はてなキーワード: オリエント急行殺人事件とは
あとゆくホロくるホロ今年はどうなったんだろう
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ネットではエヴァのネタバレに対してかなりシビアになっている節がある。
理由は簡単でそういう戦略だから。長年温めて来たエヴァンゲリオンというコンテンツに対して企業が取る最も効果ある宣伝手段だと思う。
これは何もエヴァに限らない。殆どのコンテンツは発表前までその存在は秘匿される。Appleやポケモンがいい例。新IPhpneや新ポケモンのお披露目は然るべきときに然るべき場所で行うことで最大限の広報になる。
エヴァが特殊なのは、その秘匿性を公開後も維持しようとしているからだ。それによって劇場に足を運ぶ人が大勢いるのだから大成功といえる。言い換えれば、拗れたファンの信仰心を試す儀式というのが正解だろう。プペルとは全く違うがどこか似ている。
現在のSNS偏重の日本では公開前に内容がバレることすらあるのに、エヴァは公開後も映画館に足を運んで自分の目で確かめたい層がいるため、ネタバレへの過度な反応が多い。尤も公開から1週間なので沈下しつつあるが。
ただしこのようなコンテンツはエヴァが頂点であり、今後はないだろう。なぜならネタバレという行為には、あらかじめ「ネタバレを良しとしない忌避感」が備わっていなければならないだらだ。知りたくない情報があるからネタバレがあり、誰でもしれるモノはネタバレとは言えない。
ここからは俺の個人的な考えだが、ネタバレを嫌う風潮自体が今後廃れていく、もしくは主流とは言えなくなると思える。ゲームで言えば、買い切りのソフトパッケージが主流だった時代から無料アプリ内の課金に移行したように、同じようなモノでも価値観が変わっていくはずだ。
今回のエヴァ騒動で思ったのはネタバレという行動自体がコンテンツになっているということ。
エヴァはプロモーションとして冒頭12分を無料公開するなど宣伝に多くの費用かけている一方で、肝心の本編は徹底的に伏せている。今もなお。
自分のようにエヴァ世代からやや外れた人間からしてみれば、公開後にもネタバレを秘匿することには違和感がある。そしてさらに考えると、そもそも多くの作品が公開後もネタバレに敏感な風潮に気づいた。なぜ世の中に放たれた作品にもネタバレを抑制する動きが働くのか。
例えばアガサクリスティのような有名作品であっても、殺人の犯人やトリック等はネタバレとして扱われる。それは推理小説やそれを扱った作品にとって重要且つ核心に至るものだ、というのがネタバレを阻む抑止力だろう。「このオリエント急行殺人事件の犯人は~」などと読もうとする人に告げたらかなりの確率で縁を切られかねない。
だけど世の中にはネタバレを知ることに忌避感を持つ人がいると同時に、ネタバレでもいいから情報が欲しいという人間が一定数いる。具体的には作品内で猫や犬が死ぬかどうかだ。ペットをもつ人間は犬猫の死の描写に敏感になる。もっと言えば推理小説の犯人を最初から知りたい人間もいる。そういう人は作品を読むに当たり、誰が犯人なのかをあらかじめ知っておかなけれ不安になる傾向があるらしい。推理小説をラストから読む人がいるが、まさにそういう人が身近にいる。
自分は推理小説の犯人まで知りたいとは思わない。だがその作品の核となる部分や面白さをあらかじめ砕いた上で自分に合う形で取り込もうとする考えには、決して嫌な気はしない。
例えば、自分の親はポケモンGoを一人で3台のスマホを常に操っている上に、雨の日は位置情報を任意で動かして楽しんでいる。それらはポケモンGo自体の面白さを消すことになるだろうし違反ではあるが、彼らからすれば効率性や安全性の確保が重要なのだ。作品の面白さに反してでも自分に合うモノを得たいという感情は尊重するのだ。
今までは、ゲームは自分の力で攻略するモノ、小説は自分で読破するモノ、アニメは最初から最後までみるもの、という考えが偉かった。しかし、ゲームは誰かのプレイを眺めることが増え、小説はあらすじだけで済ませ、アニメは途中の話を倍速で見る、という行為も決して珍しくない
何が言いたいかというと、劇場に足を運んで事前情報を得ていない状態で自分の目で作品を見る、という行為が面白いと感じるのはこの「シン・エヴァンゲリオン」が最後になるだろうと、ということだ。映画という舞台をキチンと使ったある意味で最後の邦画かもしれない。あらすじも匂わせもなく、純粋に作品を最初から連続して楽しむという体験は、かなり貴重だ。
今後はネタバレ自体への忌避感が薄い人がいることを世間が知る段階になるだろう。そういう人は主流にならないだろうが、無視するほどではない。そうすると必然的に「答えはCMの後で」戦法は通用しなくなる。
例えば同じ作品の宣伝で「この中の誰かが死ぬ」という予告では食いつかず、aとbが死にcが犯人、と伝えたほうが受けが良いかもしれない。
コンテンツがあふれる世の中では、結末を匂わせるのではなく、ストレートに伝える手法がドンドン出てくるのではないか?
