外れてるのはお前の頭のネジだな
俺は今までTwitterをやっている時、就活系の広告で就活生の不安を煽るような内容のモノを見かけた時は必ず『冒涜的』と通報するようにしていた。
いや、『冒涜的』はちょっとおかしいなと自分でも思っていたけど、人の不安を煽ってそこに付け入る広告の悪質性をピタリと言い表す言葉が通報時の選択肢にないから仕方ないんだ。
そこはどーでも良くて、俺が今悩んでいるのは、その行動がエセリベラル勢力のやっている行為と同じなのではないかとふと気づいてしまったことだ。
俺は自分の気に食わないという感情を独善で武装して他者に圧力をかけ、勢力内で認められたモノ以外のあらゆる文化に火をつけていく、リベラルを名乗る連中が大嫌いだ。
個の自由を大切にする原義的な意味でのリベラル思想には大いに共感するが、現代におけるリベラル勢力は反吐が出ると思っている。
ただ、自分の通報行為もそういう連中の火付け行為とやっていることの本質は同じなんじゃないのかと気が付いて自己嫌悪に陥っている。
俺は少なくともその手の広告は悩める就活生をさらなる泥沼に沈める邪悪だと考えているけど、ただTwitterはその広告表現を良しとして掲載しているわけで、それに対して自分が噛みつくのは筋が違うのではないかと思った。
まあ、広告は突然目に入ってくるので嫌でも見てしまうのだが、そうしたリスクも込みでネット上のプラットフォームを使っているわけなのだから、やはりそこに文句をつけるのは違ったのではないかと思う。
「こういう表現はいかがなモノだろう?」と疑義を呈するくらいならともかく、通報という極小でも圧力の伴う方法で糾弾を行うのは暴力的だったのではないかと反省する次第だ。
ただそのことを考えていた時、同時に自分の中で異論も生まれた。
リベラル勢力が表現に嚙みついているシチュエーションは、多くの場合、その表現を愛好している人々がたくさんいるモノに対して所謂繊細ヤクザが火炎瓶を投げつけている構図だろう。
そうした問題に対しては、「お前の嫌悪に誰かの好きを侵すほどの重要性はねーよ」と思う。
だがそれに対して、俺が嫌悪している『就活生の不安を煽る広告』を表現として愛している人たちが果たしているのだろうか?
金儲けの手段として用いている人々はいても、その表現を心から愛している表現者は、あるいはその表現を受けて「ああ、私に厳しい現実を気が付かせてくれてありがとう!」と感謝した受け手はいるのだろうか?
ただただ私欲を貪る屑が人を追い詰めるために使う表現にを叩くことは悪いことなのか?
14年経ってもこの有様だからね
数学や英語といった高校のカリキュラムで落ちこぼれるやつは大学の人文学をやってみたらええと思う。
私は生まれ持った身体の性(セックス)を基準に社会生活をおくる方が正しいとは思ってるんだけどね
それはジェンダーとセックスが一致している人間にとっては普通の営みであってもやはり一致していない人からするとその時点で普通の枠組みから無理矢理外されてしまうわけで
これ大切なのは本人が望んで外れたのではなく生まれつきの特性と社会の性質が噛み合わないことによって無理矢理外されてる点なんだよね
普通の枠組みの中で社会生活を送ることが困難な人にまで普通を求めるよりかは、互いの妥協点を詰めていくほうが現実的だと思うよ
なんの仕事してんの?