「度会」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 度会とは

2010-09-05

プラチナウインドやりたい。

懐かしのミルファやシリルともう一度会いたい。

中古の値段が上がってそうだなぁ。

2010-08-31

愛人を作った。

 今年で43歳。12年前に離婚子供もいない。結婚する気もなく、家などを買うこともなく安アパートで12年を過ごした。酒もタバコギャンブルもやらず、車もない恋人も8年いない。年収は650万で人並みなので金が貯まる一方なのだ。

今年の春先「俺の人生これでいっちょ上がり」と思ったら無性に寂しくなり。なぜか「愛人が欲しい」と思った。

 サイトで募集し、35歳の人妻から16歳の高校生まで応募があり何人かと面接した。

 19歳の「ぷちアイドル」(??)の人に決めた。黒髪で見た目AKBっぽくって、おしゃべりでスタイルがイイ!

面接のあと「愛人になってくれますか」というと「まじっすか!やったー!!」と喜んでくれた。アイドルオーディションに受かったような喜びようだった。

 最初サイトを通じて提示した条件は月に3-4度会って15万円。愛人の間は彼氏を作らない。彼女の部屋に泊まれる。(俺の部屋は安アパートなので無理。妻がいるという偽設定を使っている。)

交際して3ヶ月が経つけど、ほんとに若い愛人はいい!

 くだらないことでも超感動してくれる。「太陽って50億年くらいするとものすご膨らんで地球飲み込まれるんだよ」とかいったら、泣きそうになるし。

ちょっと高い店(一人2000円くらい)でもすごく喜んでくれる。

 これで年間180万円、これが安いか高いか?私は安いと感じる、むしろ、この程度で彼女を拘束していいのかとさえ感じる。勝間和代結婚経済的合理性を性行為もふくめて著書で語っていたけど、どう考えても愛人を作ったほうが経済的合理性を感じる。毎日セックスしたいわけじゃないし、オナニーもしたいんだ。一人にもなりたいんだけど、寂しい。

 もちろん恋人でもいいけど、若い愛人は本当に生活に張りを与えてくれる事がわかった。もしかして彼女性格によるところも大きいかと思うけど、若い子は彼女のような好奇心旺盛な子が多いと感じる。これからどうなるかわからないけどしばらくこの契約を続けてみたい。

 

2010-08-25

2010年8月25日水曜日) 「さようなら

忘れもしない今年の5月18日武蔵野赤十字病院循環器科医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。

確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIPET-CTなどの精密機器検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。

宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。

一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。

手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書最後サインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。

ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。

妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれカレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界シーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。

少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい

さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師看護師ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。

生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回り人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。

死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメ世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。

出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏わがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。

私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。

しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。

自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。

一番の心残りは映画夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏原作脚本キャラクター世界観設定、絵コンテ音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。

私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏アニメーション監督としても幸せ者でした。

両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。

それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。

両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。

ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました

親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。

両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。

最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。

気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。

そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。

さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。

じゃ、お先に。

今 敏

------------------------------------------------------------

http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565

無断転載しました。ごめんなさい。

2010-08-24

とても独善的で頭の悪い人の心の声

長年付き合った彼女とひょんなことから別れてしまい、

その寂しさを埋めるべく、とても安易に、簡単に新しい彼女を作った。

新しい彼女は中々頭のよろしくない子で、

やれ「昔の浮気相手(?)からヤラないか…と誘われて困る」だの、

「私の事が好きじゃないから仕事を優先するのね…」だの、

そんな事付き合って一ヶ月の彼氏に言うか!?

心の理論という概念がないがなもし‥

(それともこれが普通なのか?良く解らんよ女は)

