はてなキーワード: 関羽とは
時は2013年。
後継たらんとしたアグネスタキオンも亡く、次いで頂点に立ったマンハッタンカフェの栄光も続かない。
そしていま、三頭の種牡馬が鼎立し、混迷極める競馬界の統一を目指して相争っている。
今回はその三頭の種牡馬を三国志の各国になぞらえて紹介してみたい。
最高の血統。圧倒的な実力。完璧な戦績。
初年度から名将を輩出、二年目からは三冠牝馬ジェンティルドンナが登場、数々の決戦を制した。
質・量ともに他国を圧倒し、サンデーサイレンス王朝の後継者としての地位を確固たるものとしつつある。
サンデーサイレンス王朝とは無関係の出自を持ち、中央から地方にかけて独自の勢力を築き上げている。
(近年はサンデーサイレンス系の馬ばかりで近親交配がやばすぎるので非サンデーサイレンスのキンカメは貴重なのである)
芝コースでもダートコースでも有力馬を輩出するオールマイティさは、まさに水陸で活躍した呉軍のごとくである。
大舞台での惜敗を繰り返すも、引退戦で劇的な勝利。
皆から愛された晩成の名君。
国力ではディープ・キンカメに大きく劣るものの、数少ない配下の中には大物が並ぶ。
三冠馬オルフェーヴル・二冠馬ゴールドシップは、さながら張飛と関羽と言ったところ。
さて、若手の同世代最強決定戦、日本競馬最大のレースである「第80回日本ダービー」が、5/26(日)に開催される。
ディープインパクト産駒の「キズナ」とキングカメハメハ産駒の「コディーノ」の対決は、あてはめるなら魏の羊コ(祜)と呉の陸抗あたりか。
そして現役三強である「オルフェーヴル」「ジェンティルドンナ」「ゴールドシップ」が揃って出走する(予定の)「第54回宝塚記念」は6/23(日)。
ステイゴールド産駒の暴君か、ディープインパクト産駒の女傑か、赤壁か、定軍山か、はたまた五丈原の戦いか。
近年稀に見る一大決戦となるだろう。
どうぞ御覧ください。
かつて劉備の代理として孫呉に訪れた際、共に赤壁を打ち倒しましょうと言ってすり寄った。
実際には漁夫の利を得た形で約束違反である荊州を簒奪した。漢朝廷にすら許可を取らなかったため、後に曹操に利用されて公式に周瑜を南郡太守、荊州総督を任せる等として荊州統治を孫呉に委ねたのだ。そうなると当然荊州の正当支配者は孫呉になり劉備は違法にそこを占拠してるに過ぎなくなる。そこで孔明は一計を案じて周瑜を誅殺し孫権から荊州を借りる形を取って劉備を統治者とした。当然条件付きで蜀を取れば荊州を全て返還するという劉備・孔明両名のお墨付きである。しかし蜀、そして漢中を奪っても返さなかった。孔明は嘘吐きである。これがきっかけで荊州争奪戦および関羽処刑事件に繋がるのである。また、後継者問題では自身の優位を絶対にするため、劉備信者の魏延らをあることないこと誹謗し続けたのである。これは一政治家としてあるまじき愚行であろう。ともすれば、これを手本とする日本の某政党は嘘吐きであることを肯定しているも同じである。
嫁に関して「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」という諺が存在するほどで人を見る目が全くない。
後に重用された悲劇の名将魏延も反骨の相(史実では不明)としており、一方で劉備が重用するなと言っていた登山家馬ショクへは自身の片腕以上の待遇だった。また、後蜀将として蜀漢を直接滅ぼす原因を作り滅んだ後も劉禅に迷惑を被って死んだ姜維へも彼は特別待遇にしていた。そう、孔明は老練の将軍よりも口先だけの若造を重用する傾向にあったようだ。だがそんな彼でも老練を重用することがあったのである。名前は李厳。後に李平と改名する政治家である。彼は孔明いわく「陸遜に匹敵する名相」だったが、才覚は確かにあったらしい。しかし性格に難があり、孔明はたびたび彼への諫言を聞くことになるが無視し重用し続けた。その結果231年の北伐の大惨敗を引き起こすことになる。