はてなキーワード: ためにする議論とは
毎日のファクトチェックが話題だが、結論から言うと菅は不正確だが、毎日もまた実態を正確に報じているとは言い難い。
ファクトチェック:実は増えていた 「アベノミクスで生活保護世帯は減少」菅長官発言は不正確 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20200911/k00/00m/010/333000c
は確かに正しいのだが、もう少し長いスパンで見てみると、また異なった状況が見える。
生活保護を受けている人数と世帯数はどう推移している? | ファイナンシャルフィールド
https://financial-field.com/living/2020/07/03/entry-81234
「90年代の後半から被保護世帯数が急増していたのが、2012年頃から微増に変わった」
という事実が見て取れる。
毎日のように、「安倍政権の7年間でおよそ5万世帯増えた」という表現だと、
その前の7年間ではおよそ50万世帯増えていたことを見失わせる結果となる。
ただ、菅氏の言った「世帯」単位ではなく、受給世帯を構成する「人数」ベースで比較してみると、13年4月の215万1858人から、15年3月の217万4335人をピークに、今年3月は206万6660人と、8万5198人減ってはいる。
これも長いスパンで見てみると、90年代末から急増していたのが安倍政権で微減に転じたとしか読めない。
毎日は「生活保護を受ける世帯や人の数の増減は、高齢化などさまざまな要因がからんでおり、アベノミクスとの因果関係は判然としない。」
「安倍政権以前と以後で生活保護受給世帯および人数の増減がどう変化したか」という視点であり、
その視点で行くと、安倍政権になって急に高齢化したわけではないのだから、安倍政権との何がしかの因果関係が正である可能性が高い。
自民も民主も公明も嫌で、とりあえず選挙には一応行って共産党に入れていた程度の共産党支持者だったのだが
たまたま家にポスティングされていた共産党の広報を読むと驚くほど酷くて、共産党を応援していたことを後悔した。
豊洲新市場問題 地下空間を告発
―豊洲新市場の地下空間を突き止め、公表した共産党都議団の追求によって、豊洲移転は都政を揺るがす一大問題になりました。
移転は中止し、築地現在地での再整備を
再調査でも基準の100倍のベンゼンが検出されるなど、豊洲新市場予定地の土壌と地下水は、広範囲にわたり深刻に汚染されています。ことは都民の命と健康にかかわる大問題です。豊洲新市場にどんなにお金をかけても、食の安全・安心が保証されなければ移転はできません。
築地再整備こそ安全・安心の道
- 「築地の汚染」を叫ぶ自民党発言は豊洲の汚染の深刻さを隠すための、ためにする議論であり、論外です。
- 築地の再整備は十分可能。小池知事がつくった「市場問題プロジェクトチーム」でも座長が工事費500〜 800億円の再整備案を示しました。
- 築地の老朽化や衛生問題は、石原都政以来、長年にわたり補修、改修を怠ってきたからで、自民・公明都政の責任です。
http://www.jcp-setagaya.jp/satoyosi/tirasi_PDF/download/2017_4/tokyo_minpo_4_5gatu_gougai.pdf
共産党の素晴らしい問題発掘能力で、豊洲問題は世間の目に晒されたものの、現在の迷走は都知事を中心として悲惨な状態だ。
「安全だが安心は認めず」という情けない都知事の発言に全力で乗っかっているのが支持していた共産党だった。
対策として築地再整備を掲げているが、築地の汚染問題は自民党が仕掛けた豊洲の目眩ましだそうである。本気で言ってるの?
再整備案も、あの今や悪名高い建築エコノミストの森山高至氏が参加する市場問題プロジェクトチームの案を丸呑みするの?
後段だけど、これはずるいと思うよ。ド素人の人間にはリフレをすれば万々歳ってふうに読めたもの。それに、デフレ状態では景気対策の効果が現れにくいってのも、日銀の中の人が分からないはずがないでしょう?せめてさ、リフレ派の人があれだけ日銀を責めるなら、どういう意図と理論でもって今の日銀の政策になってるか言った上で叩いてくれないと、分かんないよ。リフレしろ、もっと緩和しろってだけなら、もっともすぎてためにする議論にしかならないと思うんだがなあ。
実は、俺が最も恐れていることなんだが、日本経済はもう病膏肓に入っていてデフレを維持しないと崩壊するという可能性について。
この例を頭のいい人と悪い人に置き換えるとわかりやすいけど、頭の悪い人のほうが進学の意欲が低いのは是正すべき格差なんだろうか?