まぁ何が言いたいかというとだ、安易に物事は決めちゃイカンということだ。

多少は吟味をしよう、何事も。

往々にして僕は簡単に手に入るものへ安易に手を出してしまいがちだけど、

それがとんでもない毒りんごって可能性もあることを理解しよう。

頼むぞ明日自分

さて、どうやって別れるか思案中。

その考えはキライだ!っていうのが一番いいのかどうなのか。

はぁ別れてしまった彼女にもう一度会いたい…

ゴミのような思考回路なのはよくわかっています。

ただ何らかの形でガス抜きをしたかったの。

2010-08-22

クズに関わりすぎてクズになる

二年近く二股かけられてた。

ポジションとしては俺が彼氏で、もう一人「彼氏いないから」って言って遊ぶ男がいた。

発覚してキレたけど、まだ好きだったから、どうするのか選ばせた。

女は、浮気相手の方に行って、浮気相手と付き合うことになった。

俺もすぐに他の彼女が出来て、時間が経てば忘れられるなぁと思ってた。

でも、女からのメールはずっと来てた。

俺が他の人と付き合うのが気に入らないらしい。

あるとき、ひょんなことから、女が本当は俺を好きだったこと、俺を選びたかったけど怒ってて怖かったから浮気相手に流れた、みたいに女がネットに書いているのを見つけた。

揺れた。

度会って話がしたいと伝え、会った。

女が言うには、浮気相手と付き合ってるけど、本当に好きなのは今でも俺で、浮気相手といても俺のことばかり思い出しちゃうとのことだった。

俺は、俺と付き合うかどうかは別にして、そんな状態で浮気相手と付き合うのは失礼だと伝え、そして、俺にも彼女がいるのに、浮気相手と別れてやり直そうと言った。

心のどこかで、コイツは浮気相手と別れられないだろうと高をくくっていたのだが、女は本当に別れた。

そして俺も、彼女と別れた。

ヨリが戻ってしばらくしても、浮気相手から女にメールが来たりしてた。

詳しく聞くと、女も返信したり、何回も着信来たら出ちゃったりしてるらしい。それで何回も喧嘩になった。

浮気相手と、俺の元彼女が繋がって、会ったりしてるのが気になるのもあると言っていた。

ただそれは、フラれて辛い所を、同じ境遇の俺の元彼女と話したりしてた模様。

連絡したりしていたら、ずっと続くだけだから、連絡取るのやめろと言った。女も了承した。

ちなみに俺は浮気相手とも元彼女とも、全く連絡を取っていなかった。

ある日、夕方からデートの時、女が昼間、浮気相手とSkypeで話していたのを知った。

終始言葉を濁していたので、浮気相手に連絡して、事実を聞いた。

怒って、女をひっぱたいた。不思議浮気相手に対する怒りは湧いてこなかった。

騒動になっていると知った浮気相手が、俺の元彼女を連れて、女の家にやってきた。

自分の家にあった荷物とかを突き返して、未練を断ち切るつもりだったらしい。

その後、四人で話すことになった。

その前に、俺がひっぱたいたことで嫌になったのか、女が

「俺と一ヶ月だけ会うのやめる」

「一ヶ月の間に浮気相手のことを忘れる。浮気相手とも連絡取らない。そうしてから付き合えば喧嘩にならないで済むし」

と言っていたので、四人で話した時に俺の口からそう伝えた。

浮気相手は心中穏やかじゃなかった模様。

そして、ドロドロの二幕が始まった。

翌日、女から、俺と浮気相手の二人にまとめて、「二人のことが好きです。苦しめてごめんなさい」という内容のメール

そんなメールを貰った浮気相手は、当然忘れることなど出来ず、更には俺と女が別れたと聞いた元彼女も入れて、ドロドロの四角関係に。

俺はキレて、もう降ります宣言。

実際には降りられなかったから、浮気相手と元彼女には「降りると宣言しちゃったけど、やっぱり女が好きで、一ヶ月後また『付き合おう』って言われたら、今の気持ちじゃ付き合うかも知れない」と伝えた。

そうして一ヶ月。

一ヶ月の間、浮気相手と連絡を取らないはずの女は、結局浮気相手と会ってドライブしたりしていた。

女としては、色々ゴタゴタがあったから、もう約束を反故にしてもいいのかと思った、だそうだ。

その一ヶ月の間に、俺が元彼女と会ったりしていたのもあって、なら私も、と思ったらしい。

俺には、浮気相手とはもう絶対付き合わないし、きっぱり別れる。そうじゃないとキツイ思いさせちゃうし。とか言っていたのに、結局両方をキープ出来る状態にしていた。

俺は、精一杯その女が好きだと伝えて、一ヶ月の間に何度もセックスした。

最初は「ダメだよ」と言っていても、最後には「ねぇ、入れないの? 入れて」と言ってくるような女だった。

そして、浮気相手に隠していたであろうそ事実を、浮気相手に伝えた。

これがこの女ですよ、と。

俺と会って話しただけで、何もしてないとか、そんなことを多分女は言っていたんだろうけれど、自分から呼んで自分の家に俺を泊めて、平気でセックスするような女ですよ。その二日後あなたとドライブして、その二日後また俺の家でセックスするような女ですよ、と。