とんだ見立てである。実は李厳だけではない。後に魏に投降したのち蜀に再び寝返り新城の戦いで司馬懿に瞬殺された孟達も孔明は重用した。実は孟達も才能はあったが、李厳同様性格に難があった。日本プロ野球選手に例えると中村紀洋である。孟達の面白い所は劉備に信任された上庸を守らず更に関羽からの援軍要請を無下に断り見殺しにした所であろう。彼は李厳と同じく才覚はあったが考えるところは常に目先の小利だけである。その結果、関羽は死にその責任を負わされることになった孟達は曹丕の元へ逃げそこで厚遇を受けた。しかし曹丕が死ぬと冷遇された孟達は蜀に帰りたいという非常に自分勝手な判断のもと蜀に保護を求めて降伏してきたのである。それを大いに喜んだ孔明は自らドツボにハマる事に気付かず結局孟達の死をきっかけに北伐は失敗に終わる。逆に彼が冷遇し続けた魏延は殿軍を務めるなど蜀を守る役目に徹して彼以上に功績を挙げてしまった。孔明は自分が貶めようとした者が成功するのを見ていられなかったのだろう。死の間際にこれまた後に蜀を滅ぼした姜維に後事を託して五丈原で病没した。その託した後事が問題で当時重用していた文官楊儀と確執のあった名将魏延を排除したのである。これを機に蜀は滅ぶ道を辿ることとなる。オチとしては魏延を廃した楊儀も後に謀反を起こして流刑となったことくらいか。
結局孔明は人を見る目が皆無で、結果として劉備に信頼されておいて蜀を守りきれず滅ぼす遠因を作ったのである。
漢の四相と称される孔明だが、それは内政だけの話でこと軍事においては亡きホウ統や法正に劣る。後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名になる司馬懿は電撃戦を得意とし曹操にも警戒された天才で普通なら孔明では太刀打ち出来ない相手なのだがここでも孔明は嘘吐きの才覚を遺憾なく発揮するのだ。また、火刑オタクの陸遜は孫武に勝るとも劣らないと称された天才で孔明も対呉では慎重論を唱えたほどだ。実際には孫呉は派閥政権なので内側から崩せば安易に滅ぼすことも可能だった。また曹魏にしても司馬懿の専横を煽る批判文を口先だけは超一流の馬ショクがやって見せたように続けていたら内部亀裂は免れておらず面白いことになっていただろう。孔明は情勢音痴だったのだ。また地理にしても荊州や益州では無双だった孔明も長安への道についてはこれまでにない慎重な姿勢を貫いていた。これを地理に詳しい魏延にたびたび批判されていたことは有名で、子午谷を通る国士無双の名将であった韓信の攻略法を提案し続けたものの、却下し続けた。その結果が成果の見えない3度の北伐である。しかも孔明は人を見る目がなかったので要所要所を劉備にすら諫言された将を大将に据えて任せており、その都度名将魏延を殿軍にするなどして引き離すといった愚行を演じている。こと軍事においては後世の学者からしても魏延の方が上回っていたと指摘されることがあるが、実際その通りだったのかもしれない。孔明は何も成果を挙げられていないのだから。しかも北伐にかまけて劉禅の教育を怠り漢王朝滅亡の原因である宦官制を敷いていたことが後に蜀を滅ぼすのだから孔明は実は内政も言われてるほど優秀ではなかったのかもしれない(宦官は劉備提案かもしれないが)。
結論として孔明は、無能だが口先だけは一流の人間を重用し、まともな武将を片っ端から左遷しちゃうクソ政治家である。ま、そんな政治家を神としちゃう某政党も流石だとは思いますけどね。
以上、孔明は歴史捏造が生んだ最大の恩恵者であり、また稀代の嘘吐きである。某政党もこれを真似たのだから面白い。後に筒井康隆がその政党が政権を取ると日本が終了するといった旨の小説を書いているが、これは単なる偶然の一致なのだろうか。
中国人は血縁の結束力は強いが、他に対しては出し抜くことばかり考えているという。その源流はどこにあるのでしょうか?中国文明のなんで?
