだったようだね。

ヤフー産経ニュースによると、「有馬高槻断層南端上町断層北端クロスするあたりが震源と思われる」とのこと。

大阪平野や神戸市街地の縁に広がっている六甲山地千里丘陵北摂山地断層運動によって生まれ地盤圧縮帯なので、というよりは断層運動によって山そのものが出来た場所なので、元々地震の多い場所なのかもしれない。

高槻枚方は、江戸時代から大坂京都を結ぶ京街道宿場町であり、現在大阪ベッドタウンとして住宅化された地域。前述のように江戸時代から続く宿場町だったので、ベッドタウンの割には市内を通る道路の道幅が狭く、古い住宅が建ち並ぶエリア火災の初期消火に失敗すると、延焼する危険性がある。

不謹慎な言い方かもしれないが、震源地大阪都心部や堺市のような人口密集地帯で無かったのは不幸中の幸いだった。震源地さら大阪都心に近い場所で、M6.1だと更に被害が大きかった可能性がある。

2017-05-14

[] のし

のし梅(のしうめ)は、梅をすり潰し、寒天に練りこんだものを薄くのし乾燥し竹皮で挟んだ山形県村山地方代表的銘菓

  

山形藩主の典医だった小林玄端が長崎での遊学中、中国人から梅を原料とする秘薬の製法を伝授され気付け薬として作ったのが

現在の『のし梅』の原型とされる。その後は夏場の民間薬の胃薬ないしは気付け薬として各家庭で製造されていた。

  

現在の形の「のし梅」を製造した祖とされているのが、創業文政年間の『乃し梅本佐藤屋』(山形県山形市十日町)。

日本三大修験山として江戸時代に盛り上がりを見せた『出羽三山詣』の参拝客の宿場町として山形市十日町近辺は栄えており、

菓子として『のし梅』を売り出したところ人気を博したという。

  

山形県紅花を主要な特産物として生産しており、その紅花口紅着物の染料として京都大阪方面を中心に高値取引されていた。

その紅花から赤い染料を取るのに梅の酸が使われていた為、山形市周辺は紅花と同時に梅も盛んに生産されていた。

梅は酸をとるためには青梅が良いが、完熟している梅だけを使用して作っている点では、農産物無駄なく使用できるために

のし梅は非常に理に適った特産品といえる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%81%97%E6%A2%85

2017-04-30

[]

岡崎城に行ってまいりましたわ。

城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。

わたしくの行ったことのあるお城では博多城に似ていますわね。

展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります

三河武士のやかた家康館は、増田先駆者である家康公と

彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています

ところが目玉的な展示は、ジオラマ映像関ヶ原の戦いを描くものですの。

東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・

井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。

長篠なら大久保兄弟酒井が、姉川なら榊原康政活躍しますのに--

三河武士全員が活躍する合戦を探すのは難しいですわね。

あえて言えば三河一向一揆でしょうか。

家康が陣を前に押し出して全軍の士気を高めたことが

強調されていたのは展示側にもその自覚があるからでしょうか。

あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。

本来は壊滅して盤面上から消えるはずのシーンで、

やっと回転しきって残っていましたわ。

復興天守の方では刀剣甲冑の展示が目立ちました。

甲冑レプリカも含めて三河武士のやかたにも多数あり、

甲冑好きには良いところだと思います

フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣武蔵藤原永道が気に入りました。

鞘に緑のラメが入っていましたの。

加茂一揆ジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を

岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。

おそろしいおそろしいですわ。

城下町の一日というジオラマシアターもあって、

江戸時代宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。

女性がやっていても強盗誘拐との区別がつきませんわ。

家康生誕の岡崎城最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、

幕末には最終的に徳川家を裏切っています

ただし、それを決断した藩主養子だったとか。

三河武士のやかたと謳いながら、ちょっと後味の悪い話ですわ。

陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。

追記

id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ

http://anond.hatelabo.jp/20161217235117

2016-03-29

全米ライフル赤ずきんちゃん

赤ずきんちゃんは、金髪美少女でした。「将来、プロムに誘うならあの子だよな」村のにきび面の男の子たちはそう話し合ったものです。

やがて、平和な村に不穏な噂が流れてきました。なんと、狼団のテロリストが村に潜伏している可能性があるというのです。「愛国者法に基づいて山狩りをしよう」村長がそう呼びかけると、村人たちは松明と銃を手にテロリストを探し回りました。実のところ愛国者法は延長期限切れになって2015年6月に失効していたのですが、そもそも愛国者法がどんな法律か知らなかった村人にはそんなの関係ありませんでした。

やがて、テロリストが潜んでいそうな場所が見つかりました。赤ずきんちゃんのおばあさんの家です。やはり愛国者法に基づいて仕掛けられていた盗聴器から、「モスクがどうたら」という会話が聞こえてきたのです。もしかしたら「モスクワ」と言ったのかもしれませんが、警察署長は自信たっぷりに「証拠は揃った、揃いすぎるほどな!」と断言しました。村人たちの中には「盗聴でわかったのなら山狩りは必要なかったじゃん」と思った人もいましたが空気を読んで文句を言わないことにしました。