浮気相手は完全に女のことを信用すると言ってしまっていたので、呼び出してセックスして泊めた日の写真を、証拠として添付して。

その後、浮気相手と女がどうなるかは知らない。

俺は、とりあえず行動したことで踏ん切りがついた。

この女に関わるのはこれで最後

もっと早くに切り捨てられれば、俺もここまで墜ちないで済んだのに、結局同じクズなっちまった

2010-08-04

夏になると思い出す青春

彼女との出会いは、俺が中学生夏祭りだった。

友人と遊び終えた帰りのこと。

道端に黒いドコモ携帯電話が落ちているのを見つけた。

それを交番に届ければいいのに、何故か公衆電話BOXの近くで持ち主を待ってた。

20分くらい待って、一人の女性BOXの中に飛び込んでいった。

もしかしてこの携帯電話の持ち主は彼女かもしれないと思った。すごく何となく。

だから手にしている携帯電話が鳴っても驚くことは無かったけれど、

「もしもしすみませんこれ私の携帯電話なんですけど!」

受話器を取った瞬間に一息で叫ばれたのには驚いた。

「近くにいますよ」と言ってBOXに手を振ったが、

その女性は人が多すぎて俺に気づかないようだった。

なので俺は近くまで行って、コンコン、とドアを叩いた。

彼女は急いで受話器を置いて、慌ててドアから出てきた。

「わーありがとうございます本当にすみません!」

この時初めて彼女を見た。ぶっちゃけて言えば一目惚れ。

年齢は中学生高校生くらい。

顔は今で言う鳥居みゆき似だけど、色々と無法地帯

体型はパーカーで上手く隠されていた。でも見た感じ中肉。

服は夏なのにだぼだぼのパーカーボロボロジーパン

リュックからはぬいぐるみが顔を覗かせていた。

彼女には勿体ない、もう少し頑張りましょう、そんな言葉がお似合いだと思う。

俺は携帯電話を手渡してすぐに帰ろうと思ったが、彼女に呼び止められた。

「お礼をしたいから連絡先を教えてください」

気になる女性にそんなこと言われて教えない男子なんていない。

だから電話番号を教えて、すぐにその場を立ち去った。

数日後、あの時の女性から電話がかかってきた。

「この間はありがとうございました。送りたい品があるので、とりあえず住所を教えてください」

俺は考えた。もしここで住所を教えたら、もう会わないかもしれない。

そう思ったので、一度会うことを提案した。


一週間後、あの時の電話BOXの前で待ち合わせをしていた。

俺は待ち合わせの30分前に着いていた。彼女時間ぴったりについた。

はっきり言ってノープランだったので、すぐ近くの公園へ行った。

ここで初めて彼女の年齢を知った。まさかの小学生。びっくりした。

他愛もない会話をした後鳥居は、

「お礼は何をしようか迷ったんですけど・・・」と言いながら、

リュックの中から何かを取り出そうとしていた。

「あれ?忘れちゃったー・・・」必死になって探している鳥居に、俺は名案を出した。

「じゃあ俺の言うこと聞いてくれる?」

「はい、何ですか?」

「・・・つきあってください」

「は?」

突拍子もない声が漏れた。そりゃそうだ。

二度目ましての相手に告白されるとは思いもしない。

鳥居は俯き、「それは無理です」と言った。

「まだ会ってちょっとだし、恋愛とか考えたこと無いから無理です」

俺はすかさず「ケータイ拾ったの誰だっけ?」と言った。

彼女はしばらく考えた後、「わかりました」と頷いた。

ほぼ予定通り彼女をGETだ。


そんなこんなで始まった鳥居との交際。

どこかにデートもいいんだけど、俺はまず鳥居を綺麗にしてやろうと思った。

勝手に『鳥居改造計画』なんて名前をつけたりした。

鳥居はお洒落のおの字も知らないような女だった。

服は着れれば何でもいいと言うので、俺のバイト代で服を買ってやった。

無駄毛処理はしたことないと言うので、剃刀でどこを剃るべきか教えた。

化粧なんて興味無いと言うので、女友達を呼んで化粧の仕方を教えてあげた。

痩せなくても生きていけると言うので、せめて毎日筋トレするように言った。

何をしても鳥居はやる気を見せなかったため、

「もし10kg痩せて綺麗になったら好きなものを買ってやるよ」と言ってしまった。

これが間違いだった。1年後、彼女は前より断然綺麗になって、

63kgあった体重が47kgまで減ったと喜んでいた。

鳥居GUCCIの財布が欲しいと言ったので、渋々買ってやった。