中国人の身内での結束力と、身内や親しい人以外に対しての割り切り、非情さ。その性質を巡って中国人に対する評価が、大きく分かれているように思います。
それを解く鍵・キーワードは、「幇」(“パン”または“ほう”)という言葉にあるようです。
縦軸(血縁のつながり)として父系集団としての「宗族」があり。
横軸として仲間や連帯の契りを結んだ「幇」がある。
宗族についてはとりあえず、 「中国社会の基本構造:宗族と祖先崇拝・儒教」を参照してほしい。ここでは、主に「幇」について調べてみたい。
みなさん「幇」ってご存知でしょうか?僕なんかどうも青幇・紅幇なんかの秘密結社?とかを思い出してしまうのですが、どうも中国人至るところ「幇」ありという感じらしい。
華僑は「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織を作り、相互扶助を行う。
「幇(パン)」には次の2種類ある。
・郷幇(きょうばん)……籍貫(しゃくかん)(=出身地)に基づく地縁的集団。会館(同業・同郷・同族者らが集会用に異郷に建てた施設)、義塚または義山(共同墓地)、学校、病院などを建て、相互扶助を行う。 主な郷幇は、福建幇、潮州幇、客家幇、広東幇など。
・・・地域生活や仕事の共同組織としてかなり生活に根をおろしている様子がうかがえます。
★では「幇」のつながりとは、具体的にどんなものなのだろう?小室直樹先生によれば、中国人の「すべての人間関係」という集合を考えると、この集合のなかにごく一部の「幇」という部分集合をつくると、すべての人間関係は、「幇」とそれ以外に分けられるという。
さて「幇」と「幇以外の人間関係」の違いとは――。
ちがうのちがわないのって、根本的に違う。天地雲壌の違いである。幇内の人間関係たるや盟友も盟友、絶対的盟友である。死なばもろともである。勿論、いくら借金したって証文などごうりも必要としないことは言うまでもない。
典型的な「幇」の結びつきの例として、三国志の三人の結びつきについて述べている。
劉備、関羽、張飛、の三人は、以前からずっと見知っていた訳ではないし、血を分けた兄弟でもない。しかし、ひとたび桃園で義盟を結ぶや、実の兄弟なんかとは桁違いに固い契りの義兄弟となって、ここに劉備・関羽・張飛の三人幇、三人組みが成立する。
こうなってしまったら最後、彼ら三人のあいだの契りがいかに固いものか。
彼ら三人のあいだでは、利害、争いから完全に自由であり、絶対に信頼でき、完全に理解しあい、そして生死を共にする。まことにそのとおり。一点の疑点もない。これが幇(幇会(パンフェ))内の人間関係である。
なんと、生死まで共にする関係。確かに日本ではこんな例は聞いたことがない。
では幇外に対してはどうなる?
幇内の人間関係は、まことに生死をともにするものである。では、幇外の人間関係は、どういうことになるのだろうか。
ひとことでこれを言うと――。
何をしてもよろしい。窃取強盗ほしいまま。略奪、強姦、虐殺・・・・何をやっても少しもかまわない。いや、かまわないどころではない。それが論理であり、それが道徳である。・・・・・
よく知られているところでは、かっての古代ベドウィンの民。砂漠の流浪民なのだがチャンスがあれば、隊商でも村落でも、ほしいままに略奪し、虐殺し・・・。こんなこと、古代ベドウィンの倫理・道徳では、少しも不倫でも非道でもない。全くもって、倫理的・道徳的な行いそのもの。
中国の「幇」は血縁以外の人々が、独自の強力な規範と仲間意識をもって、“義”で結ばれた男集団を形成していることが特徴だ。
起源として考えられるのは、ベドウィンの例に見られるような、父系集団の強力な自集団正当化の観念を、仲間世界まで応用して横軸となしたことではないだろうか。だから、他集団に対しては容赦なく略奪・強姦okになる。(日本で言えば、“盟友の誓い”とか近いかも。どちらかというとヤクザの規範に近い。)
これが、冒頭の疑問“身内に対しては結束力がつよいが、外に対しては出し抜く”という日本人の中国人評となる。彼らの集団規範からすれば、ごく当然の行為なのだ。
従って単純に中国人は、個人主義が強いなどとは言えない。「宗族」と「幇」は、ある意味強烈な集団主義だ。ただ、日本や欧米には存在していない点が分かりにくいのだろう。
(by Hiroshi)
ふと思ったのですが、鳩山内閣とは「日本人にとっての通過儀礼(イニシエーション)」なのではないでしょうか?
思い出していただきたいのは、麻生政権時代の話です。あの時、私たちはなにかモヤモヤとしたものの中にいたような感覚を感じていたのではないかということです。自分自身に不確定感を感じており、自暴自棄な部分があったり、八方ふさがり感を感じていたり、手応えの無い生を生きている様な感覚を感じていたのではないでしょうか?