引用部後者は意味不明なので前者について述べる。そういう疑問を提示するのは悪くはないが、君の疑問が正しいとすると君は「女は知的職業を指向しない」というのが自然なことであると主張することになるが、それでよいのだな?
お坊ちゃんのタワゴトとしか思えんな。自分が恵まれてることに感謝しろ。そして他人を貶めるな。
大学院からでも編入可能だろう。少なくともそこで挽回はできるはず。
金の問題と機会の問題を無視している。まず、金がなければそんなことできるわけないだろ。「女は大学に行くな」なんて家も未だにある。第二に、大学院でまともな実績を挙げるためには学部の勉強をしっかりしてないといけない。どっちにしても「挽回の回路が存在する」ことをいくら挙げても「機会が平等に保証されている」ことの立証にはならないよ。
自分がはめた器の大きさに、自分が収まってしまっただけのこと。
ただその言われたことを信じてしまったのは、彼の選択なんだから仕方ない。これも自己責任。
未成年者は自分の行動に責任を持てないからこそ未成年者なんだと何度言えばわかるのだ。未成年者に間違った情報を意図的に与え続ければこれは虐待だぞ。意図的でなかったとしても、結果が悲劇的であることには変わりがない。
どの程度の割合で、君が言うところの「埋もれている原石」があるのか、そいつを見つけ出すためにどれだけの金を投下すればいいのか、そのリスクを誰が負うのか、そこがはっきりしない。
誰も「埋もれている原石」なんて言葉を使っていない。俺は「天才を発掘するためにコストをかけろ」なんて主張をする気はない。「万人に平等に機会が与えられていない現状には問題がある」と言っているだけだ。その問題の解決にをどの程度取り組むかは政治判断になるが、ここではそこまで論じる気はない。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
どのように合理的に選ばれたか説明はされていない。
馬鹿。要因として考え得る可能性が一種類しかなければそれを要因と考えるのが合理的に決まっていよう。俺の挙げた要因を否定するなら、イチャモンでない他の要因(あるいはせめてそういうものが存在する可能性の傍証)を挙げてみろというのだ。挙げられないのなら、要因として考え得る可能性は一種類しかないということに君は同意せざるを得ないはずだぞ。
ちなみに、僕の「自分の意志」を言い変えると、「もう変更できないこと」の意味に近い。
ミスしたかもしれないけど、もう後戻りできない固定されたものであると見なす。
君の三文人生論など誰も興味がない。君は教祖様ではないのだ。「機会格差は問題であるか否か」という話をしているときに君の人生観なんて明後日の話題を持ち出すな。「機会が与えられていても失敗する奴は失敗する」なんて全然関係のない話だ。ここではミクロの話ではなくマクロの話をしている。機会が十分に与えられる人間が多ければ、その機会を利用して成功する人間が全体として増えるのは自明なことだ。別にその機会に乗らなくてもよい。問題は、機会がないということはその選択の余地すらない(あるいは理不尽に狭められている)ということだ。そして選択の余地がなければ責任の取りようがないことは定義上自明なことだ。
大学院からでも編入可能だろう。少なくともそこで挽回はできるはず。
後は学者か、官僚か商売人として目が出るように努力するしかない。これは、自分の意志な。
同じぐらいの資質の生徒が、大都市では「お前は今までマイペースでやってきたから現時点での成績はよくないが、本気でやればどこの大学でも行ける。やりたいようにやれ」と言われ、地方の学校ではこういうことを言われたりする。その差がどこにあるか考えてみるといいよ。
自分がはめた器の大きさに、自分が収まってしまっただけのこと。
大都市でも器の小さい教師もいれば、そうでない教師もいる。
しかし、出会う教師はその一人なのだから、結局わからないものだよ。出会いなんだから。
ただその言われたことを信じてしまったのは、彼の選択なんだから仕方ない。これも自己責任。
