はてなキーワード: トムラウシ山とは
集合知っていうかネットの力とかかな。wikipedia とかもそうだけど、みんなの力で!みたいな顔をしていて実際は数万人とか数十万人に1人のエクストリームな知識と行動力の人だけが動かしてるのが現実だよな。
世界の何十億人が使っているコア技術なのに、ボランティアの1人が全てを背負っている。
あれは自分もOSSだから多くの人たちが力を合わせて開発、運用しているんだ!と何故か無邪気に勘違いいしてたけど、実際は一部のエクストリームな活動の犠牲の上に積み上げられていた。
インターネットの集合知とかも多分嘘で、ネットに出回っている100の情報があったら99.9%は利用者の1/10000くらいの人間だけが出力した内容、またはそれらの劣化コピーの使いまわしな気がしている。
これは元々人間には独自の情報を語る能力、独自の考えや感想とか個人の妄想とか感情とかを垂れ流すインセンティブもないし、会話にそんなものを誰も要求していないみたいな、旧来の社会敵な動きとかが原因な気がする。
口を開けばトムラウシ山遭難の話だとか、三毛別羆事件、福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件。
これら情報は集合知じゃなく、一部の記者の仕事であり。そしてそれをまとめた一部のエクストリームな活動家の仕事であって、集合知ではない。
エクストリームな1人に依存している状況なので、専門家が正しいことを言っていても大衆の騒音にかき消されてしまっている、みたいな集合に潰されてる智慧がある気がする。(具体的な事例は思いつかないけど)
それって多分私が思い描いていた集合知のイメージとはかけ離れている。
気がついたと言うか、認めたくなかった事実というか。
霊山「妙見山」にあるしおき場(処刑場)は、大阪では有名な心霊スポットだ。
しおき場のすぐ手前には、これまた心霊スポットである「野間トンネル」がある。
一気に2つも心霊スポットを巡れるのだからお得だ、という妙な損得勘定を持ちながら、車を進めていった。
野間トンネルは長さ10mもない、トンネルとも言えない規模だった。
車のヘッドライトが照らすコンクリートの白さが不気味で、穴の先はライトで照らしても真っ暗だった。
時速20kmで、のろのろと入っていく。
入った先は、雰囲気が全く違っていた。
ここに入るまででも、狭い山道、街頭がほとんどない暗さ、廃墟のような家が不気味で、雰囲気は十二分にあった。
特に「しおき場」に入るために「わざわざ」入った妙見山からは特に暗く、これから心霊スポットに入るんだ、という気持ちを高めてくれていた。
トンネルの先は、真っ暗だった。
風に吹かれ、杉だろうか、月明かりに照らされた木々の葉が揺れている。
それだけだが、その静けさ、雰囲気はまるで時間が止まったようだった。
まだ夜の7時なのに、深夜の2時を過ぎているとしか思えなかった。
野間トンネルに入って、20~30mほど進んだだろうか、「目的地へ到着しました」とナビが教えてくれた。
だが周囲には何もなかった。
その先の道は狭く、お寺に続いているようだ。
お寺に用はない。引き返してみることにした。
もっと注意深く、何があるかを観察せねばならなかった。
隣の妻から、息を吞む声が聞こえた。
「違う違う、たぶんここじゃない」
妻の声は上ずっていた。
「この先?」
「うん」
少し進むと、脇道が見えた。
「ここや」
俺がそれだけ言うと、2人とも黙ってしまった。
ここに到着する前は、外に出て探検しようと思っていた。
だが、とてもできなかった。
しおき場は、戦国時代、2つの家の諍いを収めるために、豊臣秀吉の名で「両家から農民を10名差し出して、斬首する」ことから始まった場所だ。
そんな場所に、面白半分で車を停めて中に入ることは、その霊を冒涜しているような気になったのだ。
今更な話だった。
だが今なら、たまたま通りがかった、道に迷った体で帰れるのではないかと思った。
ようやく窓を開けたのは、山を降り、コンビニが見えた時だ。
緊張が抜けたせいか、頭が痛かった。
妻と2人、車の中で寝た。
これは先週の出来事だ。
あれからずっと、しおき場のことを考えている。
その真っ白な威容、ぽっかりと空いた真っ黒な穴。
その先は異世界のようだった。
今でも鳥肌がたつ。
妻もあの光景が忘れられないのだという。
妻は「しおき場の中を調べなかったから、よけいに怖いのかもしれない」と言う。
それもあると思う。
だが、それだけでもないような気がした。
こうした心霊スポットに耐性がないせいだろうか、非日常に浮かれているのだろうか。
この客の中には、また同じ山に、同じ企業のツアーで参加した者がいたらしい。
それに比べるとお子様もいいところだが。
また行こうと思う。
(作成中)
最初に述べておくと、ファスト映画が法的にどうか、という話は門外なのでするつもりは無い。また、創作物に対して真摯な視聴者や読者がしばしば語る「創作物は制作者の意図に従って、制作された形のままで楽しむべきだ」というような精神論についてもここでは触れない。この記事ではあくまでもファスト映画の実体と実利、そしてその意味するところのみを考える。
ファスト映画とは(YouTubeなどにアップロードされる映画のダイジェスト版のような動画)