パソコンを買うために貯めていた資金が消え去った。


鳥居は変な奴だった。いや、天然だったと言った方がいいのかもしれない。

いつもボーッと空を眺めて、何かを考えていた。

勉強をしていても、話をしていても、すぐにタイムスリップしてしまうので、

「人の話はちゃんと聞けよ」と注意した時、

最初不安そうな顔をしていたのに、次第に笑顔になっていった。

「何で怒ってんのに笑ってんのw」と言ったら、「怒られるの好きー」と微笑んだ。

たまに買い物へ行くと、必ずぬいぐるみコーナーへ吸い寄せられていった。

ペットとか買えば?動くしかわいいじゃん」と言ったことがある。

すると彼女ぬいぐるみを見つめたまま、

「だってぬいぐるみは死なないしょや」と笑顔で答えた。まぁ、そりゃそうだ。

鳥居は家にいるとくっついてくる。

俺がソファで本を読んでたら、すぐ隣に座って本を読みだす。

二人でゲームをしているときは、俺の前に座り、背もたれのように使われる。

寝ている時は抱き枕替わりにされ、冬は暖房器具とされた。

たまに鬱陶しくなって、「あーもーどっか行け!」という度に鳥居は喜んだ。

なのに鳥居キスが嫌いだった。もちろんセックスも。

何度も拒絶され、何回かしたことはあるが、鳥居は深刻な顔をしていた。

その一方で大人っぽい面もあった。本当にこいつは俺より年下なのかと疑うこともあった。

何でも一人で解決したがって、俺が聞かない限り悩みや不満を言わなかった。

「もっと頼ってよ」と言っても鳥居笑顔で、「だって悩みなんて無いもん」と返されて悲しくなった。


付き合い始めてから約4年、俺は大学生鳥居中学生だった。

交際は順調で、別れを切り出すほどの喧嘩なんて無かった。

俺はこれからもずっと鳥居と一緒にいたいと思った。それは結婚という意味で。

だからある日、いつものように自宅デートをしている最中、俺は伝えた。

結婚を前提に付き合ってくれませんか」

ぶっちゃけて言えば確信があった。絶対に鳥居はOKする。でも現実はそううまく行かなかった。

「ごめんなさい」

俺は何となく予想できた。まだ中学生だからとか、結婚なんてよくわからないとか、

そんなことをきっと鳥居は考えているのだろうと思った。

「俺のこと嫌い?」わかりきっている答えを聞く。

「嫌いじゃないよ」やっぱり。

理由がわかったつもりでいたので、それ以上詮索することは止めようとした。

けれどやっぱり気になって「何で駄目なの?」と聞いた。そしたら鳥居は話し始めた。

「私は俺のことが好きだよ」

「でもね、俺は私にとってのお父さんなの」

そう喋ってる途中から涙が溢れてきて、言葉が詰まっていた。

俺は想定外の理由に驚いた。意味がわからなかった。

だから鳥居が少しずつ話すことを聞いているしかできなかった。

鳥居は3歳の時に父を仕事中の事故で亡くし、母親の手で育てられた。

そのせいか父に強く憧れていた。小さい頃は薄らとしか考えていなかったけれど、

年齢を重ねるにつれて、父の存在意識することが多くなった。

そんな時に俺と出会い、最初男性と接することに戸惑っていたけれど、

俺の振る舞いが理想の父親像にそっくりで、いつしか俺と妄想上の父を重ねてしまっていたらしい。

それで俺は気づいた。疑問だったことがすべて繋がった気がした。

だから鳥居は、生命が途切れることのないぬぐるみを好み、

人生や生死について真剣に考え、恋人同士がする行為全てを拒否していたんだ。

プロポーズを失敗した悔しさ、鳥居の悩みに気づいてやれなかった悔しさ、この状況をどうすることもできない悔しさ。

それらが全て浮かび上がって、俺も泣いた。

鳥居にごめんと謝りながら。鳥居もごめんなさいと謝った。


その後俺は考えた。

父親としてしか見ていないのならば、結婚したら夫婦となるわけだから、

関係ないんじゃないの?父になるんだし。って思ったこともあったけれど、

きっと鳥居時間は3歳で止まっているんだろうと考えれば、少しわかった気がした。

もしかしたら最初から俺のことなんて好きではなかったのかもしれないとも思った。

半ば強制的に交際を始めたわけだし、嫌気がさして嘘を言ったのかもしれない。

でも鳥居は嘘をつくのが苦手だから、それは無いはずだと思った。そうだと思いたい。


鳥居との関係は、俺の海外留学をきっかけに自然消滅した。

というか、俺が逃げたんだ。鳥居の背負う過去に気づいたあの日から。

