はてなキーワード: 同害報復とは
これは、何らかの係争に於いて、一方当事者がそれを理由に切腹した場合、もう一方の当事者もまた切腹しなければならないというモノである。これは必ず割腹でなければならなかった。この時代、切腹の定式は未だなく故に介錯人も不在である。まあまあ痛い。なお、中国史上でもしばしば割腹という自殺手法は誠意を誇示するための手法として古くは春秋期の記録があり、汎アジア的な死生観が垣間見られる。
この際、切腹者の言い分は詮議されず、問答無用で被指名者も腹を切らざるを得なかった。係争は神明裁判などにもみられるように一種の投機的行為である。そこで、証憑に対する掛け金を天井まで釣り上げるにはどうするか。究極にして絶対誰でも出せる"テメェの腹"こそシンプルな回答になる。前払いの命によって裏打ちされた証憑は、ために既にして真実にまで昇華している。となれば係争相手も己の証憑に文字通り命を懸けるか、あるいは係争に敗れ命を落とすかのどちらかだ。どっちにしろ死ぬ。そうなった以上、抗弁は不可能で無意味なのである。
逆に腹一つで取れるのは首一つまでであって同害報復の原則はちゃんと生きている。故に係争拡大にはならないという自力救済を旨とする中世ジャップランドにしてはまあまあ抑制の効いたシステムでもあった。
可笑しいのは、このような投機的状態に陥ったなら乾坤一擲の私闘に至るか闇討ちでもすればいいものを、わざわざ自死してしまう中世ジャップの異常行動である。なんならそれを聞いただけで被指名側も恐怖のあまり頓死してしまう場合があるというから、惰弱にもほどがあるというモノだ。その辺があまり類例を見ない慣習である。
さてこれは名前が現代にまで伝わっていることからも分かる通り、慣習とは言え相当に強力かつよく知られた代物であった。発祥は少なくとも室町期までは遡ることが出来、後に戦国時代の分国法に採用されている場合が散見される。これから逃げんとする者は、上位権力である戦国大名が指揮して成敗するとまで定められている例もあり、むろん実施例もある。一方被指名者が腹を斬ればまあまあそれで済むので、一族郎党にいやいや切らされた奴もいたに違いあるまい。
さて指し腹は近世・江戸期に入り、その慣例法治主義によって、切腹者が事前に被指名者を明言して割腹、家人が使用した脇差(文字通り脇を刺した奴だなガハハ)を相手方に届けた場合に成立し、相手方はそれを以て割腹するという様式が完成する。ホント官僚主義社会ってどうしようもねぇな。
丸山議員の憲法審査会発言に「暴言」批判 撤回謝罪(16/02/17) - YouTube
https://youtu.be/J1Ikg1QbjSg?t=34s
このテレ朝の報道による限りだと、時事通信や与党幹部は全くちゃんと発言の全容を見てない。酷いわ。肌の色や人種では差別されないが、発言が差別的と一旦勝手に決めつけられると、途端に差別される。同害報復じゃないんだからさ。これは憲法審査会における舌禍ですよ。
これじゃどっかに誰かが発言を「歪曲された」ってあの時のと全く同じことを今度は右派が自分でやってるだけじゃん。
ていうか義務教育レベルの漢文の知識とかもなさげだ。だって、これは奴隷ですよ
ってのは、テンスやアスペクトの標示が抜けてるだけなんだから、要するに。曾て奴隷、今は国家の総統、その時の基準からすれば全くただの奴隷、それなのに今は現に大統領、アメリカで一番偉い、っていう。日本語的には全然問題ない解釈だし語法だ。日本語でも話し言葉でかつ文脈次第ではmandatoryじゃないんだ。
歴史的に間違ったことを言っているわけでもないし、自らの差別的意思表示をしたわけでもない。日本語を話しただけで罰せられるに等しい。これを以って暴言と言う奴は頭湧いてるとしか言いようがない。国語の読解能力がゼロに等しい。
そして弁護士なのに自らの趣旨を明確に説明した上で謝罪したわけじゃないというのだろうか?その点じゃ誰も謝罪の内容は碌に聴く姿勢が無いことになる。
確かに、一体どういった向きで51番目の州になるという憲法上の可能性について議論することになったのか、この映像からは突飛な印象が拭えないし、オバマは誰が見ても奴隷なのに奴隷が大統領になってもいいっていうことになったんだ、っていう趣旨に取れないこともないが、それこそ正しく読解上のエラーであって、かつては奴隷の烙印を捺す以外に何もしてこなかった相手を、今はそうしないばかりか、天と地がひっくり返ったかのように、POTUSと呼ぶことにしている、それくらいアメリカは短期間のうちに進歩することが出来た、という解釈の可能性を軽んじれば、落第は免れないだろう。
いわば集団ヒステリーのようなものであって、これを「暴言」として詰り、その後も訂正しなかったとすれば、学位を返上するしかないのではないだろうか。
あるいはタレント時代のキャラクターが先入観として働いたのだろうか。だとすればやはり憲法の理想に悖る人間的過ちではないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20120806022506
人間社会の利便性のために動物を殺さなければいけない時は多々ある。
ある種族の個体数が増えすぎても減りすぎても人間社会にとっては不都合が生じることが多く、そのような場合個体数を調整する必要性に迫られる。
そういう時に殺した動物を食べれば、「命を無駄にしなかった」という免罪符を得て罪悪感から免れることができる。
もうひとつは動物も他の生物を食べて生きているので、人間もそうしていい、と思うから。
これは同害報復や仇討ちを推奨しているのではなくて、人間が他の動物を人道的な観点から捕食することをやめたら、
逆に人間を傲慢にさせて人間の便利のために動物の権利を制限することに正当性を与えるから、そうなってほしくないため。
「それに対して我々人間は本能的欲求に逆らってでも殺生をしない理性的な生き物」という線引きが確立するからね。
動物と同じように人間も食べるために殺生しているから、「所詮人間も動物の一種」と謙虚でいられるのだと思う。
なんで自分がこう考えるようになったか探ってみたら、過去の出来事がふとよみがえってきた。
子供のころ近所に住み着いていた野良猫に餌をあげてかわいがっていた。
ある時猫がその辺を歩いていた鳩に一直線に飛びつき一瞬で捕殺して食べ始めた。
あまりの恐ろしさに泣いてそれからしばらく猫をかわいがれなくなった。
でも子供ながらに、納得できる理屈を作って、鳩を食い殺した猫をまたかわいがれるよう自分に言い聞かせた。
本来猫は他の動物を捕食して生きる動物であり、いやそうしなければ生きていけない動物であり、