つまり、あのまま、自民党政治なり、麻生政権が続いていたとしたら、私たちは、自分たちが溶けてなくなるような感覚に襲われていたのではないかということです。
戦後民主主義というマッカーサーの誘導通り、生きている事にリアリティのない、夢見がちな子供こそが日本人であるということを日本人自身が真面目に実行してしまい、日本人の精神年齢は永遠の12歳に閉じ込められてしまいました。つまり、団塊世代を含めて、子供が多数派になってしまったという現実があると思います。
そして、その結果として、野党が多数派となり、鳩山内閣になったという訳です。
今までは、誰かが(この場合、自民党が)、親のように国民の面倒を見てくれましたから、親に子供が不満をぶつけるように、国民も野党もマスコミも外部からヤジを飛ばしていれば、責任を果たした気分になっていました。しかし、いざ、自分が権力を持ってみると何も出来ていないのが現実としてあります。
鳩山首相というのは、今まで、外部にいた国民や野党やマスコミが……外部にいた人間が、鏡に映った場合にどう見えるかという事の体現者です。彼を無能、正常な精神状態でない、歪んだ笑顔が醜い(そこまで言ってませんね)と責め立てた所で、それは結局、国民自身が自分自身を批判していると言える事が出来るのではないでしょうか。
ですので、結果的にであれ、どうであれ、鳩山内閣とは「日本人にとっての通過儀礼(イニシエーション)」として機能してしまっているというのが実情でしょう。
以前、こんな記事を見ました。
「三国志の中で誰になりたいか?」という記事です。中国では狭義心に富む「関羽」が人気でした。アメリカでは有能で策謀謀略に長けた「曹操」が人気でした。日本では天才軍師の「諸葛孔明」が人気でした。
これが何を表しているかというと、自分の立ちたい立ち位置を表しているのではないでしょうか。
つまり、「トップに立たずに、冴えたアドバイスをする「知恵袋」として活躍したい」というのが日本人の心情な訳です。
これがそのまま、日本人の野党体質に繋がっているのではないかと思います。
例えば、ある社会学者があるジャーナリストをなぜ、実際に著名人をどんどん引き連れて政治工作しないのか?と責め立てる訳です。ジャーナリストは「自分がやりたいことをやりたい」と答えていましたが、要するに、誰も当事者にはなりたくないのです。その社会学者も、孔明的な立ち位置に立ちたくてそんな事を言ったのでしょう。でも、責任は取りたくない訳です。ジャーナリストにしても政治運動の当事者になる事は「やりたい事リスト」の中に入っていない訳です。やはり、孔明的な立ち位置でやっていきたい訳です(その点、勝間女史を悪く言う人がいますが、そういう人達のサバイブ能力は、彼女以下であることは間違いないと思います)。
結局、政治の当事者ではなかった自民党時代の民主党も、国民も、マスコミも、(当事者からすると無責任な)冴えたアドバイスをしたい訳です。何か偉そうな事を言いたい訳です。その欲望が中心にあったのだと思います。
しかし、鳩山内閣とは「日本人にとっての通過儀礼(イニシエーション)」は、日本人をことごとく死地へ向かわせ、容赦なく、当事者にしてしまうでしょう。逃げ切れると考えている団塊世代も例外ではありません。財産に対する猜疑心に否まされ、孤独死してしまう人も多いのではないかと思います。そして、実際、氷河期より就職事情は厳しいですし、経済的な脱出口は見つかっていません。また、ご存じの通り、外交も迷走しています。
多分、日本人がこの通過儀礼を無事乗り切るかは分かりませんが(最悪、中国の植民地だと思っています。もっとも、チベットのように民族浄化されるかも知れませんが)、ある種の諦観と、自身しか当てにならないというサバイブ能力を持たざるを得なくなるでしょう。
レイプ問題を熱く議論するのは結構ですが、現実問題として、全ての男を隔離されている日本より、女性が鉄砲を持ち迷彩服で町中を歩く日本の方がリアリティがあるのではないでしょうか?(現に、アフリカでは似た様な状態の国もあるらしいですし。そして、残念ながら、非常に残念ながら、日本のレイプ発生率は低いのです。いずれにせよ移民は増えると思いますが、容赦なくレイプ発生率もグローバルスタンダードに近づくでしょう)
そして、そして、そして、そんな困難の時代を生きるあなたに、格好の情報があります!