警察署長が「さる筋から派遣されたスペシャリストだ」と勿体ぶって村人に紹介したのはほっそりとした少女でした。目深にかぶった白いフードからは見事なプラチナブロンド。そのあいからは氷のように美しく澄んだ青い瞳が覗いていました。「彼女、すげーイカすな。なんのスペシャリストなんだろうな」村のにきび面の男の子ポルノめいた妄想で股間を膨らませながらそう話し合いました。

村の外れにある深い森、その奥へ奥へと白い少女が歩いていきます。やがて廃屋のならぶ集落が見えてきました。ここは開拓時代に栄えていた宿場町だったのですが鉄道が普及するとともに廃れ、ずいぶん昔から廃墟になっています。そんな廃墟一角赤ずきんちゃんのおばあさんは一人で住んでいたのです。こんなところにも老人問題の深刻さが見え隠れします。

白い少女は、おばあさんの家の前に立ち止まりました。ドアは半開きになっており、その前には広口のビンが転がっていました。つまり、ajar半開き)と a jar(広口のビン)の掛詞になってるわけです。そんなダジャレどうでもいいので少女は「おばあちゃん、入るわよ」と言いながらドアをぐいっと開きました。ドアを開ける際にも油断なく左右を伺い、ドアの下部や上部のトラップワイヤーの有無を瞬時に判断するあたり、さすがスペシャリストって感じです。

ドアを開けるとむせ返るような血の匂いしました。「おばあちゃん、すごい臭いね。まるで家のなかで人間解体をしたみたいだわ」そう言いながら白い少女は寝室へ向かいます。寝室に入ると、人型ロボットうずくまっていました。ロボットは「ぼく、いいロボットだよ」と言って高く手を上げて降伏意思表示しました。「いずれにせよあんたは赤ずきんの婆さんじゃあねえな。まあ死ねや」そう言うと少女は懐から取り出したソードオフショットガンで至近距離射撃します。BLAM! BLAM! BLAM!

このソードオフショットガンは、その名前の通り(sawed offは、のこぎりで切り落とす事)、普通ショットガンの銃身を切り詰めたもので、発射直後に散弾の拡散が始まるため、通常のショットガンと比べると有効射程は短いものの、至近距離殺傷力や有効性はむしろ増大しており、更に全体の長さが短くなった事で、屋内などの狭所で扱い易いため、特殊部隊などが屋内に突入する際、出合い頭の戦闘が(敵と鉢合わせする事)多いポイントマンエントリーショットガンとして用いる事もあるのです(Wikipediaより)。

ロボットはしゅうしゅうと煙を上げながら倒れ伏しました。少女は「しくじったな」とつぶやきました。おばあさんの家はいつのまにか一ダースほどの戦闘員に包囲されていたのです。

轟音とともに正面扉が吹き飛びます。おもわずそちらに包囲網の注意が逸れた隙に少女が裏口から飛び出します。銃弾が飛び交うなかをかいくぐり、戦闘員の背後にまわってショットガンを発射します。細身の体に似合わない怪力を発し、崩れ落ちる戦闘員の襟元を掴みあげるとそれを肉の盾としながら敵陣に突っ込みますわずか50秒で瞬く間に敵を殲滅した彼女の白いフードは、今や血でベッタリと染まっていました。その美貌と戦闘力から彼女は「血染め氷壁」と厨二っぽい二つ名で呼ばれていました。「白いフードが血で赤くそまるまで戦闘を止めない」アグレッシブ戦闘スタイルから彼女を「赤ずきん」と呼ぶものもいました。(←これ、書いてて恥ずかしい)

血と肉片で汚れた銃身をフードで拭うと、その銃身に刻まれ文字がくっきりと読み取れました:

In Gun we trust

から血染め少女が帰ると、村ではお祭りの準備がされていました。今日イースターお祭りなのです。血染め少女をみると、村人たちは「Meerica! Meerica!」と叫びました。突然音楽がかかり、村人たちはミュージカルめいて整然と踊り出します。バックコーラスは白い衣を着た聖歌隊です。聖歌隊には有色人種は一人もいません。スポットライトがあたる村の広場の中心に血染め少女が歩み寄ると、先ほどの戦闘で見せた獰猛さを微塵も感じさせない清らかな声で、「アメージンググレイス」を歌いました。