予め結末を知るか他者の言葉や感想を求めた上で自身で内容を確認する人々の声が高まれば、まず結末や誰かの死が先行し、そこにストーリーが入ってくる形が出てくるかもしれない
とりとめも無い話だが、身近にいる何人かを見ているとそうなって行きそうだ
そんな格言があるそうだが、まさにその通りだ。言語と方言を隔てているのは何かと問われれば、国家によってそれに公的な地位が与えられているかどうかだけで、本質的な違いはない。現に、気仙方言に翻訳した福音書をケセン語訳聖書として発表し、時の教皇ヨハネ・パウロ二世から祝福を受けた例もある。
そこで気になるのが、出版との兼ね合いだ。よく、海外文学やミステリを手に取ると巻末に「翻訳独占権取得」がどうこうと書いてあるのだが、たとえば「オリエント急行殺人事件」か何かをケセン語に翻訳することはできるのだろうか。つまり、出版社から「私たちに翻訳独占権があります」と訴えられたとしても、「これは日本語ではありません。ケセン語です」と言って反論することは可能なのか。
どう考えても東北方言だって立派な日本語だろう。しかし、「今日は海さ釣りっこしさ行ぐべし!」ならまだしも、「おぼっこさおづっこあげろでば」「あぞごにあったちかいぼっこしてしまったのっさ」という文字列を見て、東京弁の話者は理解できるだろうか。東北方言の話者をおとしめるつもりはまったくない。ただ、神奈川県で育った私に取っては、仮名交じり文でようやく何を言っているのか推測できるのが実情だ。ましてや、母音の発音が大きく異なる地域の場合、口頭でのコミュニケーションはそれなりに困難になるだろう。現実的にケセン語版が出るかどうかは疑わしいが、出版されたとしても、独占権を持っていた側は、現実的にはそれほど懐は痛まない気がする。
さて、こうしてケセン語が立派な言語とされ、ケセン語で「オリエント急行殺人事件」が出版されたとしよう。そうすると、今度は関西弁で出版したらどうか、などという話になるかもしれない。関西弁は立派な独立した言語だろうか。大阪府の人口は八百万を超え、ブルガリアを超える。というか、近畿全体を含めるなら、チェコ語話者の一千万に及ぶだろう。ちょっとした規模の言語だ。いや、もっと深刻な問題がある。もしも、ウチナーグチを日本語とは別の言語として認め、翻訳も出版されることになれば、自治や独立の問題を含めた政治的な問題にまで発展するだろう。私たちは別の言葉を話す、別の民族である、と。
もっとも、私が言いたかったのは、「おらおらでひとりいぐも」や「面影と連れて」みたいな方言文学、自分の日本語の境界がぐらぐらするような小説が読みたいな、みたいなことなのだ。特に後者は、池澤夏樹の世界文学全集の短篇コレクションで読んだのだけれど、東京方言とはまったく異なる語りを、感じ仮名交じり文にすることで、沖縄の言葉が全く分からない私にも理解できるようにするテクニックがすごかった。
そう言えば、円城塔が「プロローグ」か何かで、「古語とは外国語と日本語の間をふわふわ漂っているような印象だ」という趣旨のことを述べていた気がするが、僕にとって方言とは、そんな魅力を持つ存在だ。
連れが、映画館に遅れてきたのよ。
入場係のお兄さんにきいたら、思ったより予告の上映が短くて、入場した時点でもう本編開始から10分が経っていた。
映画の、しかもミステリーものの作品の、アタマ部分10分間を観ないで途中から本編を鑑賞するのは、私の神経では無理だった。
実際はその10分間が、全体の内容に深く関係なくても(そもそも映画に関係ないシーンなんてないと思ってるけど)、「最初の10分でなにがあったんだろう」という気持ちが終始先行して、ぜったいに鑑賞の妨げになる。それも致命的な。
ということで、私は座席についたものの、スクリーンを直視することができず、映画が終わるまでずっと目をつぶって鑑賞を拒否した。
気にせず作品を途中から最後まで観た連れは「面白かった」といっていたけど、私なら、最初の10分を見逃して観た作品に正当な評価をつけることができない映画を作った人に失礼な気がすると感じて、もし今回のように鑑賞を拒否せず途中から観たとしても、「最初の10分を観ない限り面白いかどうかを判断できない」というだろう。
まあ、連れとは長い付き合いということもあり、自分が遅れてきたことを謝るだけで、私のこのアスペ行為を否定したりはしなかったが、冷静に考えたらこの鑑賞拒否行為はなかなか極端なことだったのではと今になって思う。