最後に、君は苦学生というのを知ってからそういうことを言うべきだな。あれはなかなか苦しいものだが、苦学生にすらなれない人というのもけっこういるものだよ。
というのかね、ウォーリーを探せじゃないけど、どの程度の割合で、君が言うところの
「埋もれている原石」があるのか、そいつを見つけ出すためにどれだけの金を投下すればいいのか、
そのリスクを誰が負うのか、そこがはっきりしない。
そら街中歩いていれば一億円が落ちているかもしれないけど、普通はしない。とりあえず竹やぶにいけと。
思うところとしては、大卒の資格を得るためだけの大学なんていらないと思うし、
入試制度などの選抜方法を改善したり、一本道のキャリアパスみたいなものを
改善していったほうが、まだほどほどの宝石未満を拾える可能性は高まるだろう。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
どのように合理的に選ばれたか説明はされていない。
「自分の意志だ」と簡単に解決してしまっている君の方だ。
大学でミスをしたとしても、少なくとも高校時代とは選択肢の多さが変わっているのだし、
4年の間に何か行動に移すことは出来るだろう。そこで自ら何か出来ないやつは、たぶん将来もダメだろう。
全くその通り。同じ行動に対してどういう結果が得られるかで人間の行動なんて変わってくるものだ。だから「自分の意志」で全部を解決することはできないのだ。
まあ誰も自分の意志でなんて全てを解決できるなんて言っていないんだけどな。
というのか、最高の選択肢が最高の結果を呼び込んでくれるわけでもないし、
最高の結果を今得ている人が、必ずしも最高の選択肢を取ってきたわけでもない。
さらに、最高の選択肢をとるために、どれだけリスクをとってきたかも見落としている。
誰も全知全能の神じゃないんだから。神なら将来の結果を見越して正しい選択肢を教えてくれる。
明日どこで地震が起こるから、どこそこには行かないように、とか。
君はそんなことを期待しているんだろう?w
エリートコースを歩めば、万事楽かと言えば、社内の競争も激しいし、
体がぼろぼろになるとかいろいろあるだろう。にもかかわらず、ちょっとしたミスで
左遷されれば、人生終了のベルがなるのだな。それが外部の変動で起こることもある。
それに対して、程ほどの学歴でもほどほどの人生が送れることもあるだろうし、
女性であれば、結婚して意外な幸せを見つけることなんてこともある。
まあそういう運と選択と両方の積み重ねで決まってくるものなんだから。
いずれにしても、何らかの芽をつんでいくことでしか、先は開いていかないとも言える。
君の文章を読んでいると、曽祖父が誰それと結婚していたら、もっと血筋のいい家系の子弟となり、
もっと優れた人生を送れた、とでも言えそうな感じだwそういうのも運と自己選択の掛け合せの結果だから。
君は地方から東大生が生まれるように、「大きな世界」を紹介してやったらいいじゃない。
そうやって情報弱者が機会を得る努力をするように支援する。だけど、彼らが東大に行っても
周りの優秀さに怖気づいて引きこもるかもしれない。そして君を恨むかもしれない。
そんな時に備えて、それは彼らの自己責任だよ、と刷り込んでおかないと、自分の身が危なくなるかもね。
だけど君がそんなリスクを抱え込んでしまうことも、自己責任だと認めないといけないのだが・・・
ちなみに、僕の「自分の意志」を言い変えると、「もう変更できないこと」の意味に近い。
ミスしたかもしれないけど、もう後戻りできない固定されたものであると見なす。
だから悔やんでも仕方がなく、改善するために何かをする、それの積み重ね。
いや、相手は法律的にも社会的にも未成年だからね。本人の意志は全て自己責任とはいかんのよ。
難易度の高い大学へ行きたいと思っている人間の男女比がぴったり1:1なら「選択の機会を奪っている」と言っても差し支えないと思うが、それを示しているデータはちゃんとあるの?