     おしまい

2016-02-17

埼玉県ダサい歴史的必然性を考察する

埼玉県ダサい

都道府県魅力度ランキングで、毎度ワースト争いをするのも致し方ないといえる程度にはダサい

埼玉県に生まれ育った自分が言うんだから、間違いない。

そもそも、律令国時代には「武蔵国」として、埼玉県東京都と一体だったのだ。

で、武蔵国から東京を分離した「あまりの部分」が現在埼玉県なのだから、これがダサくなくてなんであろう。

(余談ながら、ことあるごとに埼玉はおろか、東京すらも下に見る、あの鼻持ちならない「横浜」という地域の大半も、

かつては「武蔵国」であって、そういう意味では、横浜埼玉兄弟であって、ペリーの来航による開港がなければ、

せいぜい千葉と同程度の存在だったはずである)。

日本の各地に行くと、県庁所在地がもとは城下町であって、

かつての城跡あたりに県庁やら市役所やらNHKやらが集まっている地域が多い。

そこには、それぞれに領主がいて、城下繁栄させ独自文化産業をはぐくんでいたのだろうが、

埼玉県県庁所在地であるさいたま市城下町ではない。

合併前の県庁所在地たる旧浦和市は、ただの小さな宿場町だ。

さしたる文化的な蓄積がない。

そもそも幕府の直轄領だったらしいから、まあ、東京江戸)の一部みたいなもので、独自性へったくれもない。

埼玉にある「城下町」で、かつて最も栄えたのは川越だろう。

実際、小江戸と言われたこの街には、日本百名城の一つがあるし、寺社仏閣や蔵造の街並みが観光資源として使える程度には残っている。

にもかかわらず、今一つ存在感が薄いのは、この地をがっちりと育ててきた大名存在しないからではないか。

川越藩というのは藩主がたびたび替わっている。

大坂の陣江戸留守居役を務めた酒井重忠とか、家光・家綱に仕えた酒井忠勝とか、

知恵伊豆こと松平信綱とか、綱吉の寵愛を受けた大老柳沢吉保とか

それなりのビッグネーム藩主だったりするのだが

これは要するに、徳川政権高級官僚が、江戸の手近のところに領地を与えられたという話であって、

川越の殿様」というより「江戸幕府の重臣」だろう。

これはつまり高級官僚官舎埼玉県にあったみたいな話で、

「優秀な人ほど、東京通勤していて、地元にそんなに愛着がない」という

現在埼玉県と一緒じゃねえか。

かくて江戸時代から現在に至るまで、

埼玉県は「東京を支える」役割を、地味に担わされてきた。


西武線沿線東武東上線沿線JR東北・高崎線沿線東武伊勢崎線沿線と、

東京と各地を結ぶ鉄道沿線沿いに都市圏が発達し、住民はなにかと東京のほうを向いていて

県内の各地域の「横の連携」が弱く、それ故に県としての一体感が弱いのも埼玉県の特徴だ。

たとえば「埼玉西武ライオンズ」といっても、さいたま市あたりの住民などは、ほとんど愛着がない。

なにしろライオンズ本拠地たる所沢に行こうにも、鉄道で行くとなると、

いったん、池袋埼玉県であるとの説もあるが、行政区画としては東京都)に出なければならないのだ。

愛着なぞ沸くはずもない。

こうした地域の分断も、江戸時代以前に起源を有する。

なぜなら、各地域の基盤となっている前述の鉄道路線が、おおむねかつての街道筋に沿っているかである

かくて、独自文化も今一つ発達せず、地域が分断されている埼玉県ダサいのは、

歴史的必然なのである

2014-01-27

芸術税金を出す意味が分からない

税金を使って見る人が少ない芸術補助金を出す意味がさっぱり分からない。

その意味が分かる人が、見ることによって収益をあげれば良い話で、税金を使う意義は全くないと思う。儲からないから補助金必要という意見もあるが、補助金なしで経営がなりたないということは、運営者側の努力が足りないか、そもそも今の時代必要のないものなのではないだろうか。何でも補助金というのが根本的に間違っている。補助金麻薬に近いと思っている。補助金で生き続けていくと、補助金なしの生活をするのが困難になってしまう。大衆芸能なら大衆が支えるものである

伝統があるからとかは関係ないと思う。宿場町だってなくなった、山岳信仰だってなくなった。旧道だってなくなった。武士だっていなくなった。時代と共に必要とされるものは変わる。昔なら文楽を見た休日の使い方は、今は昔と比べられないほど選択肢存在する。

文楽は見に行ったことはないが、美術館はかなり頻繁に訪れている。僕は受益者負担原則だと思っているので、市民国民税金が使われて自分自身が絵を見て楽しめることに戸惑いを少しは感じている。(民間美術館は除く)。美術館の帰りに、ホームレスを見たり、バリアフリーがされていない駅前を歩く足腰の悪い人を見ると、美術館を閉鎖してこちらにお金を使って欲しいと強く思う。別に芸術がなくても、死ぬことはないが(補助金生活している人は困るが、そんなのはどうでもいい)、最低限のセーフティネットが削減されて死ぬはいると思う。使えないほどの税金があれば別だが、どこの自治体もそんな余裕はないはずである

芸術お金を出すか出さないかという二択ではなく、税金の使い方として果たして一番納税者意味があるものかということを考えて欲しい。全てを選ぶことはできない。何かに税金を使うと、何かに税金を使うことはできない。

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