だって勝てる筈が無い。鳥居妄想に恋してる。妄想が解けない限り、俺は鳥居から愛されない。

それならいっそ鳥居を捨ててこの世に腐るほどいる女性と交際する方が良いと考えた。

それから何人かの女性と付き合った。

鳥居とは違ってかわいいし、一緒に色々な場所にデートに行けるし、すぐやらせてくれるし。

いいことばかり筈だったけれど、どうしても鳥居彼女に重ねてしまう自分がいた。

鳥居だったらあーするだろうな、こんなことはしないだろうなって、常に意識してしまう。

もうここまで来ると、一種の鳥居病なんだろうなと自分で思っていた。

そのせいで彼女ができても長くは続かなかった。

俺はもう鳥居しか愛せないと思った。

けれど鳥居はどこにいるのかわからない。


そんな状況が続いて早3年。先日増田を読んでいたら、こんなのを見つけた。

「生まれて初めて父の死因を知った」

この増田を書いたのは鳥居かもしれないと思った。すごく何となく。

もちろんこれは俺の妄想だ。

鳥居妄想で生きていくなら、俺もそうしていいだろう?

2010-07-29

http://anond.hatelabo.jp/20100729084246

「彼らとの思い出がまたひとつ増えた」と考えるのは?

亡くなった知合いがしょっちゅう来るときが私にはあって、慣れてしまったせいか「今度会ったらなんの話をしようかな」と思う自分に気がつき、ぎょっとすることがある。

ぎょっとしなくてもいいのかわからない。なんとなくぎょっとしたほうがいい、と思ったりする。

2010-07-06

父と母のなれそめ

父が出張中に、汽車の中でたまたま出会った母に話しかけ、出張の帰り際にもう一度会約束を取り付け、それから文通を経て結婚に至ったらしい。

その二人から生まれた俺は、見ず知らずの女性に話しかけるなんてこともできず、学生じゃなくなったら女性と知り合う機会も激減し、婚活するほどの甲斐性もないから、たぶん一生非モテ

2010-06-07

前の彼女と別れた理由はちゃんと答えるべき…だったのかな。

出会ったばかりだけど、エッチをした子がいた。

すごく可愛い子で、はっきり言って何でこんな子が

オレの事を気に入ったんだろうって不思議に思っていた。

 

そういう事を考えるもんだから、一緒に居ても不安だった。

ただ、寂しい時にたまたま目の前にいた好みの顔した男がオレだったって

だけなんじゃないかと。

今は暗がりだからいいけど、日の下に晒されたら全然好みじゃない

なんてことにならないかって。もう結構歳だし。

 

その子はやたらと、「何で彼女いないの?」

「何で前の彼女と別れたの?」っと聞いてくる。

 

何で彼女いないか?なんでだろう…。

なんとなく自分でも上手く説明できなくて面倒でもあるし

なんか真面目に自分の思ってる事を言うのも恥ずかしかったので

適当に「出会いがあんまりなかった」「仕事が忙しかった」とかいう

お決まりの事を言って凌いだ。

 

何で前の彼女と別れたのか?

これはちゃんと説明できる。

できるけど、こういう過去を語るのってあまり好きじゃなかった。

変かもしれないけど、別れた彼女とオレだけの秘密というか

それ以外の人が知る必要があまり感じられなかった。

 

もちろん、かっこよく言う事はできるけど

それでもやはり別れを告げたのは自分でも

原因も自分にあると本気で思っていた。

オレは年下だったし、当時は若かった。

一言でいうと結婚するだけの甲斐性もなければ

まだまだ遊びたいって気持ちもあった。

束縛がきつかった。浮気風俗は当然ダメ

それはいいとしてケータイまでチェックされる。

ちょっとした事ですぐに怒るし、一度怒ると機嫌を直してくれなくて

週末、会えるのを楽しみにしていたのに台無しになる事も多かった。

もちろん、怒られるってのはオレが悪いんだろうけど。

当時は、なにもそんなに些細な事で怒って

しかも、ずっと機嫌直さないまま週末を過ごすのがきつかった。

 

それでも、これは自惚れかもしれないけど

ベタ惚れされてた。優しい時はものすごく優しくて楽しかったし

幸せだった。

 

ま、いろいろ男女関係なので複雑だ。

 

オレはこんな事を事細かに言うのもなんだし

そうは言っても元カノの事を悪く言うのも嫌だし

オレ自身が、甲斐性なしで、もっと遊びたかったなんて事を

言えなかった。

 