私自身も中学1年・2年生の頃いじめを受けていた。しかしこれを実践することで、中学最後の年にはいじめと無縁の生活を送れるようになった。以下では私がこう考えるにいたった軌跡を書こうと思う。
先述したとおり、私は中学一年生のころからいじめを受け始めた。理由は些細なことだった。
「あいつをいじると反応が面白い」
そういって私は数々の嫌がらせをうけた。トイレのホースで水をかけられたり、サンドバック代わりに殴られたり、教科書を捨てられ貴重品を奪われたり、自分の机に「キモい死ね」と書かれたり、あげく「(自分の名前)菌がうつるから近づくな!」と言われクラス全員から避けられたり・・・。これ以上書くのはやめておくけれど、世にいう「いじめ行為」は一通り受けたのだろうと思う。
もちろん私の心は愉快ではなかった。学校から帰って部屋にこもり「どうやったら楽になれるだろう」とずっと考えていた。学校にも居場所がない、家の外にも場所がない、だから家にこもる。けれども家では親に悲しい姿を絶対見せたくなかったから、私の居場所は自分の部屋しかなかった。
「このまま生き続けたとしても、くだらない人生を送るんだろうな」
薄暗い部屋で自分の悲しい末路を考えたあの時間を、私はいまだに忘れられない。涙が止まらずに床にポタポタと落ちた。うめき声を押し殺すように、私は口に手をやり突っ伏した。そして暗い中にずっとそのまま沈んでいた。
しかし中学二年生の夏、そんな私にも転機が訪れた。それは「本」との出会いだった。当時の担任の先生が私に「面白いから読んでみなさい」と、大平光代の「だから、あなたも生き抜いて」を貸してくれたのだ。
私は驚くと同時に興奮した。その本を読み終えると、私はジャンルを問わず沢山の本に触れるようになった。江戸川乱歩の「怪人二十面相」シリーズ、田中芳樹の「銀河英雄伝説」、そして三国志演戯。本を通じて私は「いじめられている現状」だけが人生ではないことを知った。大平光代のように自殺未遂を乗り越えて弁護士になる人もいるし、怪人二十面相のようにプライドの高い大泥棒もいるし(想像上だけど)、ラインハルト・フォン・ローエングラムのように強烈な天才もいるし(此方も勿論)、義に生きた関羽や超雲のような武将もいる。
「もっともっといろんな人の生き様や考え方を知りたい」
そう思った私は、読書だけでなく勉強にも精を出すようになった。
社会の時間が一番のお気に入りになった。日本史や世界史に出てくる偉人の話を聞いていると、私の背筋はゾクゾクした。だからどれだけいじめられようと、学校は絶対にやすみたくなくなった。そしてこれまでしたことのなかった授業の予習復習もしてみた。そうするとテストでも点数がとれるようになり、勉強が好きになった。(いじめられっ子を見返してやりたいという気持ちも、勉強を好きになった原因の一つかもしれない)。そして「大学でもっとたくさんの人生・考え方に出会いたい」という夢を抱くようになり、これまで考えもしなかった高校進学にも憧れはじめた。
学内でぶっちぎり底辺だった成績も、次第に真中くらいになっていた。
そして私はこう思った。昔の自分には、学校という場所しかなかった。しかし今の俺は読書という、自分だけの打ちこめる「場所」を手に入れたんだと。それがきっかけで、きっと心にも余裕が生まれて、他の色々なことにも気づくことができた。担任の先生が「本」を貸してくれたのが、きっと俺の人生の転機だったんだ、と。
だからこそ、いまいじめられているあなたも「自分の打ちこめる何か」を探してほしいと私は思う。私の場合それは読書だったけれど、世の中は本当に広い。こうしてネットを使えているのだから、あなたも自分の好きなものにすぐ出会えると思う。そして学校なんてどうでもいいから、その自分の好きなものに熱中してほしい。そうするとあなたも心に余裕が生まれて、いじめなんてしょうもないものだと思えるようになると思うし、その先に自分の新しい生き方も見えてくるはずだよ。
幸運を祈ります。
「イエスキリストに匹敵するぐらいカリスマと深みのある宗教家」と言われて私のようなオッサンがすぐに思いつくのは、何百年も前からの古株宗教家ばかりです。
たとえば、宗教家だと、仏陀、マホメッド、孔子、神武天皇、関羽などがすぐに思い浮かびます。
しかし、残念ながら私のようなオッサンは、最近の宗教家でイエスキリストに匹敵するぐらい面白く人間的に幅広く深みのある教義を生み出している宗教家を思いつきません。
宗教だけでなく哲学や政治まで含めたとしても、人間革命はたしかに素晴らしく面白かったけど、「池田大作はイエスキリストに匹敵するか?」と問われると、言葉に詰まります。エルカンターレ太陽の法も素晴らしいけど、同じ作家のそれ以外の作品は?問われると、厳しい。絶対に許さない。田中角栄も良かったけど、やっぱりイエスキリストに匹敵するか?と言われると、うーん。
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
やるなら失速してる今のうち
まあ、どのくらいの数の水滸オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない水滸伝とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、水滸伝のことを紹介するために
見せるべき10人の好漢を選んでみたいのだけれど。
(要は「天導一〇八星 好漢ファイル」の正反対版だな。彼女に水滸伝を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、話題的に過大な不足を伴う地味好漢は避けたい。
できれば天罡星、せめていずれかのエピソードにきちんと絡む好漢にとどめたい。
あと、いくら席次的に天罡星といっても「なんでお前が?」を感じすぎるものは避けたい。
宋江が『穆弘』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
水滸伝知識はいわゆる「ぱちんこ梁山泊」的なものを除けば、横山光輝版程度は見ている
