女は村に10人しか男がいなくても、自分がその中のトップと結婚できるなら、それで満足するんだよ
単に目に入る数が多いほど、選り好みが激しくなるというだけ
でも村に男が何人いようが関係なく、俺は男とヤろうなんて最初から思わん
そこの違いだ、セクシャリティの違いっていうのは
ブコメより
『道路で亡くなった動物を発見したら、道路緊急ダイヤル(#9910)に連絡。ただ公園となると役所になるのかな。』
ilktmさんありがとう。今回は役所で大丈夫でした。子供たちはねこを道路から移動させたとのことで、ちょっとグレーですね。子供たちには素手で触ると良くない場合があること、砂場に埋めないように話しました。
おちんぽ欲しいのぉ
ロールプレイングゲームとは、なにか。
未知のはずが、引き返してやり直せる旅路。
決められたエンディング。
だが本当に、これでいいのか?
コンピューターゲームが生まれる前、最初のロールプレイングゲームは紙とペンでできていた。
そこには、興奮と自由があった。
取り戻そう、真のロールプレイングゲームをスマートフォンで。
一本道ではない、一度きりの旅をしよう。
彼らが微笑むか、悲しむか。
愛って難しいからね。個人的には、何でもかんでも素晴らしいと褒め称えるのは、それは愛じゃ無くただの依存だと思うから、昨今の風潮はむしろ「愛する心の欠如」だと言いたい。たとえば昨今の結婚問題でガーガー言ってるおかしな人たちは、何かに過度に依存して「私の思う理想の○○」を押しつけてるだけであって、何かを愛する立派な心があるようには全く見えない。
そもそも本当に対象を「愛」するなら、いいところも悪いところも見据えて、自分の事と受けとめつつ、文句も言い、受け入れるべきところは受け入れて、相互に尊重する姿勢を重んじるべきではないか。「私」と「国」との関係は、そのくらいがちょうど良くて、それを「愛国心」というならばそれはなるほど結構なものだ。離れて暮らしている家族のことを、普段は特にお互い干渉しないけど、その成功を誇らしく思ったり他の人にちょっと自慢したり、その良さを語ったり、時には真剣に怒ったり、一緒に借金を背負うなど苦労をともにしたり、そういうのが「愛」である。いろいろ言ってもそれで相手を見捨てたり逃げ出したりしないのが愛。時にぶち殺したりしたくなってもそれが愛。
だいたいさあ、何かを愛しようがしなかろうが、第三者がごちゃごちゃ口を出すのは僭越ってものだ。そんな風潮があるなら、それ自体が間違ってると思うよ。