なので、これもまた適当に誤魔化した。

 

でも、これは本当はそうするべきじゃなかったのかなっと思い返した。

 

好意的に捉えると、元カノと別れた理由を聞くのって

元カノと同じ轍を踏まないよう、彼女なりのリサーチだったんじゃないかと。

もしそうならなんて健気にオレの事を考えてくれているんだろうと。

意を汲んで、もっと真剣に言うべきことは言って

彼女を安心させてあげるべきだったし、今後のお互いにとって

気を付けるべき点、むしろこうしてくれると嬉しいみたいな話しを

した方がよかったんじゃないかな。

 

もちろん、憶測で単に興味から聞いてるだけかもしれないけど。

 

ま、もうこちらから連絡しても返事が返って来ないんだけどね。

あれだけいろいろ今度あそこ行こう、今度会ったらこんな事しよう

なんて話してたのに、彼女にとっては一夜だけだったのかって思うと

結構、ふかくグサっとくるものがある。

こんな事はよくある事…と思ってはいても、好きになりかけてたというか

好きになっちゃってたんだろうな。

 

だからこうやっていろいろ後悔が出てくる。

たぶんこんな事は決定的じゃないだろうけど、それでも

前の彼女と別れた理由はちゃんと答えるべき…だったのかな、とかね。

 

つらいなホント。うん、ほんとつらい!

2010-06-06

何かを志半ばで辞めることを俺が全力で肯定する。

例えば部活とか会社とか一度自分で決めたものを辞めるってことに対して世間の風当たりは強い。風当たりが強いだけに辞める本人も罪悪感、自己嫌悪、情けなさを感じて疲弊してボロボロになって辞める。逃げる奴は逃げる事を繰り返す。いつまでたっても充実感のない人生になる。組織に属しているといつも自己嫌悪に苛まれている。そんな俺の人生を俺を例に俺が全力で無理矢理肯定してみる。

俺は子供の頃から何をやっても続かない子だった。運動音痴のくせにすぐにいろんなスポーツに手を出す。しばらくたって辞める。これの繰り返しだった。勉強も特に結果を出せず、特に興味のある学問もなく、ただだらだらと塾へ通い、惰性で中途半端勉強しては平均点くらいで留まる奴だった。高校ではついに勉強すらもあきらめ退学しフリーターになりバイト半年周期くらいで転々とし金が貯まっては2ヶ月くらいNEETになり、また求人広告を探し始めるといった毎日だった。時間ができればパチスロばかりやっていた。本当に何をやっても続かなく目標のかけらもない10代だった。

20代にさしかかっても明確な目標なんか見えてなかったがてとにかく一念発起一発逆転しなければならないと強く思い、極道の妻から弁護士になった人の本を読みモチベーションを高め、とにかくバイト求人広告で一番時給の高いプログラマとかSEなるバイトが割がいいということで素人でも簡単に取れそうな MicrosoftWord,Excel,Access資格をとってデータ入力バイトを得てそこの社内公募から技術部へ入ってLinuxとか触らせてもらって合間に自主勉強して大学に行き、大学院に行き、就職し、就職先を1年ちょいしか経っていないが今度会社を辞める俺がいる。せっかくどん底から這い上がり社会のレールに乗ったにも関わらず俺は今回もまた例の長続きしない根性を朽ち果てさせる悪い虫が再び心の中に現れて、先輩社員からの白い目、裏切り者レッテル、根性無しの烙印を押されるのにも関わらず今まさに退職の意思を伝えようとしている。世間が見ればどう見ても俺が初心を貫徹できない根性の無いクズであることは明らかだ。

ただ何でもすぐ辞めるには訳がある。勝手意見を100も承知で言うが、全ては衝動だ。次への衝動が湧く、影響を受けやすい、常に変わりたい、新しいものを見たい、自分を変えたい、そのために生きている。明日に向かって全力疾走で走る何かが欲しい、10代に散々味わった惰性はもう十分だし惰性で生きていくくらいなら死ぬ、先が見えることをこれから何十年も会社でやり続けることは拷問に近いとすら感じた。自分は人から与えられた枠組みの中にじっとしていることはできない、いやどうせ辞めたくなるのだから迷惑がかかる、いつも申し訳ないほどに。自分でやるしかない、俺らみたいな人種はおそらく社会の中でクズ扱いされてボロボロになっているだろうが俺らみたいな社会クズクズなりに起業なり起業なり起業をしなければならない。野垂れ死んでも起業しなければならない。自分で考えた会社の枠組みの上でジタバタジタバタ新しいものを追いかけ回してひたすら技を磨いてADHDらしい発想で直感的に発想してモノをサービス付加価値を創っていかなければならない。はっきり言って俺らのような人種は挑戦する回数と行動と瞬発力は並大抵のものじゃない(長続きしないのは致命的だがうまく管理してくれる相方がいればよい)。失敗ばかりでお金も全然貯まってないけれど、これまでの人生を急ハンドル切ってきた回数、独学の瞬発力とノウハウ社会の底辺で味わった修羅場の回数、地を這い回り泥をすすって生きてきた人生経験起業というフィールドでは勝るものはないはずだ。今ここでやらずにいつやる。