データなんか必要ない。その男女比が一致しない理由を合理的に考えると社会的要因が働いている以外には考えられないよ。個性の差は膨大な標本数で吸収されてるからね。
こと入試に関しては機会自体を得る手段は十分あるのだから、それは自分の意志だろう。
同じぐらいの資質の生徒が、大都市では「お前は今までマイペースでやってきたから現時点での成績はよくないが、本気でやればどこの大学でも行ける。やりたいようにやれ」と言われ、地方の学校ではこういうことを言われたりする。その差がどこにあるか考えてみるといいよ。
例えば、誰しも社会に出ると、学生時代にもっと勉強しておけばよかった、と後悔することが多いが、勉強する機会自体は十分与えられている。
さっきも言った通り、未成年者の意志に完全な責任を問うべきではないし、問えない。だいたい「自分のおかれた位置を客観的に判断し、それにもとづいて判断し、行動できるようにすること」というのは大学生頃の時期に身につけたりすることだよ。最後に、君は苦学生というのを知ってからそういうことを言うべきだな。あれはなかなか苦しいものだが、苦学生にすらなれない人というのもけっこういるものだよ。
それだけでは因果関係までは説明できないことは言うまでもないし、機会格差が主たる原因であるかは、わからないではないか。
ためにする議論だな。他に要因として合理的に想定できるものを挙げてからそういうことは言ってくれ。
ちなみに、機会は平等だとは言ったが、「どこまで戻れば平等なのか」ということは非常に難しい話であって、そう簡単にけりがつく話ではない。
そんなことは当たり前だ。そしてその台詞を噛みしめるべきはむしろ、「自分の意志だ」と簡単に解決してしまっている君の方だ。
男性より女性の方が、難易度が高い大学へ行く事へのメリットが少なくデメリットが多いから行きたがらないのではないか。
それは「機会選択の格差」ではないのか。
全くその通り。同じ行動に対してどういう結果が得られるかで人間の行動なんて変わってくるものだ。だから「自分の意志」で全部を解決することはできないのだ。
やっと言いたいことがわかったのでまともに話ができるかもしれん。
俺はその反論1の質にしか興味がない、というか、その例1を引き出すための挑発として最初の質問を仕掛けてる、という側面があるんだよね。で、案の定真っ先に例1で応じてんだから世話がない。
だったら釣られた俺が馬鹿だったし、あんたも相手を間違えた。それだけのことだな。
あと、興味はないとはいえ一応指摘しておくと、その例1例2例3といくつも用意するやり方においては、例1と例2と例3が矛盾対立するようなものであってはならないはずだろう。でなければ、ためにする議論になってしまう。話者に一貫したスタンスというものがなくなってしまうからね。
言いたいことはわかる。ただし、俺のスタンスはいわばメタなもので、「この前提は絶対に正しいからまず認めろ」というのがまず嫌なんだよ。むしろ、「あんたが絶対と信奉している価値観は別に万人が無条件に認めるような絶対的なものではない。あんたと相対立する価値観にもそれなりの合理性があるはずだ、例1、例2、例3など。さて、どこを議論の出発点にしようか?」ということを誰に対してもまずやる。逆に言うと、俺が信奉している価値観を正しいと押し切る根拠なんてどこにもないと思っているから、価値判断の源泉については「見せろ」と言われなければ見せない。宗教論争になるのがいやだからね。
ちなみに、こんな話もある。細部は違ったかもしれん。
釈迦が人に「神はいるのか」と問われて、「いない」と答えた。ところが、次に人が来てまた同じことを問うたとき、「いる」と答えた。これを見ていた弟子が「どうして矛盾する答えをするのか」と問うと、釈迦は「あの二人が『神』という言葉のもとに思い描いていたものは違うではないか」と答えた。
別に自分を釈迦と並べているんじゃなくて、「神」の定義が違う人間が二人で言い争うのは嫌だということね。相手の土俵を推定して、相手の土俵でものを言わないといかんだろうと。
あんたに納得してもらいやすい話を選んだつもりが裏目に出たというだけだよ。正直、あんたのことを当初の言動から「学校の勉強なんか役に立たん、英語とコミュニケーション能力だけがあればよいのだ!」的な反知性主義者だと想定したもんでね。さすがにそれが釣りだとは想像できなかったが。
