はてなキーワード: 人格攻撃とは
原作者の訃報の後でも制作会社と脚本家が悪い!という声がSNSにはたくさん書き込まれているが、そのような主張をする人たちはここ数日の騒ぎそのものが原作者の負担になってしまった可能性は考えないのだろうか。
元々は自分の作品をとても大事にしていて、それゆえドラマ化された作品の扱われ方に不満があったから告白したのだろうし、それ自体は作品の生みの親である原作者からしたら至極真っ当な気持ちだと思う。
ただ結果として、告白をきっかけにSNSは制作会社と脚本家への批判の声が溢れかえった。中には脚本家の仕事どころか人格を否定しているととれるものも散見した。
SNSの住民たちは原作者側に立っているつもりかもしれないが、原作者が後に「攻撃したかったわけじゃない」と投稿を削除したのを見るに、彼女は自分の考えを述べたにすぎず、別に誰かが誰かに人格攻撃をすること望んではいなかったし、そうなることを想像もしてなかったのではないだろうか。
もしそうだとすれば、哀しい選択をさせるほどに原作者を追い詰めたのは制作会社や脚本家といった関係者だけと言えるのだろうか。
法っていうのはね、人の復讐心や感情(が行き着く先の殺意)を国家が代行するためにあるものじゃないの。
ビジネス人権家とか言って人の心が分からない人間かのようにいつも肯定派は人格攻撃するけど。
むしろ法によって正しく人の世が治められるにはどうあるべきかを誰よりも深く理解しているからこそ、仮に自分の近親者が無惨に殺害されたとしても、国が殺し返すことで解決とするような安直な発想には理性で抗っていかなきゃいけないと了解しているわけ。
法というのはよりよい社会環境を作っていくためにあるものだよ。罪が生まれる原因を罪人個人に帰着させてしまうのは、思考の放棄とかわらない。
人間が育ち暮らす環境を制御できる最大の権限をもつ国家が、罪人を産みだす社会環境を作ってしまったことと、その改善に真摯に向き合うには、死刑で済ませてたら前進しないのよ。
だからさっさと死刑にするよりも国に負担はかかるけど、無期懲役として養い続けながら、更生の芽がないか探り続ける役目を負うくらいの覚悟が国にはないといけない。それがままならないくらいになれば、本気で社会構造を改革しないといけなくなるでしょ。
死刑にしてたら、どんだけ世の中が腐敗してても、ゴキブリ潰しを延々と続けていれば国は仕事してるように見えてしまうけど、そんな社会は誰も望まない。ゴキブリが大量発生しない環境を作るのが本来の仕事でしょ。
もちろん、実際的には、個人が責任を負える存在だと仮定して、罪が生まれる原因を罪人個人にある程度帰着させてしまうのは有効だよ。だから刑罰があるし、責任能力を慎重に判断した上でジャッジをするんだけど。
命を奪う究極の刑罰に向き合うときは、そもそも人間って本質的に、責任を負えるものなのか?ってことを、負えるものだと仮定する法の枠組みを越えて、科学的にちょっと立ち止まって考えなきゃいけない。
「羊文学は東京の文化資本のある裕福な家庭で育った感じがするから信用できない」という趣旨のツイートを見てほんとうに辟易した。
僕は大学教授と元美術館学芸員のあいだに生まれて人生の大部分を東京で過ごし、大学院も出たのでその形容にどんぴしゃで当てはまるのだけれど、自分の意思で家庭や人生を選べるでもないし、出自を理由に自分の創作物に不信感を抱かるなんてたまったもんじゃないよ……。
誤解を避けるために言うと家庭環境や資本力がもたらす影響を否定しているわけではもちろんなくて、単にそれをその人への人格攻撃や信頼如何に持ち込むのは筋違いにもほどがあるでしょうって話。
FF外からくそほど絡まれるので補足するけれど僕は大学院まで6年間社会学の勉強をしてるから階級と文化の関係なんていまさらみなさんに説かれるまでもないし元来僕が自分の出自への引け目を強く感じる性分なのはツイートを追ってたらわかると思うんすよね……。
資産のある家にしか文化資本は堆積しないんだよーっていうのと同じ話で、たぶん自分が求めるような文化的洗練とか価値観とかの根幹にはそれが生まれるだけの資産的余裕があるってことなんだろうけど、これじゃわたしはどこまで行ってもブルジョワ的価値観から脱却できないのでは……。
この家に生まれたくて生まれたわけじゃないんだからそのことで責められたりしても困るわという至極当然の話をしてるに過ぎないのにいい迷惑だわ……。
https://twitter.com/chelseaguitar/status/1429689115843256320
https://www.kadokawa.co.jp/topics/10952/
米国のサイトとか見ると確かに『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』の元の本は極右系のトランスヘイト思想本であるのは間違いない。
ただ、この本が売れた背景としてトラカルという過激思想集団が好き勝手暴れて10代の少年少女に負担の大きい投薬・手術を推奨したことへの反発なんかもあるわけだよ。
現にKADOKAWAを批判しまくったトラカル連中もそういう背景にはまったく触れずに(気づかれると困るもんな)著者への人格攻撃とかに走っている。
人格攻撃するなら、自称弱者男性って独逸もこいつも卑屈で攻撃的で必死でつまらなくてキモイから嫌いなんだけど
しかし案外…いややはりと言うべきか自分を掴むカギはそこにあるのでもうちょっと言語化してみる
弱者男性の定義は色々あるけど、社会的に不遇な男性ってのは共通認識ではあるまいかアルルメイヤ
どっちもありうる…そんだけだ
じゃあ、社会に不満があるから自分を変えよう。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らそう、とシコシコ自分磨きするでもなく
自分こそが弱者なんだから、女性や老人や障害者ではなく、俺のような弱者男性こそが救われるべきだと主張する、こいつが悪い、弱者男性でございます
個人的には、弱者男性は新自由主義の犠牲になったのだ…犠牲の犠牲…その犠牲になとは思うけど
君ら機会均等じゃなくて俺だけ優先して救えって主張してるじゃん。君らこそリベラルの敵じゃん。社会改良の邪魔ァすんなら、死ね!って感じDEATH
つーわけで、弱者男性が悲嘆してても、責任甜花すんな、甘えん奈、としか思えんが