三国志度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「地煞星以前」を濃縮しきっていて、「地煞星以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。活躍も無駄にクールだし。
ただ、ここで男色トーク解禁にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この能力過多な好漢について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな好漢(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「水滸オタとしてはこの二人は“人間”としておかしいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の中国ものオタが持ってる楊家将演義への憧憬と、北方謙三のオリジナル的な続編へのこだわり等々の周辺事項を
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもアクの強い
「饅頭の餡にちぢれ毛な女」を体現する孫二娘
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを二竜山にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「関羽だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
キャラ的に被る朱仝の活躍がその後続いていないこと、これが宋江には大人気になったこと、
関羽の子孫だから梁山軍の五虎将筆頭になって、それが方臘戦後に評価されてもおかしくはなさそうなのに、
落馬して死亡っていうショボい最期しかつくられなかったこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり水滸伝は子供に読ませちゃいけないものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「武十回」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、浮気にかける潘巧雲の思いが好きだから。
腸を引きずり出して舌を削ってそのうえ手足バラバラ、っていう楊雄の仕打ちが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「淫婦を捨てる」ということへの徹底ぶりがいかにも好漢的だなあと思えてしまうから。
浮気女話が三回目なのを俺自身はまたこのパターンかとは思わないし、もうやらないだろうとは思ったけれど、
一方でこれがまた盧俊義のエピソードできっちり浮気女話にしてしまった。
なのに、李応に頭下げて迷惑かけて祝家荘との戦いを作ってしまう、というあたり、どうしても
「晁蓋の形作ってきた梁山泊が捨てられないオタク」としては、たとえ楊雄がその後目立つキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。石秀・時遷の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
梁山泊で史進見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
林冲登場よりも前の段階で、好漢の哲学とか武芸十八般とかはこの人物で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの好漢が東平府でお縄にかかっていたんだよ、というのは、
別に史進自身がなんら梁山泊に貢献してなくとも、なんとなく史進好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる「世界の燃え尽きる日」でしか史進を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
智多星の「策」すなわち「落とし穴」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない宴を毎日生きる」的な梁山泊がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそ中国中央電視台版『水滸伝』最終話は呉用の首吊り以外ではあり得なかったとも思う。
「終わらない宴はない」という無常の感覚が招安以降さらに強まっていたとするなら、その「オタクの気分」の
終着点は呉用の首吊りにあったんじゃないか、呉用は無用だなんてとても俺には言えないという、そんな感傷的な擁護はかけらも口にせずに、
単純に学究の失策を楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうお大尽風味の好漢を首領候補というかたちで入山さして、それが晁蓋時代からの好漢に受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9人まではあっさり決まったんだけど10人目は宋江でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。
燕青から始まって宋江で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、晁蓋亡き後の梁山泊の首領となった人物でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい好漢がいっぱいいるので、宋江はやめた。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10人目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
「駄目だこの増田は。来年の今日がお前の一周忌」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。