辞めるという事は決して負けることではないはずだ。会社に関していえば、労働契約である以上双方のメリットがなくなれば契約は解消される。俺は申し訳ないが辞めさせてもらう。先輩方には本当に感謝しているが辞めさせて下さい。完全に完膚なきまでに組織に従属し自分の頭でモノが考えられないことに、規律や空気に徹底的に従うことにもう疲れ果てた。5年経ったらとりあえず1人前になれるから5年は我慢って言われて、この俺のゴミクズのような人生模様からそれは完全に無理ってことをわかって下さい。それよりももっと自分の頭にあるワクワクすることを死ぬ気で追いかけて自分人生をおもいっきり泣きながらもがき苦しんで生きていく。家族は飢えさせやしない、切羽詰まったらバイトだって何だってやる、俺はいつ死んでも構わない、ただ全力で泣きながら走らせてくれ。

辞めるってことは、俺の理想に向かう全力疾走プロセスにただ「辞める」があっただけだ。いくつもの出会いや別れを越えてようやく俺は自分フィールドに立とうとしている。遺伝的アルゴリズムのように評価値の高い広範囲なフィールド確率的にうろうろうろうろ学習しながら探索した結果、探し当てた一山に今一気呵成に鬼神のごとく局所探索をかけようとしている。この山にこれから登り続けるかもしれないし、もしかしたらまた辞めて他の山を探索しにかかるかもしれない。いつまでたってもダメな奴かもしれないがいつまでたってもジタバタ走り回るバカでいさせてほしい。そんな人生をただ自分だけは肯定し受け入れて胸にしまい込んで一瞬一瞬を全力疾走で駆け抜けたい。

俺は俺の人生を100%無理矢理自分を騙して騙して嘔吐しそうになりながら何とか肯定する。本当はクズなことはわかっている。

ただそうやって生きていくしかできない俺を俺が肯定しないでどうするんだ。

2010-05-18

http://anond.hatelabo.jp/20100518010659

あーそれはかなりの悪条件だね。君のスペックだけでも悪条件だけど親が決定的にきつい。

親に1度会って結婚やめた彼女の気持ちが解るし、そんな親だと知りながら(まぁ多分そこまで酷いとは思ってないだろうけど)妥協してきた彼女と付き合い直せと勧めてきた婚活会社の気持ちもわかる。その子を逃したらもう無理っぽいもの。