ファスト映画についてまず第一に受け入れなければならないのは、情報伝達が非常に早く冗長性が無いということだ。この点は、娯楽作品の溢れたこの時代に決して無視できない「価値」であることをまず意識しなければならない。現代人は娯楽にスピード感を求める、ということはしばしば言及される話だが、これもそのひとつと言えよう。ファスト映画がオリジナルとしての映画を改変したものである、という話は本質を不明瞭にする。これを避けるために次の例を考えてみよう。私は「Wikipediaで色んな事件について調べると読み物として面白い」と言っている人を見かけたことがある。たしかトムラウシ山遭難事故の話だったと思う。Wikipediaの記事では事件の経過や結末が端的に語られているわけだが、これは事実のみを書き綴った冗長性が全く無いストーリーだ。ではここでトムラウシ山遭難事故を映画化した作品があったとしよう。Wikipediaの記事と映画のどちらが面白いく、創作・娯楽として優れているだろうか。映画の方が面白いと断言はできないのではないだろうか。そしてこの構造は先にあったもの、オリジナルが逆転しているというだけで、実態としては映画とそのダイジェストの関係と変わりない。
創作の視点からファスト映画を見た時に重要なことの第一はこれである。創作物というのは作品としての体裁を整えるために多くの要素を付け加えられる。だが実際には登場人物のセリフなどなくてもストーリーは成り立つし、あるシーンが無くても全体の流れに影響は無い、ということは決して少なくない。つまり、創作物というのはそもそも余分が多過ぎるのではないかという問いかけに結びつくのだ。そこに私が感じるのは新しい創作の可能性、ダイジェストのように簡略化された創作物のイメージである。
第二に考えたいのは、ファスト映画をきっかけに本編を見るという視聴者の存在である。私はファスト映画を見たことはないが、小説のあらすじを読んでから購入を決めることならある。例えば私はミステリ小説の叙述トリックというものが好きになれない。そのため読む前に除外しておきたいと思っている。()。その意味ではファスト映画が提供している価値は映画の面白さを盗用したものというよりも、むしろスコッピング(未読・未視聴の創作物の中で面白そうなものをピックアップすること)の助け。いっそのこと製作者が自ら「ファスト版」を発信して宣伝としてもいい。()知っているストーリーであれば面白くないのか、という問いかけも浮上する。
山を登るわけではないが、読み始めると止まらない。
有名なもので言うと、トムラウシ山遭難事故、八甲田山で行軍時に起こった遭難事故がそれにあたる。
どこが怖いのかというと、大きく三点ある。
穏やかな天気だったのに、突然ふぶく。
すぐ止むと思っていたのに、ずっと雨や雪が振り続けている。
天気が悪いだけで、道のりは険しく危険になる。命を落とすリスクがグンと上がる。
変に経験があると、やめときゃいいのに、これくらいの雨なら大丈夫だったと歩き続けてしまう。
滑落や雪崩はほぼ一瞬で全てが変わってしまうが、悪天候によるものは、疲労や風向きでどんどん悪化していく。
ここでやめとけば、ここでああしておけば、と助かる余地がいくつもあっただけに、読んでいる方からすると、ハラハラする。
死亡までしてしまった事故では、これは避けられなかったよね、というのはほとんどない。
ここでまず間違って、さらにここで判断を誤って、引き返す判断ができずに…とどんどん逃げ場を失っていく。
正気を失っていくさまが生々しく、恐ろしい。
三つ目は、近くにいた人が、なくなっていくところ
やむなくビバークし、夜を明かし朝になったら、隣にいたひとが冷たくなっているのが怖い。そばで死を体感するのが恐ろしい。
また、亡くなる直前に、滑舌が悪くなり、言動がおかしくなり、最終的には「おかあちゃん」と中高年の女性が叫んでなくなったりする。
そもそも夜の山ってだけでも怖いのに。
季節の変わり目なので、山に登る人はくれぐれを気をつけて欲しい
北海道だって災害は多いはずだよ。十勝沖地震なんかは、約30~40年周期で定期的に発生するといわれているし。
東日本大震災の時も、日高地方の南岸に津波が小規模ながら到達していたはず。
東京人の私から見れば、北海道こそ火山の本場だというイメージがある。
山が好きだ。
ヤマノススメも見ている。
大体、100つも山があるのに、その内の10%に近い山が47つもある都道府県のたった1つに集まっているのがもう、偏りだ。
先ほども思ったのだが、ちょっとえりも県がでかすぎる気がする。
だが、旭川以南をすべてえりも県にしてもなお、稚内県の方が大きい気もする。
ヤマノススメというと、今サードシーズンをやっているが、ひなたとあおいのすれ違いがテーマの話が延々と続いている。
シーンが断片的に存在する程度で、あのテーマは原作にはない。原作はただひたすら山に登り続けている。
サードシーズンも2クールやってほしい。というか、やらなくてはいけない。
このままだと、サードシーズンはひなたとあおいがなんだかすれ違って、仲直りするだけの話になってしまう。
サードシーズンから見始めた知人がいるのだが、割とぽかんとしている。全然山に登らないと言っている。