2020年11月19日の日記

2020-11-19

完璧文章存在しない。完璧絶望存在しないようにね

 上記台詞村上春樹風の歌を聴け』の冒頭の台詞であるが、先日これについて書こうと決めた矢先、ホッテントリ村上春樹記事が上がっていたので先取りされたことに焦りつつ書くことにした。ところで純文学ギャルゲーと言えばドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンがそれに当たると思う。詳しくはネタバレになるので避けるけど

 タイトルで述べた台詞村上春樹読者、つまりハルキストにとってもあまり深くは理解されていない台詞で、ただ何となくオシャレなだけの台詞に近い扱いを受けている。でも実際のところそれは間違いである。文章漠然とし過ぎていて意図するところを汲み取りにくいのは確かなのだけれど、それでいいのかハルキストタイトルでは幾分省略したのだが、原文は次の通りだ。

完璧文章などといったもの存在しない。完璧絶望存在しないようにね。(『風の歌を聴け』より)

 昔、春樹本人がこの言葉について次のように語っている

小説書いてて、これは正しくないんじゃないか、嘘なんじゃないか小説を書く意味なんかないんじゃないか、って思うときね、ここを読み返すと、ああ嘘じゃないなってね、勇気づけられる。書くだけのことはあったのかなって思うんです」(「宝島」83年11月号)

 完璧文章とは何で、完璧絶望とは何なのか。この言葉から完璧に読み解くことができる。よく聞け。

 つまり文章とは、物語とは基本的に何かを伝えるために書くわけです。文章によって我々は何かを伝える、何かを伝えるために文章を書く。当たり前の行為です。我々はそこに避け難く、何らかの主張や主旨というものを紛れ込ませます。つまりもっと言うならば自分意見というものを紛れ込ませるのです。要は、どんな文章にであれ何かしらのエゴというものが混入することになるということです。

 とは言え、何らかのエゴ文章の中に、あるいは物語の中に混入させるということは、ある意味では文章純粋さ、文章の混じりけの無さを汚濁してしまうことにも繋がります。つまり人間文章を書くが故に、つまりは伝達という手段を取るがゆえに、文章自己エゴを混入させ、その物語を完結した破綻のないものから不完全で安定を欠いた代物へと変貌させてしまうということです。よく人は小説というものエゴの発露であると主張しますが、これは嘘で、むしろエゴ小説小説たりえるための何かを、文章文章たりえるための何かを阻害し、邪魔しているのです。エゴは、小説を完成させる為に、あるいは、文章を完成させる為に、それらを完璧にする為には全くもって不必要どころか、邪魔ものでさえあるということなのです。

 あるいは、完璧文章というものが仮に存在するとすれば、それはその文章の中に一切のエゴが含まれていない文章のことを言うのです。文章自己を含まない。つまり、伝達の手段として文章を用いながらにして、一切を伝達することを拒絶した文章。一欠片たりともエゴを含まない文章。仮に、本物の文章というものが、完璧文章というものがあるとすれば、それはそんな文章に他なりません。そう、伝達の形態において何事も伝達せず、何事もエゴについて伝えようとしない。そこに、一切の伝達の可能性を認めず、そのような可能性に一片の期待さえ抱くことのない――そういう文章のことを人は完璧文章と呼ばうのでしょう。果たして、そのような文章はあり得るのか。

 ここで、冒頭の台詞に立ち返ってくることとなります。つまり、そのような完璧文章などといったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

 伝達の可能性に一切期待しない、一片としてさえエゴを含まない、自己の伝達を拒絶した文章は、本当に存在するのでしょうか? 否、結論から先に述べれば、そんな文章というもの存在しません。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望に他ならないのです。絶望。つまり、それは自己存在がこの世において断絶してあるということです。自己存在が、誰にも伝わらないということです。あるいは、伝えようとしても伝わらないということです。力の限り叫んだとしても、何一つ誰一人にさえ――言葉が通じないということです。伝達の可能性が存在しないということは、絶望しているということは、そういうことなのです。

「私は悲しい」と人が言う時に、それは「私は悲しい」という気持ちを伝えることへの、希望を含んだ発話であると言うことができると思います。その文章には、自分感情を、自分エゴを誰かへと伝え、誰かと共有し、誰かと何かを分かち合うという切実な希望が溢れているのです。しかし、それは同時に完璧文章ではありません。何故か。そこには、エゴがあるからです。

 自己がそこには混入しており、エゴ文章を汚濁させているからです。

 伝達とは、感情の伝達とは、文章の完成度を基準に考えれば、汚濁であり不浄の象徴とさえ言えるかもしれません。

 でも逆に、そこに何一つとして、伝達への期待が含まれていないとしたら――? 何一つ自分感情を伝達することなく、何一つ自分エゴを伝えることなく、何一つとして他人と何かを分かち合いたいという希望を含まない文章――エゴの一切を根絶した文章存在するとすれば――? それは、恐らくはエゴの一切を根絶し切った、完璧文章である筈です。

