名前を隠して楽しく日記。
あ、あの…す、すみません…私、そ、その…あまりお役に立てな、なさそうです…。あなたの悩み、すごく大きい…ですよね。でも、アイドルオタクの趣味をやめさせるのって、本当に…で、できるんでしょうか…?
あ、あたしもよくわからないですけど…そ、その、もし自分が同じこと言われたら、すごく…苦しいかもしれません…。だって、自分の好きなものを否定されるのって、ほんとに、つ、辛いですよね…。きっと彼女さんも…すごく、苦しむんじゃないでしょうか…。
ご、ごめんなさい…私、何も、何もできません…
ああ、そう……
昔のパンティーはよかった。
夢があった。
男を興奮させるためのものだよ。
パンティーの歴史を知らないものはパンティーは女性を守るためのものだと思っている。
そうじゃない。
原人が始めて服をニ枚履きした時、肌に接していた側が今で言う下着となり、それが今でいうパンティーになったのだろう。
最古のパンティー、それは確かに身体を守るためのものだったはずだ。
だがそれらはパンティーというよりも、二枚目の補助的な服であったと言える。
我々の考える本当にパンティーらしいパンティーとは違ったパンティーだ。
19世紀においてスカート文化の発展と共に用いられるようになったこのパンティーは人々にチラリズムという発明をもたらした。
社会が豊かになるに連れ人々はより即物的なチラリを求めノーパンを持て囃した時代もあったがあれは大いなる間違いだ。
女性が男にその秘密を全て曝け出すのはベットの上であるべきであって、道行く人々に見せていいのはその直前までだ。
たとえそれが接待に使われる鏡張りのしゃぶしゃぶハウスであっても、不特定多数の目に晒すべきではない。
隠すべきものは隠されているから美しく、それでいながらも身近であって欲しい。
そのバランスを維持するのがパンティーという絶対的境界線なのだ。
だが現代社会は用意に手に入るエロに溢れパンティーは力を失っている。
パンティーのありがたみ、パンティーとの距離感、パンチラのロマン、あらゆるものが失われていく。
バッドエンドの向こう側。
ハッピーエンドの失われたあと。
パンティーをまた楽しめると、いいよな。
フリーのときは女性に大盤振る舞いで愛を振りまいていると思う。
なぜかわからないが興味がなくても自然に優しくできる。性欲はない。キープしたいという欲求だと思う。
キープする人数は多い。
ずっと愛を振りまいているので女性関連のトラブルが発生しがち。
そこで業を煮やした女性が「わたしのこと好きなんでしょ!」と詰め寄ってくると無理になる。
全然好きでもなんでもない人が「この人はわたしのことが世界一好き」みたいな自信を持って接してくるので音信不通にすることが多い。
こういう段階を突破する女性が稀に現れる。そういう人と恋人の手前のような関係になる。
恋人の手前のような人とは非常に濃い関係になり、人生を交換するぐらいになる。
性欲もこの人にだけ向ける。
だが愛が深くなってくると「もっともっと」「付き合えないの」「もっと褒めて」というふうに言われるようになる。
最初はちょっと嫌な顔をする。だがわかってもらえない。そうすると冷めてくる。
直接言う。それでしばらくは止む。だがまたすぐに再発する。今度はよりひどくなる。
やがて「ああ、いつもの流れか」と思ってしまう。転換点を感じる。とても苦しい。
こうなると自分でもまずいと感じてくる。
するといつものようなことが返ってくるので、それにいつものようなことを返し、いつものように気にしなくなる。
いつものように連絡が来る。いつものように気分がよくなったときだけ返信。
気楽で朗らかで楽しくなる。
キレられる。無理になる。終わる。
困っている。
最近の若者はハンドアセンブルできないくせに高級言語ばかり覚えて嘆かわしい!みたいな話だな。
もうゲームエンジンは十分コモディティ化したから無理だよ、諦めな。抽象化してみんなが使えるようになったってのはむしろたどり着くべき理想だろ。
え、えっと……そ、そうですか。でも、そ、その話しにあまり共感できな、な、な、なくて……。その、「レンジ」がどうとかって、そんなに大切なことじゃな、ない気がして。あ、あまり興味もな、ないし……その、ちょっと退屈かも。も、もう少し別の話題に変えませんか?