自己肯定感が低く、めんどくさい性格の男で、正直自分ほど性格的にダメな男は刑務所にしかいないと思います。
それなのになぜかいい友達ができて、みんな自分を優しい人だと言ってくれます。
自分は優しくするために、というか嫌われないために、自分のめんどくさい性格を我慢し、言いたいことを抑えて、やりたいことも抑えて、相手優先でしてきました。
好きな女の人の恋愛相談を受けて、恋を実らせる寸前まで行ったこともありました。
自己肯定感が低いので、嫌いではないかといつも不安で、それを確認したい気持ちがたまります。
それがたまって、弾けてしまい、結局好きな人ほど友情が長続きしません。
自分を変えなければいけないのは分かっています。自分を受け入れるということを何度もして、潜在意識とやらを使ったり、何度もポジティブな言葉を唱えました。
しかし、そんなことをするほど、精神が壊れていきました。理想の自分になれず、結果もでないのに、ひたすらポジティブになるなんて、狂人にしかできません。
自分は、変われません。
ここに書けないぐらい、めんどくさい性格です。めんどくさい男に彼女なんてとてもできません。友達すら最終的にいなくなるのですから。
自分は、人と関わってはいけない気がしてなりません。人を愛せば嫌われるのです。
ここに書いてあることは、自分の素直な気持ちですが、もしそれが世間と大きなずれがあるなら、病院に行きますのでいい病院を教えてください。
そういう人を尊敬して目指す
そういう未来になると思ってた
みんな死ぬほど忙しいし、消耗してるし、勉強や創作の余暇はすごく少ない
みんな、なんのためにこんなに消耗してるのかわからない
どうして思ってたような未来になってないんだろ
じゃあなくて転んで怪我してもいいの?
小室の「不倫」、本人が認めているのは「家族以外への精神依存」ということだよね。これ、相手が男性の看護師だったなら文春は「洗脳」報道していただろうね。かつての貴乃花やオセロ中嶋の報道みたいに。
ここ数年のなろう小説の名文をピックアップする - わいわい保管庫
http://subnacchi.hatenablog.com/entry/2018/01/18/225832
なろう小説などの読者は、主人公の苦境に耐えられなくなっているという話はよく聞きます。
でもほんとにそうなのでしょうか?
スポーツものなら、ライバルや試合に敗北が描かれてこそ、その後の勝利を素直に楽しめます。
作品内で山と谷が良い具合に配置され完結しているものこそ良作だと思っています。
今の読者は、谷の部分を自分に起きた嫌なことが担当し、作品には山しか求めていないとのことらしいです。
それは「主人公の苦境に耐えられない」のではなくフィクションと現実の区別をつけていないということではないでしょうか。
ですが、今の読者が作品に触れるのは本やテレビではなくネットからです。
PCやスマホに表示されるtwitterやLINEの文字列と同等です。
しかもインターネットは架空の世界ではなく現実だとしっかり教育されています。
以前はフィクションと現実を混同するような発言をするとバカにされました。
でも今はフィクションと現実の区別をつけないことが普通になってきているのでしょうか。
そういう考えの人もいるんだなぁ、と思うけどキモイ。
一理ある。やってみるか(意思弱い系)
もち
逆転してるんじゃなくて、ここでいうメイン側は存在してるんじゃないの?
どちら側も観測できないだけで
どちらかというと、サブが拡大してきて、全体のパイが増えたというか