 そして、それは同時に、明白に絶望なのです。

 誰かと何かを共有することを放棄し、誰かに何かを伝えることを放棄した、伝達の用を為さぬ伝達。仮にそんなもの存在するとすれば、それは絶望にほかならないのです。一切の、伝達への望みを絶った、絶えた望みのみを伺いうる文章――それは完璧文章であると同時に、完璧絶望表現ということになるのです。


 して、結局のところそんな文章存在するのでしょうか。

 そう、存在しないのです。そんな、完璧絶望した文章。伝達への望みを断ち切った文章。それは存在しないのです。完璧文章は、完璧絶望存在する時にのみ、存在することができます。でも、それは存在しないのです。何故なら、伝達を目的とするための文章によって、伝達の可能性の絶滅表現することは、不可能からなのです。

 あるいは、そのような、伝達の根絶、伝達の不可能性を仮に表現しようとしたところで、そこには、「筆者の絶望」が必ずや表現されてしまうのです。そこに、色濃い絶望を刻み、筆者は自らの絶望、何一つとして伝えるに至らなかった絶望を、文章に込めざるを得なくなるのです。つまり、そこには作者のエゴが混入し、伝達の不可能性が打破されてしまうのです。そう、完璧絶望存在する時、完璧絶望存在否定されるというパラドックスが、そこには示されています。つまり比喩を使って言うならば、その瞬間、我々の心の内側にある凍てついた海は、言葉という斧によって砕けることになるのです。

 だからこそ、春樹は上記のように言ったのではないでしょうか。「嘘じゃないな」と。どんな文章にであれ、人はどうしても、どんな形であってさえ、エゴを、つまり自分真実を混入してしまうのです。そこには、表現不可能性ではなく、表現不可能性の不可能性が存在しているのです。人は、どんなに黙っていても、どんなに沈黙を守ろうとしても、どうしても、誰かに何かを伝えざるを得ないのです。

 つまり完璧文章といったもの存在しないのです。完璧絶望存在しないようにね。

anond:20201119002531

関連会社のものだけど電源入るかどうかのテスト絶対して返してるはずだからまぁその時は良くても結局だめで運が悪かったんたろうな

anond:20201118185938

オンラインだとそういう事もあるのかきついな。数年前働いてたけど、窓口で修理する時は最後目の前で電源入るか確認して通話テストまでしてたよ。

anond:20201117173333

俺は「産後は嫁の人が変わる。産後すぐが勝負で、ここでポイント稼がないと一生恨まれる」と周囲に言い聞かせられてたんで死ぬ気で頑張った。嫁に少しでも楽してもらうためにね。

おかげさまでナイス旦那ラッキーだという評価を得ました。たぶんあなた自分がどれだけ辛いかきっちり旦那さんに話して最大限のサポートを引き出した方がいい。

で結局、闇のゲームってなんやねん

なにがしたいね

anond:20201119002130

苦しんで地べたを這ってえらい!

anond:20201118205029

場をきっちり仕切れるやつは障害者とは言わないんだよ 存在してるだけで本人か周りか社会のどれかが迷惑を被るから研究対策支援必要なのが障害者

お前ら「○○してえらい!」だのと言うけどよ

だいたいおめーらどこから目線で言ってんだ

何がえらいだ?馬鹿どもに上から褒められて嬉しがるほど浅い感性してねえんだよ

カスみたいな「○○してえらい!」って言葉を欲して媚び売るクズもそれを取り巻くチンケなカス共も気に入らない

願わくばその小さい内輪の中だけで気持ち悪い傷の舐め合いを永遠にしててくれ外に持ち出して理解してもらうとするな

苦しんで地べたを這っても認められない俺の隣で安くてすぐ壊れる承認を嬉しそうに受け取るな

anond:20201118235635

子供が虫の脚や羽を千切ったり蛇をつつくのに罪悪感を抱かずむしろ嬉々としてヤるのに似てるんだよなぁ

口の周りにマジック個人情報を書くことを客に義務

そうすれば飲食店マスク外して喋る人が減るだろう

anond:20201118225531

ガラケーを「選ぶか」スマホを「選ぶか」ならそうかもね。

でも彼は「開発」っていう「進歩」をいってるんだよ。

anond:20201118224613

その村の感覚のほうが正常だよ。

医者以外の待遇上昇の力があるから

ソニーの音質の良くなるmicroSDはあり得る話だと思う

ソースは、自分の劣悪なmicroSDが原因でノイズプチプチが頻発するという経験から

ソニーの同microSDも、公式ページで『電気ノイズの低減』『品質の安定』が特徴と記載してるので、少なくともオカルトトンデモの類ではないと思うけどな。

https://www.sony.jp/rec-media/products/SR-HXA/

今回のUSBは、さすがに音質に影響できるのかって位置から正直半信半疑だけど、だからと言って無根拠否定するべきではないと思う。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1289819.html

anond:20201119001220

あれ本体は別だぞ 見えない所にAtomマシンが入ってケーブルが伸びてる

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