俺が言いたいのは、あなたのように公平性を重んじる価値観からは、英語を採用する理由は全く出てこないだろうということ。言語の性能(性能というより習得の容易さだな)はその中の例示の一つにすぎない。
廃止と言わぬまでも、量を減らせとは言っただろう?なし崩し的にゼロになってしまう論法だから反対したわけだ。正直、「上を下に合わせさせる」というのは暴力的だと思う。
「情報工学」全般の話をしているのに企業社会だけを想定する必要などなかろう。大雑把な言い方をすれば、大規模情報システムだけがITの全てではないということだ。
だいたい、Cやアセンブラが使える人間がJavaやらC++を覚えて標準的な書法で書くことは、好き嫌いはともかく本質的には難しいことではないわけで。道具の使い方を覚えるということに対して「必要があればやるけれど、必要がなければやらない」というのは非常に当たり前の立場だと思うがね。
で、どのC++のクラスライブラリが重いというのか、とか、C++とFORTRANについての議論については、君は全面撤退ってことでいいのかな? 具体的に質問に答えなくなっちゃったからなあ。
どっちでもいいよ。だいいち、数値解析の専門家がC++で書いたコードと普通の数値実験屋がCで書いたコードの性能の比較なんて問題は非常に枝葉末節じゃないか?そもそも、「普通の数値実験屋」がどういう奴かという範囲の取り方でいくらでも恣意的な結論が出てくる話だから、議論して実になるとも思えない。
そもそもそんなことを言えば、FizzBuzzすら書けない奴がCで書いたコードより速いコードをPerlなんかで書くことさえできてしまうかもしれないが、そんなの別に自慢にもならないし、(たとえば)数値計算でPerlを使っていい理由になんてならんだろ。俺も論旨を混乱させた責任はあるが、そもそも話がずれすぎている。俺が言っているのは、「速いコードを書くことが理論的に可能かどうか」ではなく、「速いコードを書くために本人が持っているべき素養」の話をしているわけで。
そしてそもそもこの話自体「素養」というものが必要か否かという点から分岐したものだから、その意味でもこの話は必要なかろう。
以下蛇足。
あと、ギリシャの民主主義については明確に誤解。ギリシャに伝統を引いてくるのは反王権主義者が持ち出した大義名分的なものであって、明治維新で倒幕派が天皇を担ぎ出したのと同じこと。
それ相当偏った歴史観じゃね? ためにする反論なのか、それとも本気なのか、どっち?
俺はむしろ君の方が相当偏ってると思うけどね。だって古代ギリシャの民主政が途絶えてから一体何年経ってたわけ?それに、市民革命の基盤になったのはむしろ封建議会の方なわけで(これもいちゃもんはつけられるけど)、これはむしろゲルマン文化のはずだよ。それをどうギリシャ文化の伝統と理解するのかかなり不思議。明治維新だって王政復古を唱えていたが、どう考えてもあの政体は西洋からの輸入品でしょ。同じことだよ。あんな政体が歴史上日本に存在したことはなかった。なんで戦前、あんなに後醍醐天皇があんなに高く評価されたと思う?
いや、貴族階級は言いすぎだろ。市民階級でいいと思うんだが、そこは。元々民主制って始まりはそういうもんだろ。惣とか寄合から近代民主主義を導けるというならやってみてくれよとしか。
ちょっと調べてみたが、貴族階級は余り適切でなかったようだ。そこは撤回。
導けるわけがないから聞いてるんだよ。ただし、始まりはそういうもんに決まっているが、それが本当に現代と連続性があるのか、と俺は聞いているわけなんだが。
そもそも、都市が自治を行うのはギリシャのポリスじゃなくても歴史的に普遍的な話なわけで(英語版Wikipediaを引いたら戦国時代の堺が挙げられていてびっくりした。さすがに思いつかなかった)、誤解してるかも知れないけど日本の江戸時代でさえ町役人って町人階級だからね。つまり、民主主義にとってはギリシャ思想が必要不可欠なものであるという根拠はますます疑わしいと思うんだ。だいたい、それを言い出したらアメリカはなんなの?あれこそ、草の根民主主義たる植民地自治政府の発展じゃない?