些細な事なんだけど
昔から「ありがとうございます」はスッと言えるのに「ありがとう」だと言いにくくて困る
まず第一の理由として、近畿に生まれ育ったのだが「ありがとう」のイントネーションが標準語も関西弁でもしっくりこない
「ありがとうございます」は関西イントネーションの影響を受けないので言いやすい
昔から父方、母方共に余計な事ばかり手出し・口出して、その度にしつこくお礼の言葉やお礼の品を強要してきた
敬語使わない相手でも、仲の良い友達にお礼言う時は「ありがとうございますww」みたいなふざけたノリが通じるけど
前職の愚痴。
去年の夏の出来事によって、士業事務所の元上司ババアのこと未だに許してない。
こっちが休職を申し出た時、
「じゃあお試しでテレワークしてみたら?他の従業員の先駆けで」
って明るい口調で提案してきたくせに、
いざ終わってみたら掌返して、
テレワークっつったって後半は毎日資料受け取りに行ってたのクソバカみてぇだし、
そもそもお前が勧めてこなければクソ紙媒体の中テレワークなんてしたかねえし、
金余ってるくせしてテレワーク環境整えてねえのに気軽にそんな提案するなんて、流石ババアのやることは違いますな。
私はお前を許さない。
お前が繁忙期でも何でもないのにテレワークを提案してきたくせに、その後掌返して追い詰めてきたこと、絶対に許さん。
そもそもお前らのコロナ対策がずさん過ぎたから心療内科通うはめになったのに、更に言葉で追い詰めてきたこと、絶対に許さない。
パソコンを置く台を買ったんだけどとても良い。
今まで床に置いてたからホコリとか溜まってたんだがこれでそうはならなくなった。
しかも下に人一人がなんとか入れるくらいのスペースも出来た。
まぁ書かなくていいことはわざわざ書かないよね。コード書くのが趣味だと、敢えて書くこともあるけど、それは便利になるというより過程自体が楽しみだし。
もうちょっと具体的に言語化しないとググってもしょうがないのでは。最近ではこれも書かなくてもアプリが勝手にやってくれるし、そっちのが便利よね
様々な状況の中での感情・行動、自分の中の極限の悩み、それらは昔の誰かがほぼ同じシチュエーションに遭遇して、とっくに解決したり乗り越えたりしているわけで。でも、また同じ壁に当たってしまう。別の人間が同じ課題に、同時に引っかかって、同時に間違っているかもしれない。
なぜこれが起こってしまうのか。感情・行動、心の動きというもののデータが、質的にも量的にも足りていないからだ。情報が足りない。古くは物語の形で、現在ならSNSの呟きで、データは存在するかもしれないけれども、同じデータ形式で、瞬間的に検索できる形で、再利用しやすい情報としての感情・行動データが整備されていない。
「あなたの悩みは誰かが体験し、誰かが乗り越えている」事実は、自分を励まし、課題解決のヒントとなり、同時に自分の唯一性を揺るがす。その心の揺らぎもデータとして次に活かされるだろう。
これでいいよな