っつか結婚してもすぐに精神おかしい親との同居とちょっとおかしい夫に耐えられずに離婚になってたろうなそれ。

そんな家に金の心配もないのに住み続けた君もかなりおかしい。

まぁ1人で人生満喫してください。

2010-05-02

尊敬してたのに冷めた。

自分は今どき、インタビュアーとかライターに憧れてるんだけど、

ネットで知り合った人の中に、フリーライターやってるって人がいることがわかって、

文章書く仕事がしたいって打ち明けて、いろいろ聞いてみた。

どんな仕事しているのかとか、何でこの仕事始たのか、

ライターやってて楽しい時は何か、つらいときは何かとか、

学生のうちにスキルアップでできることは何か……とかけっこう話した。二週間くらいだけど。

「本気でなりたいんなら、一度会ってみる?」とか聞かれて、

仕事の手伝いとかさせてもらえるかも、って思って誘いに乗った。

渋谷の待ち合わせ場所にきて、教えてもらった番号に電話したら、

年齢に不釣合いな、若いOLが着るような服を着た女の人がこっちに手を振ってきた。

独立してフリーになってから10年近くやってるっていってたから、

30代後半ぐらいなのかな、って思ってたけど、まぁ、そのくらいの年齢の人だった。

なんかオシャレなパスタ屋に連れてかれて、食事しながら、

何でインタビュアーになりたいのとか、そんな話を一時間ぐらいした。

店から出て、駅に歩いている時に「ネットと違って大人しいね」って言われたから「緊張してて……」って言ったら、

「緊張で身体固くなってんじゃない?柔らかくしてあげるよ」って言われて、抱きしめられた。

「近くに仕事場あるんだけど、見に来る?」って聞かれて、頷いたら、手を繋がれて連れてかれた。

てっきりオシャレなオフィスなのかと思ったら、なんだかボロいマンションで、狭い1Kだった。

部屋にはパソコンと、雑誌となんかのコピーっぽい書類がいっぱい入ってる本棚だけがあって、

床には、敷き布団だけが置いてあった。抱きしめられてキスされて、寝かされて、エッチした。

挿入の時、ゴムを、食事の時に持ってきていたバッグから、取り出した。

正確にはゴムじゃなくて箱を取り出して、箱をバリバリと破って、箱の中からゴムを取り出した。

「近くにきたら遊びに来てもいいよ」って言われたけど、ボロい仕事部屋と、箱を開ける動作に、なんか冷めた。

ゴールデンウィークは、夫と温泉旅行って言ってたけど、今ごろ温泉入っているのかな。

2008-12-31

今年を振り返る(性的な意味で

今年を振り返る(性的な意味で

2008年1月 女子大生に囲まれた職場で過ごす。しかも家では一人Hできない環境毎日のように悶々としてて仕方なく風俗に行く。

裸で抱き合って口と手で刺激してもらう。コリがとれて腰が軽くなった、感謝している。3人。一人上京したばかりの田舎娘がいた、地元に残した彼氏の話を聞いて落涙しながら絶頂に達する。整形マニアの女がいて、どこまでが本当のリアルなのか帰りの電車でしばし思索にふける。

2008年2月 出張先の地方都市で暇すぎてマンガ喫茶に入ったけど、やることないのでとなりの席の子に声をかける。無視される。

2008年3月 友達の年上女性上京してきたので2日ほど過ごす。

2008年5月 GW海外に行く。悪い友人にそそのかされて初めて買ってしまう。ちょっとすさんでたからという理由もあるけど、後で自己嫌悪

1人目は日本語もしゃべれる中国出身、もち肌の美人。胸が大きいけど整形ぽい。嬌声が完全に日本人仕様なので前の仕事想像できる。再来日を狙ってるらしく日本での連絡先などを聞かれるが嘘を答える。

2人目はタイ女の子かわいいけど覚えてない。

3人目もタイ女の子。本当にかわいいアイドル並のルックス言葉はわからないのにきちんと空気読めて瞬時に笑いにつなげる。接客能力としては世界トップクラス。連れて帰ろうかと思ったくらいだった。生まれた場所が違うだけでこんな人材がこんなところで働いているなんて、と思うと落涙してしまった、どうしたの?と心配されながら達した。

2008年5月 3月友達が遊びに来たので2日ほど過ごす。

2008年6月 大阪。前からちょっと好きだった知り合いの子の家に遊びに行く。酔った勢いもあって2日。

つきあって欲しいとお願いしたけどそういう関係になりたくないと言われた。泣く泣く電話を切る。

2008年7月 元カノと遊ぶ。手と舌でお互いsharpens you up!したけど結局入れさせてくれなかった。

2008年8月 3月友達がきたので何回か。この月の後半になってもう一度会った。

2008年9月 3月友達ホテルで待ち合わせ。お酒飲みすぎてグダグダだったけど、なんとか義務を果たした。

2008年9月 元カノとご飯食べに行く。路地裏で手でいかせて部屋に入るけど、やっぱり最後は拒否された。お互い手と舌で慰安しあう。

2008年11月 3月友達の近くに出張したので会う。疲れた

2008年11月 お酒飲んでたら隣の子がしてくれない?って言ってきた。勢いよく話したら冗談もわからないの?と言われ意味不明な暗い気分になる。

2008年12月 ネットで知り合った人と会う。彼氏相談や悩み事を聞いてるうちにそういう雰囲気になる。やりそうになったけど浮気申し訳ないので泣く泣くやめる。今では連絡も来ない。思い出すたび後悔する。

2008年12月 先月から友達になってた人で、つきあうのかなと思ってた人と一回きり。この人は風俗で働くとか言い出したからもういい。

2008年12月 忘年会の勢いで風俗にいく、最後までしてくれたけど、別にかわいくもないので後悔する。

今年はいろいろあった。15人くらい。本職の人もいるからwindow periodが終わったらHIV検査でも受けに行こうと思ってる。

早く彼女が欲しい。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん